第2話ー安心する声ー

「で、では僕も、シンシアと、お呼びしても?」


 彼が紡いだ言葉の端には微かな震えが乗っていた。

 その一瞬、言葉が耳に届く前に、胸が跳ねるのを感じた。


「はい、もちろ———」


 言いかけた瞬間、氷を裂くような低い声に遮られる。


「却下!」


 驚きと共に、心臓が一拍、二拍と早鐘を打つ。

 振り返れば廊下の光を背に一人の少年が立っていた。

 雪色の髪と氷のように澄んだ双眸。その全てが冷気を孕み、見るものを一瞬で静止させる。


「ダメに決まってんだろ?お前、何考えてる」


 低く、しかし明瞭な声が廊下の空気を振るわせる。


「フィーゼ…?」


 シンシアの呼びかけに彼はスッと二人の間に入り込む。

 まるで氷壁が立ち塞がるように、自然とシンシアを庇う姿勢をとったのだ。


「お前、何?ウチのに一体何の用だ?」


 ———…??


 この雪色の少年の言葉が、思わず引っかかった。


 キーユの目が一瞬だけ揺れる。が、すぐさま穏やかな笑みに戻った。


「ちょっ、フィーゼ!口の利き方に気をつけてっていつも言ってるでしょう?」


 シンシアは慌てて仲裁に入る。その柔らかな声に、凍っていた空気がわずかに溶けた。


「キーユさん、ご紹介します。彼は私の従者、フィーゼ・セライド。私たちとも同じ学年です」


 従者の名前が呼ばれた瞬間、空気はさらに澄み渡る。


「なるほど、従者、ですか」


 キーユは静かに息をつき、そっと胸に手を当て呼吸を整えるのに努めるのだった。


 ———…。


 その響きがやけに胸の奥をくすぐる。


 無意識に笑みを作ったその瞬間、雪色の彼が鼻を鳴らした。


「ちなみにクラスも同じな!」


 彼がドヤ顔を見せてくる。

 キーユは「左様ですか」と、どこまでも涼しい顔で返してやった。


 しばし彼との間で静かな火花が空気の奥で小さく弾ける。


 ———フィーゼ。

 雪導き、冬をもたらす者。

 雪色をした彼の容姿にピッタリだ。


 目の前の彼をじーっと見据えながら、淡々と、しかし確かにそう思う。


「なんだよ、じーっと見て。俺の顔に何か?」


「いえ、ただ君を見ていると、まるで雪が人の形を成したかのようだと思って」


「…は?」


 褒め言葉かどうかはかりかねて固まるフィーゼ。目の前の男は相変わらず涼やかに微笑み、思考は容易に読めない。


「君は雪のように綺麗だと言っているんです」


「んなっ?!っざけんな!」


 背筋にはゾワッと寒気が走る。その反応をシンシアは「まぁまぁ…」となだめる。


「よかったじゃない、フィーゼ。綺麗だって言ってもらえて」


「お嬢まで…っ、男に“ 綺麗だ ”なんて言われて、何が嬉しいんだ」


 従者はため息混じりにやるせなく顔を背ける。


「それでもう少し品が備わってくれるといいんですが。———ねぇ?公女殿下の従者さん?」


「っ、にしてやろうか、テメェ!」


 フィーゼの手元から氷の結晶が生まれた。刹那、空気がひりつく。

 キーユはただ、目が奪われるのだった。


「フィーゼ、やめなさい!」


 シンシアの声に、氷は砕け散り、光の粒となって宙に消えた。


「そういうところだよ。キーユさんが言ってるのは」


「す、すまん…。っ、いや、ちがう!———お嬢は口を挟まんでくれ。調子が狂う…」


 頭を掻きむしる従者を見て少女は小さく呆れ笑う。

 どうやらキーユとフィーゼの間に漂う緊張に気づいていないのは、彼女だけらしい。


「そういえばおま——、貴方にはご挨拶が遅れましたね。僕の名前は———」


「おい、今、って言わなかったか?」


「気のせいでは?」


 軽く受け流すキーユに、フィーゼは舌打ちする。


「まぁいい。お前、キーファン・ヘウンってんだろ?確かさっき講堂で挨拶してたヤツ」


「えぇ、僕がその挨拶してた者です。貴方はフィーゼ様、でしたっけ?以後お見知り置きを」


