第38話 再会
レッスン後の日曜日、いつもの喫茶店に行って席に着くと、店員さんが少し遠慮がちに「あの…、最近、変わったことないですか?」と聞いてきた。
「変わったことですか?」
「誰かにつけられてたり…とか」
「え?」
「ひと月ほど前からなんですけど、若い男性がいらして…、今日も来ていらっしゃるんですけど…お客様がお帰りになられると、同じように席を立たれて、最初は偶然かな? って思ってたんですけど、よく見ると、じっとお客様の方ばかり見られているので…」
「あ…」
私がここ一ヶ月感じていた、違和感と後をつけられていたという感覚は間違えていなかったんだ、と顔をこわばらせる。
「やっぱり…。実はそんな気がしていて…」
「今日もその男性が来られてて、今日は…このまま帰られた方がいいですよ。それでもし、またその人が立ち上がったら、私、警察に突き出します」と店員さんが言ってくれる。
「あ、じゃあ…。今日は」と言って、私はそのまま帰ることにした。
すると「あ、やっぱり…」と店員さんが声を上げた。
私は店の入り口で少し様子を伺うことにした。
「お客さま…あの、ちょっといいですか?」
「はい? 何ですか?」
その声に私は驚いた。京に似ている。聞き覚えのある声は間違いようがない。
(まさか…。どうして京が?)
「後をつけてるんですか?」と店員さんが詰め寄っているので、私は慌てて店に戻った。
「あの…京?」と声をかける。
「那由…」と困ったような声でやっぱり京だと分かった。
「お知り合いですか?」と店員さんが心配そうに言う。
私は「はい…。もう…大丈夫です。あの少し話したいので…席に座っていいですか?」と言うと、店員さんは京が座っていた席に案内してくれた。
京も一緒に席に戻り、またコーヒーを注文していた。私はロイヤルミルクティを注文する。
「那由…。今日はケーキ食べないの?」
「あ…後で。京…。帰国したの?」
「うん。那由に会いたくて。写真送ってくれたから、探して…ここに来て…那由を見てた」
「え? 探して?」
「うん。写真の端に写ってた喫茶店の名前とか…調べて。ごめん。一目見るだけで…良かったんだ」と京が申し訳なさそうに言う。
私は自分が何を撮ったのか分からないような写真だけど、それを見て、ここまで探しに来てくれた。それなのに声もかけずにずっと見てた…。
「京…。声かけてくれたら…」
「幸せな顔見たかったけど…辛そうだったから…声をかけられなくて。俺がまた…辛い思いさせるんじゃないかって…」
確かに私は一人でここに座って、京を思ってこっそり泣いていた。ふと京の声を聞いたような気がした日を思い出す。
「あの…もしかして…ひと月前から?」
「あ、それくらいになるかも」と京が少し歯切れ悪く言う。
私はひと月前、京の声がした気がした。ここで、コーヒーのおかわりを頼んだ男性の声が京に似ていた。でもまさか京が来ているとは思えなくて、少し悲しくなってたのを思い出す。私がずっと黙っているので、京は慌てて「ストーカーみたいなことしてて、ごめん」と謝って来た。
「ストーカー? え? もしかして家まで…来てたの? あれ…京だったの」と私は驚いた。
あの足音は京だったのだ。私は思わず安堵のため息を吐く。京が心配してついて来てくれてた。
「うん。ストーカーっていうか、無事に家に帰れるか心配で。…那由はこんなところまで…何しにきてるの?」
「あ…今、私、太田先生にレッスンしてもらってるの。ピアノ…もっと上手くなりたくて」
「レッスン?」と驚いた声だった。
確かに私は京と一緒の時は本当に練習をしなかった。必要最低限だけピアノを弾いているような生徒だったので、京からいつも怒られた。
「もっと…もっと。いつかもっと上手くなって、そしたら京と弾いても、誰も何にも言わない…はず…。多分…」と最後の方はちょっと自信なくなったので、小声で言う。
「それで…一人で通ってるの?」
「朝はお母さんに送ってもらって、帰りは一人で。それでコーヒーのいい匂いがしたから喫茶店に入ってみたの。京が送ってくれた曲を聴きながら、一人でお茶をしてた。学生の頃のことを思い出したりして…」と言って、恥ずかしくなって笑って誤魔化す。
「写真、送ってくれてありがとう。那由の家まで行く勇気がなかったから」
「え? …そんな」
「会いたかったけど…それもいいのか分からなくて」
京が悩んでいたのが伝わってくる。それでも会いに来てくれたのは素直に嬉しかった。
