第45話 未来について
桜木さんのところで晩御飯まで頂いて、俺たちは帰ることにした。那由は緊張しっぱなしだったようだが、桜さんがぎゅっと抱きしめて「また来てね」と言ってくれたのが嬉しいようだった。
「温かい人だったなぁ」と言いながら、駐車場まで歩く。
「どっちが?」と俺は聞いたら「二人とも」と那由は笑いながら言う。
「俺は?」と思わず聞いてしまった。
「京は大好き」と言った後で、空を見上げた。
もう陽が落ちているので、すっかり暗い。那由は真っ暗な視界を見ているのだろうか、と思った。
「京…。私…頑張って働いてお金貯めて…、一生懸命ピアノ弾いて…専攻科受けようかな」
そんな言葉を那由が言うから俺は驚いて、空を見上げている那由を見た。
「…ほんと?」
「できるか分からないけど、私も…ピアノを誰かのために弾きたい。京や桜木さんみたいにはなれないと思うけど」
「…じゃあ。那由、俺を食べていいから」
「え?」
「俺を踏み台にしてくれていいから」
「京を? 無理無理無理」と首を思い切り横に何度も振る。
何度も振るから、めまいを起こしているようだった。俺の腕に那由の頭がもたれる。ゆっくり駐車場まで歩いて、車にチェロを入れる。那由はぼんやり空を見ていた。するとピアノの音が流れてくる。
「あ…」と那由が小さな声をあげる。
バッハの平均律一番だった。桜木さんの奥さんがそれを聞いて、ベランダごと落ちた曲。那由が突然、練習中、アンコールに弾き出した曲。
「京の音…京のチェロの音が聞こえる」と那由は目を閉じて言う。
もちろん、俺は弾いていないから、きっと頭の中で再現しているのだと思う。那由との練習が上手くいかなくて俺は苛々していたのに、那由は全く空気を読めずにこの曲を弾き始めた。怒りが爆発しそうだったのに、そうならなかったのは、那由のピアノの音が美しかったから。純粋に綺麗な音が流れ出して、呆気に取られたと言うのもある。
一曲聴いているといろんなことを思い出さされる。
きっとあの曲を聴いた時、俺は那由に恋に落ちた。
一曲終わって、助手席のドアを開けて、那由を座らせる。俺の車のシートベルトにまだ慣れていないみたいだから俺が締める。その時、少し緊張しているのが伝わる。那由の柔らかい匂いがする。キスをした。そしてすぐに離れようとしたら、那由の小さな手が俺のシャツを握った。もう一度、キスをする。今度は深く。那由の甘い息遣いが理性を壊しそうになる。
「那由…指輪取りに行ってから…いい? ちょっと、我慢が…できない。明日…太田先生のところまで送るから」と那由の頰を撫でながら聞く。
「あ…でも着替えとか、レッスンバッグとか…」と言いながら、那由が掴んだシャツがさらに皺を寄せた。
「じゃあ、指輪…は明日、レッスン後に行こう」とかなりどうしようもない気持ちで言ってしまう。
頷く那由を確認すると、エンジンをかけた。この場でシートを倒さなかった自分を褒めてあげたい。差し迫った性欲を抑えるように深呼吸をしてから、話題を変える事にする。
「あの…何かをするのに…遅いってことはないってよく言うし…。もし那由がピアノを続けてくれるのなら、俺は嬉しい。一緒に弾きたいから」
「でも…京、今日、楽しそうにリハしてたよ。楽しかった?」
「うん。すごく。那由が憧れる理由が分かった。また弾きたいと思うし、そうできることが楽しみ」
収録、ミニコンサート、チャリティコンサートと一緒に演奏できるのは嬉しかった。
「私ももう少し勉強したくて…でも…それで専攻科受かったら、お仕事辞めなきゃいけないんだけど…。他に何か働けたらいいんだけど」と那由が呟く。
「じゃあ…仕方ないから俺とCDを出すしかないな」
「あ…」と那由は俺の事務所の人が話していたのを思い出したようだった。
俺は正直、どっちでもよかった。那由がいいと思う方を選んでもらえたらそれでよかった。
