第1章-巡り会いて-
第1話-とりあえず、さん付けで-
【———あなたはこんな雑音、聞かなくていい】
その声は風のように静かに心の奥に落ちた。
痛みをひとひら拭い去るような、懐かしい響き。
少女、シンシア・ロゼ・ル・クリミナードは思わず顔を上げた。
講堂の高天窓から斜めに差し込む陽光は、ステンドグラスを透かして揺れる。
床に映る影も、どこか生き物のように蠢く。
周囲のざわめきが、まるで遠い世界の音のように感じられた…。
———ここは
柔らかな光と影が溶け合い、豊かな風が大地や草木を撫でる。
中でも国一番の名門校と名高いクォディリオ王立学園は、幼稚部から大学部までを備え、貴族の子女が知と魔法と礼を修めている。
だが今、シンシアの関心は世界の華やぎではなく、耳に入るざわめきだった。
「ねぇ、進学生代表って誰が務めると思う?」
「決まってるじゃない。どうせシンシア様よ」
「シンシア様は中等部でも常に主席だったものね」
———まただ。
その名前が出るたび、胸の奥が冷たく波打つ。
声はあちこちで笑い、囁き、チクリと鈍い痛みを与える。
隣に座る生徒たちは、話題の本人がまさかすぐそばにいるとは夢にも思うまい。
9月の講堂では、長い夏休み明けの入学式兼進学式が始まろうとしていた。
金色の光が傾きかけ、座席の生徒たちはざわめきながら、新たな生活に胸を弾ませている。
「性格はさておき、シンシア様は頭の良さだけは群を抜いているしね。さすが公王陛下の娘だわ」
その言葉に苦笑いを浮かべつつも、頭をそっと下げる少女。
白に近い淡い黄金の髪に、ターコイズブルーの瞳は今は伏せられている。
そんな彼女こそ、誰もが憧れ、そして遠巻きにする存在。
「おかげで面倒なことは全て引き受けてくださるんだから、便利よね」
「ほんと、普段は空気同然の存在感のくせに、こういう時だけはちゃんと“ 公女殿下 ”をやってくださるんだから」
息を殺し、ただ透明人間のように存在を消そうと懸命に務める。このざわめきの中で彼女が望むのは、ただ“ 無音 ”だけだ。
———その時だった。
【あなたはこんな雑音、聞かなくていい】
また、あの声がした。
その後、“ パチンッ ” と指を鳴らす音が、遠くで響いた気がした。
すると、不思議なほど胸は鎮まり、痛みは遠のいていく。まるで誰かが、優しく耳を塞いでくれたみたいに。その瞬間だけ、世界は柔らかく包まれた。
暗転と共に式が進み、講堂に重い空気が広がる。
シンシアはただ心の中で繰り返す。———新学生代表は、やはり私なのだろうか。
「新入生代表、挨拶」
肩がピクっと跳ねた。祈るように目を閉じて、両手の指を組む。
あらかじめ何も通達がなかったために挨拶文を準備していない。言葉などすぐには浮かばず、思考の糸は震える。指先まで冷えていく始末だ。
———どうか、私の名前を呼ばないで…。
普段の完璧な立ち居振る舞いは誰も見ていないところでの努力によるもの。今それがない彼女は、なすすべもなくまさに“ 詰み ”の状態だった。
「新入生代表、 “ キーファン・ヘウン ” 」
———ぇ?
思わず小さな声が漏れた。呼ばれたのは、自分ではなかったのだ。
壇上に歩き出す足音が、後方からだんだんと近づいてくる。
ざわめきが講堂を満たした。聞いたことのない名前に、生徒たちの好奇の視線が一斉にその人の方へと向いた。
「誰?ヘウンって、どこの貴族?聞いたことない」
「まさか、外部進学者か?」
「それより何でシンシア様じゃないの?中等部の学年末試験はあの人がトップだったはずなのに」
胸の奥にちくっと痛みが走る。
守り続けてきた首位の座を、誰かに明け渡す瞬間。言葉のひとつひとつが、自分の存在価値を測る天秤のように、重たく、冷たく響いた。誇りが、わずかに崩れ落ちる。
だが、同時にほのかな安堵もあったのも事実だ。
———そうか、今日は、私じゃないんだ。
通路側の端っこに座っていたシンシアの傍らを通る時、その人の指先が、ポンっと頭の上を撫でた。それはほんの一瞬、まるで風のようだった。
「…っ!?」
思わず顔を上げたその瞬間、その背中は光の中へと消えて行った。
暗闇から灯りに照らされた壇上に、少年は現れた。
陽光のような金髪に、右眼の澄んだターコイズブルーは、奇しくもシンシアと同じだ。
その姿は光の中で神々しく輝き、まるで静寂だけを支配するような存在感を放つ。
ざわめく群衆の声が、彼の存在の前にかき消される。
少女はその光景を、息を詰めて見つめていた。
壇上で広げられた封筒。彼は静かに口を開くと粛々と挨拶文を読み上げていく。
それは風が花を撫でるように穏やかで、聴く者の心を丁寧に解いていく。
胸の奥に静けさが降り注ぐ。
心の奥で、“ あの囁き ”と重なり、心の棘を溶かす。
普段なら目を合わせられない相手の視線が、どういうわけか私に届く。
瞬間、時間が止まったようだった。
この声を、私は知っている——。
不意に彼と目が合った、ような気がした。
その僅かな接触に、全身の神経が昂る。それは決して声に出せない感情———安堵、驚き、少しの期待…、それらがいくつにも混ざり合った感覚だった。
