第41話 打倒恋敵

 隣に駐車場があるというので、そこに停めて、降りる。チェロを背負ってから、助手席を開ける。


「那由…着いたよ」と言って、手を取る。


「わー、ドキドキする」と言って、降りてくる。


 古い一軒家だが、木造でありながら、レトロな作りだった。どんな家か、外観を那由に伝える。コンクリートの塀があって、小さな鉄の門があって、扉も小さくて、丸い窓がついてる、と教えると那由はしばらくじっとしていた。まるで見えているように見える。


「扉に丸い窓?」


「うん。ステンドグラスになってる」


「おしゃれだね」と言って、俺を見て微笑んだ。


 憧れのピアニストに会えるので、嬉しいのか、頬が赤くなっている。


 そして俺にくっついて「ドキドキする」と言った。


 小さな鉄門を開けて、チャイムを鳴らすと、遠くから女性の声で返事が聞こえた。扉が開くと、那由とそんなに変わらない年齢の女性がいる。


「いらっしゃいませ。どうぞ。お連れの方も。今…ちょうど休憩してて」


「あ、すみません」


「いいえ」と明るく笑いながら、客用スリッパを出してくれた。


「おじゃまします」と那由も頭を下げながら入ってくる。


 俺は那由にスリッパがあるから、と教えてから靴を脱いだ。大きなチェロがあるから、かがむことはできない。那由は自分で靴を脱いで、それを横によけようとした。


「あ、そのままで大丈夫ですよ」と言ってくれる。


 そんなことをしていると、奥からピアニストが出て来た。ピアノの上手いおっさんと俺は思っていたけれど、那由が言うように確かに顔が良かった。


「こんにちは」と挨拶をしてくれる。


 途端に、那由が掴んでいた俺の手をさらにきつく握った。


「初めまして。あの西澤京です。それと…児玉那由です」


「初めまして」と手を出される。


 俺は握手をしたけれど、本当は那由がしたかったんじゃないかと思いつつ、でもそれを俺から言うことはできなかったし、何より那由が固まっているのが分かる。


「お邪魔します」と小さな声で言ってからお辞儀をした。


「…児玉さん? ピアノ…聞いたよ」とピアニスト桜木氏が言う。


「え?」と那由が驚いた顔をする。


「なんか…西澤くんの事務所の人が動画を見せてくれて。とっても素敵な二人の演奏だった」


「あ…あり…が…とう…ございます」とどうにか返事をしたものの、那由は玄関で固まってしまった。


「那由?」


「あ、はい」と言って、肩が上がる。


「良かったら、お茶でも」と玄関を開けてくれた女性が言う。


 いつまでも玄関にいるわけにはいかなくて、俺は那由を促して、移動する。古い家だけれど、綺麗に手入れされている。玄関を開けてくれた女性は桜木氏の奥さんだそうだ。随分、若い女性と結婚してるんだな、と俺は少し不安になる。那由と変わらない年齢だと思うからだ。


 ちょうど休憩と言っていたようにテーブルにはコーヒーと一緒にシュークリームが置かれていた。


「フライングで食べちゃって」と奥さんが笑って、俺たちの前に新しいものを出してくれる。


「那由、シュークリーム出してくれたから」と俺が言うと、那由はもうカチコチに固まっていて「ありがとうございます」と勢い良く頭を下げた。


 勧められた席に座って、お茶を頂く。


「児玉さんは…紅茶がいいですか?」と聞かれて、那由は「なんでもいいです。水でも」と言うから、みんなが笑ってしまう。


「あ」と言って、泣きそうになる那由が可愛くて仕方がない。


 奥さんがそれを見て、顔の前で両手を合わせて、なんだか感動していた。


「一樹さんのファンなんですよね?」


「…はい」


「わあ。嬉しい」と奥さんが言うので、那由は少し驚いて肩を上げる。


「小学生の頃にCD買って…。でも私、その後、事故にあって…それから…コンサートに行きたかったんですけど…」


「CD? 私も持ってるやつかな? 後でサインしてもらって。持って来てなかったら、私のあげる」とすごくぐいぐい来るから、那由は完全に怖じけ付いて、うなづくしかできない。


 そしていい香りのする紅茶を淹れてくれたのだが、奥さんは那由が気に入ったようで、色々話しかけていた。自分もピアノが弾けると言ったが、楽譜が読めないらしい。


「あ、私も…読めないって言ったら、読めないですけど」と那由は主に耳で聞いて弾いている。


「えっとね、拍子? が違うみたい」


 どうやらメヌエットが四拍子だったらしい。ダンスの曲なのに…と思ったが、「四拍子の方がしっくりくるのにね」と奥さんは楽しそうに笑っている。それを穏やかな顔で見ている桜木氏。なんだか幸せそうな夫婦だな、と俺は思っていた。


「お二人はいつご結婚されたんですか?」と聞いてみた。


「ドイツに行くときにビザの関係で…配偶者ビザを取る必要があって、無理に結婚してもらって…」と桜木氏が言うから驚いた。


「あ…、無理に…っていうわけじゃなくて。私、おにぎり屋さんをしようかと考えてただけで…」


「おにぎりですか?」と那由が聞いた。


「私、弁当屋の娘で…それで何かできないかなぁって思ってたんですけど。でもドイツにしばらくいるっていうし…私も一樹さんと離れたくなくて…」


 それでどうして、そんな二人が知り合ったのか不思議で話を聞いたけれど、それはびっくりするような話で、でもピアノを弾かなくなった桜木一樹氏がもう一度ピアノに向き合わせたのが奥さんだったらしい。


「わぁ…ロマンティックな出会いだったんですね」と那由が感動している。


「お二人は?」と奥さんに聞かれて、俺は困った。


「教授に言われて、実力が合わないのにデュオを組まされたんです。私は全然ダメで…」と那由が言う。


「へぇ」と桜木氏が興味を持った。


「それで…えっと…優しくしてくれて、好きになりました」


「え?」と俺は思わず那由を見た。


 ものすごく内容がショートカットされているが嘘ではない。


「そうなんだ。優しそうだもんね」と奥さんがそのまま受け取った。


 ただ、桜木氏だけは苦笑いをしていた。


「いや…そんな…ことなくて。でも一生懸命してくれたから…それで…好きに」と言うと、なんだかものすごくいい話になってしまって、自分達のこととかけ離れている気がする。


「目が見えないだけじゃなくて…サボりがちなので、足をたくさん引っ張りましたけど…」


「でも君の音は綺麗だから…練習、きちんとすればいいピアニストになれると思うよ」と言われて、那由は目を大きく開けた。


 そして手で顔を覆って「ありがとうございます」と言った。


 きっと涙が溢れてるだろうと思って、俺はハンカチをそっと那由の膝の上に置いて、「リハ、始めましょう」と言った。



 収録する曲はシューマンの幻想小曲集、エルガーの愛の挨拶、そしてお互いにチェロのシャコンヌとピアノのシャコンヌだが、CDがそれぞれ違うという悪どい売り方をするらしい。


 ピアノの上手いおっさん…は本当に上手かった。音が綺麗で、澄んでいたし、一つ一つクリアな音が届く。愛の挨拶なんて、おっさんと弾くなんて気持ち悪いと思っていたけれど、思わず俺が恋に落ちそうになった。那由があんなに興奮するのも分かる。

 今まで弾いた中でも段違いにスキルが違うのが分かる。上手い人と演奏すると、楽に歌うことが出来る。

 そして完璧に相手が上だと分からせられた。


(打倒…されたのは俺? だった…)

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