 差し出された手にフィーゼは一瞬反応したが、答えは返さない。

 その様子を見て、シンシアは小さくため息をつく。


 ———まるでどこかで見た光景のようだ。


 先ほど自分とキーユの間でかわしたぎこちない会話。

 今度は二人でそれが再現されている。

 主従ともに似たもの同士なのだと、少女は思わず苦笑した。


はやめろ。主が付けで、従者の俺が呼ばわりは色々とよろしくない」


「そういうことはよくわかっていて安心しました、“ フィーゼ ”。僕のことはキーユとお呼びください。君の名前は確か、順位表の3に載っていましたね。おめでとうございます」


「ハッ、そりゃどうも。別に俺にも付けでもいいんだぞ?」


 貼り付けた笑顔で答える従者。


 1位におめでとうと言われても屈辱なだけだと、キッとキーユを睨みつける。


「ったく、中等部の時はお嬢と俺で1位2位を独占してたのに…、お前なんかがお嬢よりいい点取るから!」


 シンシアは「やめなさい!」と従者を制しながらも、心の中で切に願う。

 ———どうかこれ以上傷口を抉らないで、と。


「構いません。結果とは努力の証ですから」


 そう微笑むキーユ。その穏やかさがかえって火に油を注ぐ。

 フィーゼはハッと息を漏らし、懸命に言葉を飲み込んだのだった。


 やがて3人は教室に着く。

 キーユがドアを開き、シンシアを先に中へ通すと、フィーゼも得意気に続く。

 彼は表情を崩さず静かに後に続いた。


 扉が閉じると同時に教室のざわめきが止んだ。

 次の瞬間、女子生徒たちが雪崩のようにキーユの席へ押し寄せる。


「うわぁ、キーユさん人気…」


「ケッ、女どもに囲まれて何が嬉しいんだか」


「フィーゼ、言い方」


 蚊帳の外から眺める二人をよそに、女子生徒からキーユへの質問攻めが始まる。


 ———ヘウン様と呼んでもいいですか?


 ———出身地は?


 ———好きな食べ物は?


 一つ一つ笑顔で応じるキーユを、シンシアはただ静かに見守っていた。その横でフィーゼはひとつため息をつくのだった。



 ♢



 ———その日の放課後、夕日が廊下を染め始める頃だった。


「…じゃ、先行ってるな」


 HRを終え、フィーゼはシンシアを置いてそそくさと教室を後にした。

 その背を見送り、シンシアが一人廊下を歩きだすと、柔らかな声が風に乗って届く。


「…シンシアさん!」


 思わず体が小さく硬直した。振り返ると、キーユが駆け寄ってきていた。金の髪が夕日を受けて煌めいていてとても美しい。まるで光そのものが形を成したかのように美しかった。自然と緊張は解ける。


「これからお部屋に戻られるんですか?」


 その問いに、えぇ、とだけ返事をする。


 この学園は全寮制で、爵位によって建物は分かれ、部屋の広さや置かれる調度品も異なる。

 伯爵以下の子爵、男爵は2人以上の相部屋。

 それより上の公爵や侯爵には、1人部屋が与えられているのだった。


「あれ、キーユさん、女子の皆さんは?」


 さっきまで彼を取り巻いていたクラスの女子たちは、今は誰一人として見当たらない。


「ハハッ、シンシアさんまで…」


 彼女の素朴な疑問にキーユは苦笑いを浮かべる。


「巻いてきましたよ。

 そう言うシンシアさんも、お一人、なのですか?フィーゼは?」


 キーユは視線を巡らせるが、従者、フィーゼの姿はどこにもない。


「フィーゼはいつも授業が終わると先に寮の部屋へ戻り、掃除やお茶の準備をしてくれているんです。授業が終われば従者に戻るから———って」


「忠実な従者なのですね」


 一応は、そう言っておいた。


 とはいえ、だ。大事な主を一人にするとは、一体何を考えているのか。主を護れずして何が従者か———疑問を覚えずにはいられなかった。


 訝しげな表情のキーユを見て、シンシアは少し慌てて弁解するように言葉を紡いだ。


「彼、仕事を優先して、部活もしないんです!

