第44話 時が過ぎても

 桜さんは私を近くの公園に連れて行ってくれた。公園では私はベンチに座ってお菓子を食べるくらいしかしないのに、桜さんは「ここ、歩いて」と言って、枯れ葉の音を楽しんでいる。


「クシャって感覚と音が好きなの」と言って、「次はこっち」と言ってくれる。


 目が見えなくても、これは私も楽しめた。足元の感触と音が一致すると楽しい。でも湿ってると音がしないから、残念な気持ちになる。秋の涼しい空気を思い切り吸いながら、私たちは枯れ葉を踏んで遊んだ。


「あー、もうこっちは大抵踏んでしまったから、あっちに行こう」と言われる。


 手を繋がれて、少し小走りで走る。まるで小学生に戻ったみたいだった。


「あ、どんぐり」と言って、私にもしゃがむように言う。


「手を広げて…」と言われて、広げた手を地面に当てられた。


「どんぐり、どこにあるか分かる?」


「え?」と言って、私は手でどんぐりを探す。


「あ、後少し右、あ、ごめん。反対側だった」とかヒントを言ってくれるので、楽に探し出せた。


 そして見つけると思う存分褒めてくれる。私のことを子犬と思っているようだ。ちょっと心外だと思っていると、桜さんが真剣な声で


「帰ったら、食べる?」と聞くので、さすがに私は笑ってしまった。


「桜さん、本当に食べるの好きなんですね」


「あ、あ。恥ずかしい。一樹さんにも言われたのに…」と慌てているようだった。


「桜さん…。聞いていいですか?」


「いいよー」と言って、私を立たせてくれた。


「桜木さんと結婚するの…すぐ決められました?」


「ううん。だって…あまりにも違うから…」


「違う?」


「だって、私はお弁当屋の娘で、音楽の拍子が分からなくて、歌だって…高得点でもないし…」としょんぼりした声で言う。


 意外だと思った。それなのに、一緒にいると決めたのはどうしてだろう、と知りたくなった。


「それはね…。全部、それが言い訳だと思ったから。私は好きだと思って、その気持ちがお互い通じているのに、些細なことで不安になって、言い訳しているって思ったから…。自分の気持ちに正直になるのが怖くて、言い訳を探してたんだなって思ったの」


「言い訳を…探してた」と私は自分にも心当たりがあったのか心臓がドキっとなる。


「でも結婚した今だって…不安なことたくさんある。でも一つ一つ…乗り越えなきゃって思ってるよ」


 そう言われて、私はどうして勇気が出せなかったのだろう、と思う。京に対してもピアノに対しても線のこちら側で泣いているだけだった。


「私、ここで一樹さんに『好きだ』って言われたけど…、怖くて、聞き間違いだと思ったの。でも…勇気がないせいで…傷つけてたんだって今は分かる」


 秋風が吹いて、肩に葉が落ちて地面へ降りていった。


「うわぁ、綺麗。たくさん葉が降ってきた」と桜さんが言う。


 私は見えないだろうけど、上を向いた。ぼんやりとした視界の中で何かが降ってるのが分かる。


「秋…ですね」と私は言った。


 透明な空気と光とそして優しく降り注ぐ葉を受けて、私はもう少し前へ行こうと思った。憧れの人にせっかく会えたのだから、私も違う形になるかも知れないけれど、ピアノを続けて行きたいと思った。


「桜さん…。ありがとうございます」


「え? どうして?」


「頑張ろうって思えたし…。公園が楽しかったから」


「また遊びに来て」


 桜さんの声を聞いて私は頷いた。帰り道も手を繋いで帰るんだけど、桜さんは「可愛い、可愛い」って言ってくれて、私は不思議な気持ちになった。見えないけれど、きっと桜さんの方が可愛いと思う。だって、私の憧れの人が好きになった人だから。

 桜さんのこと好きだけど、少し、本当にわずかだけ…羨ましく思う。それで私は理美が私と仲良くしてくれることが本当にすごいことなんだなってようやく分かった。


 家に戻ると、まだピアノとチェロの音が聞こえて来たので、「まだやってる…」と私は思わず呟いた。


「ほんとね。疲れないのかしら?」と桜さんも言って、二人で手を洗った。


 久しぶりに土に手を触れて、その手を繋いで帰って来た時は不思議な気持ちになった。目が見えていた時の子供の時を思い出す。友達と公園で遊んで、遊具の鉄の匂いのする掌をお互い繋いで、家に戻っていった記憶。懐かしくて、すっかり忘れていた感触だった。

