第43話 恋する男たち
恋する男たち
あまりにも楽しくて気がつけばぶっ通しでリハをしていた。
「ちょっと休憩する?」と言われて、俺はチェロを横に置いた。
「あれ? 那由たちが…」
「あ、途中で出て行ったみたいだから…。買い物かな?」と桜木氏が言う。
「そうですかね? あ、ありがとうございます。すごく…弾きやすくて、楽しかったです」
「うん。僕も…」と言って、ピアノの蓋を閉める。
本当に音がきらきらしていたし、安定していて、任せられるという…伊達に年月を重ねていないと思い知らされた。
「コーヒーでいい?」と桜木氏に言われる。
「あ、なんでも…水でも」と那由じゃないけど、そういう気分だった。
「水がいい? 彼女…目が不自由ってどんな感じで?」
「明るい場所では真っ暗じゃないそうです。形がぼんやり見えるって言ってました。ただ表情も分からないし、楽譜は見えません」
「そうか…。いい音を出すんだけどね」
「耳はすごく良くて…。あなたのファンだって言ってました」
「そうなんだ。ありがたい」と言って、水をコップに入れてくれる。
今は喉が渇いていたから、一気に飲み干した。桜木氏も水を飲んでいる。
「まだ見えてる時にCDを買ったそうで、顔も素敵だって言ってました」と俺が言うと、軽く笑っていた。
「いつか一緒に弾けたらいいね」とそれは俺に向かって言っているのか、桜木氏が那由と弾きたいのか分からなくて、曖昧に頷く。
演奏がなければ、なんとなくぎこちなくなる。ピアノとチェロの時は楽しい時間だったのに楽器を無くしてしまえば話すことがない。沈黙が続いた。早く那由たちが帰って来てほしいと願った。することがなくて、きょろきょろを部屋を見回した。リビングダイニングをぶち抜いて、日本家屋なのに床は板張りになっている。部屋の外には廊下があって、縁側になっている。
「…手を離さないようにね」と桜木氏から突然言われて俺は驚いた。
「え?」
真っ直ぐ見られて、言葉も返せない。
「離した手をもう一度繋ぐのは…難しいから」
俺は何か言おうと口を開いたけれど、何も言えなかった。経験上の話だろうか、と聞いていいのか分からないことを聞こうか…迷って俺は口を開けた時、「つまみ食いする?」と悪戯っぽく言われた。
キッチンにおにぎりが並べられているらしい。キッチンに行くと、綺麗な三角形のおにぎりと、少し形が歪なのがあった。多分、歪な方が那由が作ったのだと思われる。
「いいんですか?」
「いいよ。どうせ後から頂くんだから」と桜木氏は迷うことなく一つ手に取った。
俺も歪な方を手に取る。おにぎりなんて、何だか久しぶりに食べる。そのせいか心に沁みて、暖かくなった。那由が小さい手で一生懸命握ったかと思ったら、味も美味しいが、心がふわっと柔らかくなる。
「死ぬ前に何が食べたいって…桜に聞かれたから…このおにぎりって答えたんだ」と桜木氏は言う。
「奥さんに?」
「そう。彼女は食べることが好きだから。だけど僕は別に食べることじゃなくて…側にいて欲しいって思ったんだけど…。でもまぁ、このおにぎりは…彼女そのものだから」と言った意味が何となく分かる。
那由が一生懸命握ったお握りはやっぱり作った人の温もりが込められている気がする。
「そう言えば、奥さん、やたらと那由のこと気に入ってるようでしたけど」
「あぁ、可愛いものも大好きで。こっちでは友達も少ないからテンションが上がったんだと思う」と優しく微笑んだ。
本当に好きなんだな、と思わせる笑顔で俺の方が恥ずかしくなった。
「奥さんもなかなか…小動物のような可愛らしさありますけどね」と俺が言うと、桜木氏が目を丸くした。
「ハムスターみたいだと最初思ったんだよ。食べる姿が特に…」
桜木氏が的確な表現で言うから俺も思わず笑いそうになる。ハムスターがさらに小さい小動物を可愛がっているようだった。那由はハムスターではないけど…。あ、でも甘いものが好きだな…と思っていたら、自然と頰が緩んでいた。
そんなお互いの顔を見て、一瞬、照れてしまった。早く那由たちに帰ってきて欲しいと思っていたけど、今は帰って来て欲しくない。
「食べたら、もう一回合わせようか…」と言われたので、俺は慌てて頷いた。
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