 とってもありがたい限りなんですが、私のせいで、彼の自由を奪ってるようで、申し訳なくて」


 彼にも自分の時間を気兼ねなく使ってほしい———そう思うのだが。


 少し困ったように笑うと、力無く一つ息をついた。


 そんな彼女に、キーユの目がわずかに見開かれた。



「シンシアさんは、心が、とても清らかでいらっしゃるのですね」



「きよ———っ?!いえ、そんなことは!」


 慌てて首よ振る少女を、キーユは優しい眼差しで見つめた。



「主にそんなふうに思われている従者は、さぞ幸せでしょうね」



 柔らかく響くその声は、少女の心にも優しく溶けていく。固くなっていた表情は、少しずつ和らいでいった。



 ———彼が羨ましいです。



 キーユが付け加えたかった言葉は、声になることはなく、唇の端からこぼれ落ちた。


 それに応えるように、少女はポツリポツリと語り出す。


「私、幼い時は従者がいなかったんです。フィーゼは私にとって、の従者なんです」


「…初、めて?」


 次々に明かされる言葉に、キーユは少し戸惑った。


「確か私がこの学園に入る頃だから6歳くらい…。私は初等部からなので。それまでは掃除や洗濯も全部自分でやっていました」


 少女の言葉にキーユはやるせなく一つ息をついた。


「あ、ごめんなさい。こんな話、つまらな———」


「では、お二人が出逢われて、そろそろ10年なのですね。とても仲がよろしいようで、見ていて微笑ましいです」


 少女の言葉を遮り、キーユは穏やかに微笑む。その声表情は、自然と彼女の表情も和ませた。


「まぁ、フィーゼにしてみれば、私はただ主でしかありません。10年というのもただの腐れ縁です。学園に来てからは四六時中、ほぼ一緒にいるので、自然とこんな関係に」


「四六時中、一緒に」


「…キーユ、さん?」


 少年はどこか物憂げに少し目を逸らしたように見えた。


「だから仲良しというよりは、よき理解者と言ったところでしょうか。こんな私なんかのことを10年も飽きずに支えてくれています」


「よき、理解者…」


 キーユは今度は目を伏せ、その声をさらに小さくした。


 ———そんな時だった。


「キーユさんってこれから部活ですか?」


 唐突な問いに少し驚きつつも、少年は答える。


「いぇ、部活にはまだ…」



「それならぜひ、部屋にいらしてください」



 一言で、廊下の空気は一瞬静止した。だが、目の前のその人はまだ続ける。


「フィーゼが淹れてくれた紅茶はとっても美味しいんです!付け合わせのお菓子も。———あ、お菓子はフィーゼの手作りで…」


「本当に…よろしいのですか?僕なんかが伺っても」


「ぇ?———あ、ぁ」


 キーユの念押しに、少女はやっと自分の言葉を理解し、小さく声が漏れた。


「い、今のは、その…、」


 シンシアの慌てる姿に、キーユは静かに微笑む。


「では、明日、いや、明後日、お伺いしてもよろしいでしょうか?」


 急な訪問ではフィーゼはが驚くだろう。

 頭の中で言葉を慎重に選びながら、穏やかな口調で告げた。


「そ、そうですね、…フィーゼに聞いておきます」


 まだ整理のつかぬ頭で答える少女を、キーユは微笑ましく眺めた。


 それから2人は約束という小さな手土産を抱え、それぞれの部屋へと戻って行った。



 ♢

 