「私ももし…ヨーロッパに行けたら、きっと…京には声をかけられずに…それでもチェロの音を聴きに行ってたと思う。だって、私、京の音…ずっと聴きたくて。アヴェマリアが送られてきた時は本当に嬉しかったの。体が…暖かくなって…久しぶりに幸せな気持ちになれたから…。それで、頑張らなきゃって…。その日、初めてこの喫茶店に入ったの」
「…そうなんだ。俺は那由のメッセージ聞いて、頑張って、向こうで演奏して…。那由の送ってくれた写真見て…お茶に誘われてるのかと勘違いして、嬉しくなって、帰国して、すぐにここに来た」
「お茶に?」
「そう那由がいつもお茶を楽しんでたから…。だから写真がおやつ時間の案内状かと思って」
私はスイーツにあまり興味なさそうな京がそう思ってくれたことが、思いがけなくて、そして嬉しかった。
「京に…心配させたくなくて」
「うん」
優しい声に思わず涙が溢れそうになる…。
「私は元気だから…京も…頑張ってって…そういうつもりで…」
「分かってる…。ううん。ここで見てて分かった」
柔らかくハンカチを当てられて、涙を拭いてくれる。
「俺はお陰で元気になって、ちゃんと演奏もこなして、帰ってきたから」
「京は…向こうで弾かないの? だって音が違うから」
「音が…うん。さすが那由…分かってくれたんだ。那由がいてくれたらって思うことは何度もあった。でも那由のメッセージを聞きながら、何度も頑張って…また…今度は一緒に来れたらって思いながら」
「そんな…」
「…那由はどうしてピアノ…またレッスン始めたの?」
「京が…いなくなって…私…本当は…どうしていいかわからなくて…それで…ずっと音階弾いてた」
「音階?」
「ずっと全音階弾いてて…」
沈黙が訪れる。きっと気が触れたと思っただろう。でも私はずっと一日中、音階を弾いていた。
「それで…バッハの平均律弾いて…プロコフィエフのコンチェルト弾いて」
「プロコフィ…え?」と京が驚いたような声で聞き返す。
「難しい曲を練習したら…何も考えなくていいかなって。そしたら…花から連絡が来て…海外の講習会に行ってて…来年、一緒に行こうって言われて…」
私はどう説明していいのか分からない。
「今更だと自分でも思った。どうしてあの時、ちゃんとピアノのこと…もっとちゃんと練習しておかなかったんだろうって。でも京がいなくなって…そこにピアノがあったの」
「…那由」
「それでレッスン行ったら、欲が出ちゃって…。もしかして上手くなったら…京とも弾けるかなとか…そんなこと思ったりして」と言って、俯いてしまう。
私はチャンスがたくさんあったのに、それを自分から捨ててしまった。後悔している。毎日毎日、音楽を勉強できる機会があったと言うのに、ただ日々を過ごしていただけだった。
「弾こう…。一緒に」
「え? でも…」
同情してくれているのか、と思った。でも京は穏やかでいて、きっぱりと言った。
「那由が上達するのを待ってたら、俺、死んでしまう」
「…ひどい」と思わず呟いてしまった。
「だって、俺はそれなりに…今もそれなりに練習してるから。でもまだまだもっと弾けるんじゃないかって思ってる。那由だって、これからどんどん上達すると思う。だから上達してからなんてないんだよ。死ぬまで。あるいはチェロが弾けなくなるまで…。俺はずっと終わらないって思ってるから。だから今できることで百パーセント出せたらいいなって思ってる」
「今できること?」
「うん。誰かと比べたって仕方ないし…。今の俺が持ってるものを全部出せたらいいって」
京の強さの理由を私は初めて知った。いつも自信満々で、堂々としていて、他人を寄せ付けない強さは人を気にしないところだ。それに引き換え、私は見えないから…見えないことを理由にして、周りと比べてばかりだった。
「…かっこいい」
「え?」と京が照れた声を出す。
「そう言うところ、かっこいいと思う」
「顔もいいんだけどな」と謎のことを言う。
「ん?」
「あ、そうだ。今度、大御所? いや、大御所とは違うな。なんかピアノの上手いおっさんと弾くから那由も来る?」
「ピアノの上手いおっさん?」
「そう。コラボするとかって…」と言って、そのおっさんという人が『桜木一樹』とだと名前を聞いて、私は固まった。
それは私の憧れのピアニストで、初めてCD買った人だった。まだその頃は目が見えていたから顔も覚えている。
「おっさんじゃないよ。それに、ものすごくかっこいいもん」と私が言うと、今度は京が動かなくなったようだった。
本当に動かない。
「京? 京?」と呼びかけても返事もしなくなった。
私は変なことを言ってしまったらしい。
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