第42話 憧れの人の奥さん

 リハの音が楽しそうに聞こえる。そして私の憧れのピアニストはやはりすごい人だった。音がきらきら光って聞こえる。そんな人に


「いいピアニストになれる」と言われて、私は涙が溢れた。


 京がそっと置いてくれたハンカチで涙を拭いた。

 京にも昔言われたことあるけれど、その時は私は公務員になるんだ、としか考えてなかったから「何言ってるの?」って本気で思ってた。


 私のこの目のせいで両親に心配をかけたし、私はせめて経済的自立して、安心させたかった。それが一番の目標だったから。音大はしたいことを勉強して、それで終わりと決めていた。でも今、京と出会って、素敵なものをたくさん教えてもらって、私は違う世界に行きたいと初めて思った。こんな素敵な音楽の世界におっかなびっくりだけど、足を出そうと思っている。


「那由さん、お茶のおかわりはどうですか?」と奥さんが聞いてくれる。


「あ、ありがとうございます」


 紅茶のいい匂いが漂う。温かい紅茶の香りが口の中で広がる。京のチェロの音が木の温もりを響かせていた。


「ピアノが弾けるなんて、羨ましいです。今もチェロと一緒に弾いて、楽しそうで。私は聴くことしかできないから…」と少し寂しそうな声が聞こえる。


「…そんな…私は…」


 羨ましがられるほど、私はピアノが上手いわけではない。でもだからこそ、今、桜木さんと一緒に弾ける京が羨ましくて、奥さんの気持ちはすごく良く分かる。


「あの…今日は時間ある? よかったらご飯食べて行かない?」


「え? そんな…」


「待ってる間に一緒に作ろう」と私は奥さんに誘われてしまった。


 どうしたものかと思っていたら、奥さんが私の手の上にそっと手を重ねる。


「手を繋いでいい? キッチンはすぐそこだから」と言うので私は立ち上がった。


 ゆっくりと奥さんに手を引かれて、キッチンに向かった。


「おにぎり作ろう」と言われる。


「はい」


 そしたら奥さんにお米を研ぐことをお願いされる。それぐらいはできるので、頑張って、お米を洗った。少し流れてしまったかもしれないけど、八回、すすいだらいいってお母さんに教えてもらったから回数を数えて洗う。


「洗ったらザルにあげるの」と言われて、ザルを渡される。溢れないように慎重に移した。


「そうそう、大丈夫よ」と言って、次は具を作ることにした。


「何が好き? ツナマヨ? 卵焼き挟む?」と楽しそうに言う。


「卵焼き…難しくて…」


「電子レンジで作ろうか」と言って、何から何まで教えてくれた。


 でも一回では覚えられそうになかった。


「通わないとなかなか難しいです」


「そう? いつでも来て」と簡単に、そしてほんの僅か、嬉しそうな声で言ってくれる。


「え?」


「大歓迎よ。しばらくこっちにいるし。私、こっちに友達少ないから」と奥さんは嬉しさ大爆発といったような明るい声だ。


 憧れの人の家にそんな簡単に来れるなんて、と思わず固まってしまう。奥さんは私のこと嫌じゃないのだろうか。ファンが押しかけてきて…と。私だったら、京の家にファンが来ると思ったら、気持ちがもやもやしてしまう。


「那由さん?」


「あ、はい」


「そんな…気を使わないで。年も同じくらいじゃない? 私、二十五なの」


「あ、私は二十四です」と一年しか変わらなかった。


「きゃー、やっぱり可愛い」と突然、奥さんに抱きしめられる。


「え?」


「那由ちゃんって呼んでいい?」


「あ、はい」と私は抱きしめられたまま言う。


 奥さんは桜さんという名前で、名前で呼んで欲しいと言われた。一年しか歳下じゃないのに…と思いながら、なすがまま抱きしめられていると、甘い匂いがした。ミルクみたいな匂いがする。それからは「那由ちゃん、那由ちゃん」と連呼された。こんなに人懐っこい性格だなんて…とびっくりした。勝手に桜木さんの奥さんは美しくて、上品で、少し緊張感を与える人だと想像していた。それなのに真逆で驚いた。


 一緒におにぎりも作ってくれて、とっても楽しかった。料理を初めて楽しいと思ったかもしれない。それまではなんだか「できるようにならなきゃ」と言う謎のプレッシャーを感じていた。


「おかずは豚の角煮作ってるの。圧力鍋があれば簡単だからね」と教えてくれる。


「…桜さんはすごいです。ご飯ちゃんと作って…サポートして…」


「サポート? 私が好きだからやってることなの。美味しいご飯、一緒に食べたいから。だから外食も大好きだし。でも私…もしできるなら、音楽でサポートしてあげたいって思うことがたくさんあるの。それは…できないから、それは仕方ないかって…。だからできることをやっているだけなの。何か悩んでるの?」