那由は「それは…またいつか」と小さな声で呟いた。
そのいつかは…約束を曖昧にする「いつか」ではなく、未来に向けて決心している「いつか」に聞こえた。
「桜さんね…。アイス食べたのにドーナツ買ったの。それで、驚いてて」と那由は楽しそうに続けた。
『また明日食べればいいでしょ? 明日、ドーナツがあるって思ったら、嬉しいことひとつ増えるし』って、と彼女の口調を真似して言う。
そのドーナツはお土産に持たせてくれて、那由の明日の楽しみになっている。
「私もおやつ大好きだけど…、その上をいく人がいて、びっくりした。でも…ちょっとそれでいいのかなって思ったの。…京みたいに早くから自分の道を決めていく人もいるだろうし、花ちゃんみたいに大学を出て音楽を続ける人もいるだろうし…私みたいに大学を出て…働いて…それから自分の道を探して…、ってのもいいかなって思ったの。楽しみの取り置きしてるんだって思えて、気持ちが少し楽になった。私、サボっていたことを後悔してたから」
「そうだね…」と俺は言いながら那由の学生の頃を思った。
学生の頃の那由はひたすら「公務員になる」ことを掲げていた。自身の障害のせいからか、将来について自活しようと必死になっていて、自分の好きなこと、やりたいことを考える余裕はなさそうだった。ただ好きなピアノを弾きに来て、お菓子を食べているような子だった。だからそう言うことにも苛々していた。ただ太田先生から「音楽を続けられる環境とそうでない環境がある」と聞いたから、胸が苦しくなった。
「うん。私は人より時間がかかってしまったけど、本当は学生の頃に決めて、時間と環境を無駄にしないで、いけたら良かったんだけど…。でもちょっと過ぎてしまったけど、今からでも…できることを頑張ろうかなって思う」
「那由…。那由は頑張り屋さんだからな。お仕事もして…」と言って、今すぐにでも抱きしめたい那由の代わりにハンドルを強く握った。
「うふふ。褒めてくれてるの?」とゆっくり笑う。
「偉い、偉い」
俺は本当に偉いと思う。早くから決めていた俺は環境も恵まれていたし、ある程度、用意もされてもいた。でも那由は自分で決めて、そしてそれに向かって努力して…それは俺にはないことだった。
「じゃあ…。時間かかるけど…いつか結婚して」と那由が恐る恐る言う。
「嫌だ」
「え?」
「今すぐ、結婚したい」
「前言ってたことと、違うー」と那由が文句を言った。
「だって…、やっぱり今日、少し嫉妬したし、羨ましくもあって…」
桜木氏に話しかけられて、緊張しながらも嬉しそうな那由を見て、嫉妬もしたし、桜木夫妻の仲の良さを見せられて羨ましくもあった。
「何、それ?」と那由の頰が膨らんだ。
「那由と一緒にいる時間をもっと増やしたいんだ」
「…でも。私…お仕事続けないと…授業料払えないし」
「う…。それは確かに払えないかも…だけど」
「それに結婚したら、私はどこに住むの? 京のお家?」
「え?」
「なんか、お母さんもお父さんもいい人だけど、一緒に住むのは…」
「俺だって嫌だけど」
「でもチェロもピアノも弾けるお家って買えるの? 私、奨学金を返しただけで、貯金ないし…。あ、保険金あるか…」とまた妙にリアルなことを言う。
「待って、待って。ちょっとそれは…」と言いながら、俺は吹き出してしまった。
「何? なんで笑うの? 変なこと言った?」
「ううん。俺よりもっと先のこと考えてて、すごいって思って。俺はただ…那由が欲しかったんだ」
そう言うと、静かになる。
そして真っ赤な顔で俯く那由に「やっぱりお泊まりダメかな?」と聞いてしまう。
さらに赤くなる横顔を見ていて、信号が変わったのに気づかなくて、後ろの車に軽くクラクションを鳴らされた。
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