 シンシアが部屋に戻ると、ほのかに茶葉の香りが漂っていた。


「おかえり、お嬢」


 制服から執事服に着替えたフィーゼがいつものように出迎える。

 白い手袋の指先までもが律儀な従者の所作を描いている。


「ただいま、フィーゼ」 


 シンシアは柔らかく答え、リビングの定位置、窓辺の椅子へと腰を下ろす。

 陽光が淡くカーテンを透かし、彼女の髪を金糸のように照らした。


 フィーゼは奥からティーワゴンを押して戻る。ポットから立ち上る香りが、部屋の空気を優しく染めていく。


「フィーゼ、明後日、キーユさん来るから」


「ふぁ?」


 その一言に、手が止まる。

 ソーサーがかすかに傾き、紅茶の表面が細かく波紋を描いた。


「ちょっ、フィーゼ、こぼれる!」


「!? …っぶね〜」


 間一髪で持ち直したものの、心臓の鼓動が氷を砕くように鳴る。

 一体何がどうしてそんな展開に———?


「え、え?なに?それはつまり、どういう意味だ?」


「だから、キーユさんが明後日ココに遊びに来るの」


「はぁぁぁあ?!」


 フィーゼの声が見事に裏返り、銀のスプーンが跳ねて床に落ちる。


「フィーゼ、落ち着いて…。

 やっぱりダメかな?」


 シンシアが眉を下げて困ったように言うと、彼は必死に平静を装いながら、震える手でカップを差し出した。


「いや、別に、ダメじゃない、けど。今までそんなことなかっただろ?アイツに何を言われた?まさか無理矢理———」


「違っ、私が———」


「お嬢のほうから誘ったのか?!」


「ちょっ、言い方!」


 カップの紅い水面がまた波紋を広げる。

 その向こうでフィーゼの顔は複雑な影が落ちていた。


「あ、ほら、そんなことしてるとケーキも落ちちゃう!」


「っと…!」


 また慌てて立て直したフィーゼは、そっと息をつく。

 だが、胸の奥では氷がひび割れるように音がしていた。 


「いや待て待て、頭の処理が追いつかんのだが。要は、初めて部屋に誘ったのが、男だと?!」


「だ、だから言い方っ!」


 シンシアの頬が一気に紅潮し、両手で顔を覆う。その姿にフィーゼは頭を抱えた。


「10年だぞ?」


「…ぇ、何が??」


「俺があなたの従者になってからだ!この10年、俺はずっと、あなたが道を踏み外さないように支えてきたってのに…!

 あんまりだ!ほんと、泣くぞ?俺」


「フィーゼ、落ち着いて」


 なだめる声に、彼は大きく息をつく。だがまだ不満げに視線を逸らす。


「…本当に、無理矢理押し切られたわけじゃないんだな?」


「ないない。キーユさんはそんな人じゃない。

 私のつまらない話にも、ただ静かに耳を傾けてくれる、優しい人」


 そう言った主の表情は、光を抱いた花のように柔らかで、どこか美しかった。

 それを見た瞬間、フィーゼの胸の奥で何かが軋んだ。


「へぇ〜、優しい人、ねぇ」


 口ではそう言いながら、その声は冷たい影が混じっていた。


(俺にはどうにも食えねぇやつに見えたが…) 


「…わかった。連れて来い」


「ぇ、いいの?」


 シンシアの顔がパッと明るくなる。

 その表情に、もうかなわないと悟り、フィーゼはため息をついた。


 「ったく、嬉しそうな顔しやがって」


 ———まぁいい。あの男の腹を探ってやろうじゃないか。


 フィーゼはそっと口元を歪め、不敵な笑みを浮かべるのだった。


「ありがとう、フィーゼ」


 彼の思惑など知る由もなく、シンシアは安堵の笑みを返した。


「まさか、進学初日からこれとは…。油断も隙もねぇ」


 小さくつぶやいた言葉は紅茶の湯気に溶けて消える。


「…ってか、今日はやけに楽しそうだな」


「久々にフィーゼ以外の人とお話ししたから、なんか新鮮で」

 

「あ〜らそぅ」


 柔らかく答えながらも、フィーゼの視線はわずかに逸れる。

 その瞳の奥に潜む影をシンシアはまだ知らない。


 少女の笑顔の中で、自分の居場所がほんの少しずつ薄れていく。

 その事実が、雪のように静かに、彼の胸を冷やしていくのだった。

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