 それを石鹸の泡で落として、水で流す。ふわふわのタオルを渡してくれる。


「ありがとうございます」


「いいえ。ドーナツ食べる?」と帰り道で買ったおやつを勧められて、私は思わず笑ってしまった。


「本当に…晩御飯が食べられなくなってしまいます」


 見えなくても、残念そうな空気が伝わる。でもすぐに笑って、「じゃあ、お茶だけでも」と言う。


 桜さんはきっと食べることが好きだと言っているが、もちろんそうなんだろうけれど、食べる行為を介して、だれかとお喋りしたり、笑ったり…きっとそんな心の楽しみが一番好きなんだと思う。お茶をしながら、人と同じ時間と空間を共有したいんだな、って思った。


「じゃあ…お茶だけ」と私は言う。


 キッチンに戻ると「あ」と桜さんが声を上げて、そして私に耳打ちしてくれた。


「お握り、減ってる」


「え?」


「二個減ってるから、二人ともつまみ食いしたみたい」と小声で教えてくれた。


 そしてちゃんと私が作ったのと、桜さんが作ったのと一個ずつ減っているようだった。私たちは何だかそれが面白くて笑ってしまった。


「さあ、お茶でもしましょう」と言って、お湯を沸かしてくれる。


 お茶が沸いた頃に、ちょうどリハーサルを終えたようで、二人がキッチンまで覗きに来た。


「ドーナツ買ってきたの」と桜さんが言う。


「あ、那由の好きなおやつ」と京が言ったけど、私は首を横に振った。


「もうお腹いっぱいになるから」


「珍しい。おやつ好きなのに」と京が不思議そうに言った。


「晩御飯…食べて行ってください」と桜さんが言う。


「わぁ…ありがとうございます」と京が嬉しそうな声で言った。


「児玉さん…ピアノ弾く?」と私は憧れの桜木さんに言われて、肩が跳ねた。


「え? あ…」と断ろうとしたけれど、何もかも挑戦しなくては、と思って「いいんですか?」と聞いてみた。


「どうぞ。西澤くん、案内してあげて」と桜木さんが言う。


 京がゆっくりと手を引いてピアノの前まで連れて行ってくれた。鍵盤に触れると感触が少し違う。指で鍵盤を押すと京の家とは違う広がるような響き方をする。家の作りのせいもあるかも知れない。横に音が広がっていく。そして鍵盤は温かみのある不思議な感触だった。


「これ…京、見て。鍵盤が…感触が違うの」


「ん? 鍵盤?」と京がかがみ込んで、見てくれる。


 明らかに指の感触が違う。


「祖母のピアノで…古いもので、象牙の鍵盤なんだ」と後ろから桜木さんの声がした。


 だから感触が違うんだ、と私は思った。象牙のピアノなんて初めて触れた。


「気になる?」


「いいえ。あの…驚いただけです。京…。私、一人で弾くの…恥ずかしいから一緒に弾いて」とお願いした。


 ここでも京に頼っているな、と思ったけれど、桜さんの話を聞いたから、なおさら緊張した。音楽に厳しい人だから、ソロで弾くのは怖すぎる。


「いいよ」と京は言ってくれた。


 紅茶のいい匂いが漂ってくる。


「じゃあ…二人にお礼代わりに…」と言って、私は座ってバッハの平均律一番を弾くことにした。


 調弦用のAの音を弾いてから、私は夏の間、ずっと弾けなかったこの曲を想い返していた。この曲だけは弾けなくて、他の平均律をずっと弾き続けていた。京のチェロが聴きたくて、初めて練習中に弾いて、不承不承ながら弾いてくれたこと、突然、アンコール曲を変えて弾いた時のこと、それぞれ想い出が詰まっている。私はゆっくりと息を吐きながら、最初のアルペジオを弾いた。次に京の音に繋がるように。

 京のチェロと私のピアノが二人で歌っている。

 本当に優しく穏やかなチェロの声が響く。私はその音を支えるように弾く。ゆったりと綺麗な音で。

 私にはぼんやりとしか見えない秋の空にこの音楽が届くように祈りを込めて弾いた。


 しばらくすると二人から拍手をもらえた。


「この曲…」と桜さんが呟いた。


「この曲聞いて…ベランダから落ちたの」


「え?」とそこにいた三人が思わず声を出した。


 今は駐車場になっている場所に古いアパートがあったらしい。そこのベランダで、バッハの平均律一番が流れていて、それを聞きながら、月を見ようとベランダの手すりに腰掛けて、ちょっと外側に反り返ろうとした時、手すりごとここの庭に落ちたそうだ。


「この曲、チェロの曲だったのね」と桜さんが言うから、また三人が「え?」となったが、その後、桜木さんが優しく教えていた。


 そしていい匂いのするお茶を頂きながら、しばらく話して、こんなに幸せなことはないのだけれど、桜木さんの「シャコンヌ」を聴かせてもらうことができた。間近でそしてこんなに素敵な演奏を…ずっと憧れていた夢のような時間だった。私はやはり涙をこぼして、そしてじっと動けなかった。


 やっぱり私は音楽を続けたいと思う気持ちが溢れてきた。彼のようなピアニストになれなかったとしても。

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