第19話 ハウリング

スエル・ドバードにある迷いの森の通り道。


セシリアは、そこで少年フィリップと傭兵を志す青年セバスティアンと出逢う。


この出逢いは、セシリアがこのスエル・ドバードにやって来て、初めてこころに喜びを見た気がするものだった。


例え、それが、フィリップとセバスティアンの計画していただっとしても..


その僅かな時間から得た感情は、セシリアに安らぎと他者とふれあう大事さを教えてくれるものであった。


そしてこの感情が、彼女の人生を大きく変えてゆくものだったのだ。


──────


フィリップとセバスティアンとの会話を終えたセシリアは、酒場ボルカに戻ろうと2人に背を向け、ボルカのある方へと歩き始めた。


その背中を見つめるフィリップとセバスティアンは、名残惜しさというより、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。


セシリアの苦しみを覗き、それを知ったフィリップとそしてセバスティアンは、どうすることも出来ないまま、その場を立ち去るセシリアを見つめるとそんな気持ちでいっぱいになったのだ。


セシリアは、2人の気持ちの入った木箱を大事に振らずに片手で持ち、もう片方で持った酒場の容器を大きく振りながら歩いていると、その大きく振った容器の反動でバランスを崩してよろめいてしまう。が、彼女は何とか持ち堪えバランスを整えて、その場に立ちすくんだ。


セシリアは、その恥ずかしさから後ろを振り返ると、馬のロウェルに跨るフィリップが今にも駆け出しそうになっていて、セバスティアンも心配そうに彼女を見つめている。


そんな2人の顔に気づきセシリアは、口を大きく開いて照れ臭ささを隠すように大袈裟に笑った。


声を出さずに、気をつけてね? と口を動かすフィリップとただじっと見守るセバスティアンに向かって遠くのセシリアは、片手に持った木箱を手前で軽く振ってお別れの挨拶をすると、曲がり道の先へと消えて行った。


────

──


「...セビィ!? セシリアこのままだと殺されちゃうよ!」


「...」


フィリップは彼女が見えなくなるとセバスティアンに叫んだ。


「見たでしょ? セシリアのあの顔をさ?」


「..うん」


「昨日の夜、あのズバルってやつが泣いて謝るセシリアを何回も何回も打ったんだよ? ...もうあんな彼女の姿なんか..見たくないよ!」


「..分かってる..分かってるよ...フィル」


「..セビィも見ただろ?! 他のアルダ・ラズムの兵士がセシリアの胸ぐらを掴んでるの? ..このままだとセシリアは...」


「分かってるよフィル...だから悪かったな? お前に覗きまでさせてしまって..」


「ううん! それはいいんだよ。...ねえセビィ? 今度は..今度はさ...兄ちゃんの番だよ? だからお願い! セシリアを助けて上げてよ?」


「うん! 分かってる...今度は俺の番だな?」


セバスティアンは、そんなフィリップの声に..


彼がずっと彼女を思い続け胸に抱えてきた、その気持ちを新たにし...


この時、決心を固めたのだ。


──────

────


昼前に酒場に戻ったセシリアは、店に入らずに先ず路地裏の通路を覗いた。いったいフィリップがどうやってハシゴを掛けたのか気になっていたからだ。本人にもさっき聞こうとして結局聞けず仕舞いだった。


彼女は、ハシゴが通路の壁に確り固定されているのを確認した。そして最も気になっていた鍵を掛けた錠である。ハシゴが元の位置に戻されているまでは理解出来た。


ただ錠の鍵はどうやったのか?


その鍵なら3階の物置部屋に掛けて置いてある事は知っているし、それを何日か前に自分の目で見ている。


セシリアは、その疑問を持って固定している錠が開けられているか確認した。


錠は確りと閉まっていた。


色々な思いはあるが..


「...どうせ新手の手品かなんかの使いなんだろうな?」


セシリアは深く考える事をやめ、代わりに固定されたハシゴに言葉をかけ酒場の出入口へ足を向けた。


───


戻りが遅かった事で、ニズルに少しばかりの嫌みを言われた後、セシリアは3階の寝室で休んでいた。


今夜は、昨日の夜の分まで客の相手をしなきゃいけない為に、今のうちに確り休んでおけとニズル言われたからだ。


彼女は、ベッドの上で壁に背をもたれさせて開けられた窓の外を眺めていた。


まるで、眺める先と眺める者が別々に切り取られたような..そんな気持ちで外を見ていた。


この日の午後は、セシリアに穏やかで暖かい風の舞う素敵な色をした風景を見せてくれた。


この外に、さっきまで居たあの外に飛び込みさえすれば、そこはセシリアの望む世界がある。


しかし、セシリアにはそれが出来ない。


── それは、絶対に出来ないのだ! ──


セシリアには、まだ返し終えていない借金がある。


それをニズルに返し終わるまでは、絶対にこの酒場を出る事は断じて許されないのだ。


酒場の店主ニズルにそう教わったのだ!