しかしすぐに日常の現実が戻ってくる。
周囲のざわめきは完璧には消えない。
それでも、自分だけに向けられたような静かな空気が、胸に残った。
光の中で微笑む少年からそっと目を逸らしながら、シンシアはゆっくりと呼吸を整えるのだった。
♢
式は無事に終わり、講堂のざわめきは徐々に廊下へと流れ出した。
周りが新しいクラスメイトに一喜一憂しているのをよそに、シンシアは一人、掲示板の前で足を止める。
目の前には今回の進学試験の順位表———上位者の名前が目に飛び込む。
1位 キーファン・ヘウン 497点
2位 シンシア・クリミナード 493点
3位 フィーゼ・セライド —————
たった4点。けれどその差は彼女にとって永遠にも等しかった。
「わぁ…、シンシア様が、2位?!こんなこともあるんだな」
「ほんと、信じられない…」
無責任な同情と好奇の混ざった声が、シンシアの心をさらに押しつぶす。
静かに俯いたその顔は、やるせない苦笑いか、はたまた自嘲の笑みか…、もはや自分でもわからない。
静かに、して———。
そんな心の囁きに答えるかのように、風が廊下を柔らかく撫で、少女の髪を揺らす。
それはいつしか心の痛みを少しだけ和らげていた。
———その時、背後から声がした。
「もしかしてあなたが、 “ シンシアお嬢様 ” 、ですか?」
それは、あれほど騒がしいざわめきの隙間を丁寧にすり抜けて、鮮明に耳に響いた。
突然のことで言葉を失い、ビクッと大きく肩が跳ねた。思わず心臓だって口から飛び出してしまいそうなほどだ。
だが立場上、胸の内を容易く他人に悟られてはいけない。
懸命に平静を装いながら振り返ると、そこにはあの金の髪のあの人がいた。
講堂で見た壇上の少年———キーファン・ヘウン。
「すみません、そんなに驚かせるつもりでは…」
少女の顔を見た途端、彼はなんとも言えぬ戸惑った表情で頭を上げた。
その一瞬で、少女の心は不思議な安堵に包まれた。
———あの声。
講堂で聞いた、胸を優しく撫でるような囁き声に、ひどく似ていた。
周囲のざわめきがまた、遠くの音のように遠ざかっていく。
「い、いえ、私の方こそ、人に話しかけられるのは慣れてなくて…、申し訳ございません」
そんなに酷い顔をしていただろうか?と、慌てて謝罪した。
ここ数年、他人とまともに会話することはおろか、話しかけられることすら皆無に等しかったのだ。
「ぁ、貴方はさっき、講堂で挨拶してた方、ですよね…?」
「ぇ?」
「あ、いや、す、すみません!!」
思わず口をついて出てしまった言葉に、顔が青ざめていく。
「フフッ。…えぇ、先ほど講堂で新入生の挨拶をした者、です」
そう笑って返す彼に、胸の奥がほんの少しだけホッとする。
言葉を返さずにはいられず、思わず口を開く。
「先程の挨拶、とても素敵でした!」
真っ直ぐに瞳を見つめ飛んできた言葉に、キーファンは一瞬止まる。
「っ、ありがとうございます。でも、実はあの時、手も足も震えていたんです」
「ぇ、全然気づきませんでした。とても堂々とされていたので」
「バレていなかったなら、よかったです」
彼はまたフワッと微笑んだ。その笑みに胸の奥がかすかに温かくなる。
「改めまして、キーファン・ヘウンと申します。シンシア・クリミナード公女殿下にご挨拶申し上げます」
胸に片手を添えて深々と一礼されると、ひさびさに公女として扱われる緊張で声は裏返り、言葉もカミカミになった。
「こ、こちらこそ、よ、よろしくおねが、た、っままます…!」
頭を下げたまま、なかなか上げられない。今すぐ消えたい———!!
頭を下げたそのあと、なかなか上げられない。
「ぁ、あの、そろそろ顔を上げてください。———教室へ移動しましょう、お嬢様」
気まずそうに彼は促す。やがて周りの流れに紛れ、2人は教室へ向かう。
その途中、ぎこちない呼称のやりとりが続く。
「お、お嬢様、は、その———」
声は緊張で少し上擦り、カタコト気味だ。
「そんなにかしこまらないでください、へウン卿。
“ 私は貴方のお嬢様ではありませんから ”」
「っ———、そう、ですね」
シンシアが放った一言に少年は笑って返すものの、その笑顔は少しぎこちなく揺れた。
「では僕のことはどうぞ “ キーユ ” とお呼びくださいませ、公女殿下」
「それならキーユさんこそ、公女殿下ではなく、シンシアと」
「はぇ…?!」
不意打ちのように名前を呼ばれ、キーファンは間抜けた声を上げた。
心臓は早鐘のごとく脈打ち、頬もじわじわと赤みを帯びる。
魔の抜けた沈黙の中、静かな共鳴が二人を包む。
ざわめきや緊張の残滓が、全て柔らかく光と風の中へ溶けていく。
———この風がまたあの声を運んでくれるなら、どんな日も静かに胸を暖めてくれるのだろう。
足音と風が伴う微かな香りが、心の奥に小さな希望を運ぶ。
初めての優しい風———それは、新しい日々の始まりの予感だった。
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