「…はい。私は…ピアノもそんなに上手くなくて、料理もできなくて…生活だって、人の助けが必要で…。それで京のこと…邪魔してるって…」


 桜さんにまた抱きつかれてしまった。優しいミルクのような匂い。


「私だったら…那由ちゃんみたいな可愛い子がいてくれるだけで、ワクワクするけど」


 京みたいなことを言う、と思って思わず拳を握って声を張ってしまった。


「でも役に立ちたいです」


 桜さんのおでこが私のおでこに当てられた。


「焦らなくていいと思うの。那由ちゃんの分からないことで、きっと彼の役に立ってるから。那由ちゃんがしてあげたいことはできなくても、今すぐじゃなくても大丈夫」


 また京と同じことを言う。頰をいつの間にか膨らませていたのか、くすりと笑う息が聞こえる。


「相手のために何かしてあげたいって言うことは素敵なことだけれど、そんなに重く考えてすることじゃないのよ。それに…那由ちゃんは見えないから伝わらないだろうけれど、ものすごく西澤くんが優しい顔して見てるから、本当に大切なんだろうなって思ってるの私には分かるから」


「…みんなそう言ってくれるんですけど。やっぱり見えないから不安で」


「そうねぇ。本当に見せてあげたいくらいなんだけど…。それと…ピアノのことね。一樹さんが上手いって言うのなら、本当なのよ。音楽には結構、厳しい人だから。私は素人なのに歌ってもダメだしされるし、点数だって少しも甘くないの」


「え? 点数つけられたんですか?」


「私が聞いたんだけど、百点とか言ってくれるのかと思ったら…普通にブレスが…とか色々言われて、そんなに高くなかったの」


「奥さんなのに?」


「その時は恋人だったけど…一緒よね? だから上手いってお世辞でも言わない人だから。音楽に関しては本当に少しも優しくない」とちょっと不満そうに言っていた。


 何だか私は見えないけれど、二人の関係が見えるようで、少し笑ってしまった。


「ね? ひどいと思うでしょ?」


「はい。私がレッスン受けたら、ダメ出しの連続でしょうね」


「まぁ…それは覚悟しておいた方がいいわ」と桜さんが深刻そうに言う。


 太田先生でよかった、と心の中でこっそり思った。


「だから自信を持って、やっていったらいいと思うの。ピアノも料理も…生きることも…彼を愛することも」


 私は不思議とその言葉に涙が溢れた。


「あ…ごめんなさい」と私と桜さんが同時に謝った。


 私は何もかも自信がなかった。ピアノも…生活全般のについても、そして京が愛してくれていることも、京を愛することも。


 そしてお互いに笑いながら、さくらさんはキッチンペーパーを私に渡してくれる。ちょっとゴソゴソしたけれど、それで涙を拭った。


「あ、二人で楽しそうに演奏してるわ。『新進気鋭のチェリストって』って昨日まではぶつぶつ言ってたけど…」とキッチンから覗いて、私に教えてくれる。


「ぶつぶつ言うんですか?」


「割とね…。共演者嫌いなこと多いから」


 意外だった。でも音楽家なんてそんなものかもしれない。京だって、相当色んな人と演奏しているだろうけれど、文句も多そうだ。


「あ、お米にお水入れなきゃ。手の甲で測る方法で入れましょ。土鍋でお米を炊くの。すぐに炊けるし美味しいから」と言ってくれる。


 そして水加減を教えてもらったり、お米が炊けるまで、キッチンでつまみ食いしながら小声でおしゃべりしたりした。本当に私は人と関わりを持たなくて、一人で生きて行こうと思っていたけれど、世界は本当に優しくて暖かい。桜さんは本当に食べることが大好きなようで、いろんなものを冷蔵庫にストックしていた。それでおにぎりの具を作ったりして、頑張って、おにぎりを二人で作った。作ったご褒美に、と最後はアイスクリームも二人で食べた。


「晩御飯…食べられなくなりそうです」と私が言うと「え? ごめんなさい」と慌てさせてしまった。


「私、帰国して、日本食が嬉しくて。ドイツも美味しかったけれど、やっぱりお米とか色々美味しくて。嬉しくってつい。ごめんなさい」と明るく言うので、この明るさが桜木さんの助けになったのだろう、と私は思って、思わず笑った。


「リハがまだだったら散歩でもしませんか?」と私は誘った。


「そうね。それはいいわ。帰りにデザート買いましょう」とさっきアイスを食べたと言うのに、そんなことを言うから思わず笑ってしまった。


 そしてリハがまだまだ続きそうだったので、そっと表に二人で出た。秋風がすっと通っている。私には見えないけれど、空が高くなっているんだろうなという澄んだ空気が体の中に入っていった。

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