どんなにあの素敵なフィリップとセバスティアンが


セシリアにお金を貸しても、セシリアにニズルの借金がある限りは...それは、不可能なのだ。


ボルカを出るとは、そういう事なのだ。


────

──


彼女は、さっき3階に上がる時にニズルに気づかれないように運んだセビィから受け取った木箱を開けて、その中に入っているあの木の実と小麦粉を混ぜて焼いた物を口にする。


「へぇー...これは、いけてるよ!? セビィの野郎...料理も得意だなんて..相当モテるな? それにあの顔だもんな..」


ベッドの上でそう味わって食べていると、そのベッドのシーツの上に出来た赤い斑点のような染みが目についた。


それが昨日の夜、あのズバルに打たれた時に唇の左端が切れて出血して出来たものだと分かると、いましがた食べて腹の中に入っていった物が急に逆流し始め、彼女はそれを床にへと吐き出した。


──────

────

──


胸のおく..ずっとおく..深くて大きなところ


見ようと思わない気づかなくていいところ..


底から沸き上がる小さい渦を感じ、


掬い上げようとする場所...感触


他者の声の重要さは、


その存在に屈する度に力を増す..


それにより、


1人の時間を作るのこの方法は難しくなる。


自身の声は、どんどん遠くへいってしまう。


近くの声は、誰のものなのか?


呼び名は、何の為にあるのか?


あなたを呼ぶ声は、何なのか? 


ワタシは...


遠くで鍵盤を叩きメロディーが鳴ると、夕陽が夜に切りかわる。


ああ、ワタシにも鍵盤があればな...


──────

────


「おーい? セシリア? セシリアよ? 聞こえてるか? 悪いが買い出しに行ってくれんか? 明日の昼頃から明後日の朝方までこの一帯の天候が荒れるそうじゃ...だから今の内に行っといてくれんか?」


「...分かったよ」


そう下の階から聞こえたニズルにセシリアは返事をして、しばらくしてから1階にへと下りて行った。


「..で、何を買ってくるんだい?」


「..そうじゃな? 少しばかりの野菜と..2日分の牛の肉さえあれば十分だ」


「...分かった」


「では、頼んだぞ...そうじゃ! お前も買い出しのついでに何か美味しいものでも食べて来い?」


ニズルは珍しい顔をしてセシリアに促す。


「ふん...随分気前がいいな? 気味が悪い..」


「そりゃあ..そうじゃろ? なんせ今夜は、お前に明け方まで男たちに相手をしてもらわなきゃならんのだからな...当たり前じゃろ?」


ニズルの表情が、またいつもの嫌らしい表情に戻る。


「....」


「...そうじゃ? このワシもお前のその大きな乳を久しぶりに揉ましてもらおうかのぉぉ? カッカッカッカ..まあゆっくり食って来いや! ...カッカッカ...」


「...」


セシリアは、ニズルのこころのない言葉に何も応えずに酒場の出入り口を出た。


スエル・ドバードの近くにある町トーニに買い出しに出掛けたセシリアは、店の前であれこれと選んでは素材の野菜などを買い、そのトーニの町を見て回った。


(気を紛らわせる為に)


セシリアが歩いて場所を変える度に、周りの目もその彼女を何か煙たいものを見るように後を追って来るのを感じながら...セシリアがそのトーニの町を出て砂利道を歩いていると自分の帰る方向から馬車がトコトコとやって来るのが見えた。


「へぇー? いい馬だな!? まー、ロウェルほどじゃあないけどな? ..はははは」


そうセシリアは、大きな声でその馬に跨るひげを生やした男に言ったが、その男は、まるで見下すような顔でセシリアを見る。


セシリアは、その後ろの車に乗った小さな女の子とその母親と思われる女性が見えると..


「あんたたち...イルモニカに行くんだろ? なあ? きっとそうだろ? あの街はいい所だからなぁ...私も住んでたんだ?」


その明るいセシリアの声に車に乗った女の子は、あっ! と声を上げながらセシリアの顔を指さした。


それを傍らにいた母親がその女の子を覆うようにして目を伏せさせると..


「見てはいけません!」


と冷たい表情で言った。


この「見てはいけない」という言葉は、


セシリアが自分に向けられる、よく聞く馴染みのある言葉の1つであった。


さっきもそうだが、セシリアを煙たく見る者に限って夜になればその昼間と違いセシリアの身体を求めてわざわざ酒場にまで足を運ぶのである。


(そういった男をセシリアは100人以上もこの1年で見てきたのだ)


冷たい目をして見る者は、女はともかく、男たちは、昼間は子思いの良き父親を演じるものだという事をセシリアは、16歳になると同時に知った。


娼婦とは何かを、裸になったニズルの前で身を持って知ったのである。


そうやって馴染みのある言葉を聞く度にセシリアは、自分は、娼婦なんだと気づくのだ。


「私にも...」


セシリアがゆっくりと去って行く馬車を眺めていると、その方向からこっちの方にやって来る者が見える。


髪がボサボサで大変、身なりのだらしない男がたどたどしい足で向かって来るのが見えるとセシリアは何とも言えない気持ちになって、まるで貴女には...


そういった男の方がお似合いだよ? と言われた気がした。


あのイルモニカに向かったであろう馬車がもう見えない事に気づくとセシリアは、その場を走り去った。


「...フィルと..セビィに....ついて行けば良かったよ!」

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