第37話 近くて遠くて

 那由が会いたいと思ってくれているのか、会いたくないと思っているのか…分からない。でも那由は俺を見ることができないのだから、俺がこっそりお店に行って、那由を見ることは出来る。

 帰国後の日曜日、時差を計算したら午後三時頃…、俺は写真の現場である喫茶店に行くことにした。


 日本は秋深くなっているとはいえ、ヨーロッパより寒くはなかった。長袖のシャツにジャケットを着て、那由が来るであろう喫茶店に入った。店内を見渡すと、まだ那由は来ていないようだった。

 案内されて、窓際の席に座る。コーヒーを飲んでしばらく待った。入り口が開くたびに、俺は心臓を跳ねさせながら、視線を送る。三度目で那由が現れた。白杖を持って、大きなカバンを持っている。少し痩せたような印象を受ける。そして最後に会った時より髪の毛が伸びていて、肩より長くなっていた。タータンチェックの大きめのカチューシャをつけて、白いカーディガンと、ボルドー色のコーデュロイのジャンバースカート。


「かわ…」『いい』という言葉は飲み込んだ。


 お店の人とのやりとりもスムーズで毎週通っているのはすぐに分かった。ちなみに店員さんは女性だった。もちろん男性の店員もいたけれど、気の良さそうなおじさんだった。那由は座ってから鞄からイヤフォンを取り出し、携帯を操作する。何かを聞いているようだった。ボイスメッセージでも聞いているのだろうか。

 声を掛けたいと思いながら、まだ遠くで見ていたいという不思議な気持ちだった。


 目を閉じて、何かを真剣に聞いている。


 声をかけたらびっくりするだろうか。俺は空になったコーヒーをお代わりした。ふと、那由が顔をこっちに向ける。

 目が合うはずがない。俺のことを見えるはずもない。

 それなのに、心臓が早くなる。


 俺は那由の視線を探す。視線はゆっくりと動いていたが、何か言おうとしているのか、口が小さく空いた。


(俺の名前を呼んでくれたら…)とあり得ないことを祈る。


 そしたら俺はすぐに那由の前に…まるで魔法のように出現できる。

 でもしばらくすると、また目を閉じて、何かを聞いていた。そして、あの小さな指が目のところにいく。涙を拭いているように見える。


「…那由」と小さく呟いた。


 那由が注文したであろうものが届けられると、那由は写真をどうにか撮ろうとして、頑張って、そしてすぐに俺の携帯が震えた。那由からの写真だった。那由が今撮った写真が、届けられている。すぐ近くにいるテーブルの上に乗ったものが携帯に写し出されていた。


(今日はプリンとミルクティ…)


 お茶の誘いなんかじゃない。


 それは那由が一生懸命頑張っていることを教えてくれていた。一人で喫茶店に入って、注文して、帰るということが那由には大変な出来事だ。そもそもどうしてここに来ているのか分からないままだが、那由は大きめのトートバッグを抱えていた。


 那由が食べ終えるのを待って、那由が出て行った後、俺も店を出る。


 家に帰る路線だったが、このまま無事に帰れるか気になって、最後まで見届けようと思って、後ろからついて歩く。電車に乗って、すぐ近くで那由を眺める。本当にすぐ近くなのに、声をかけるのは躊躇われた。

 薄い茶色の髪が秋の光に溶けていくように光っている。那由が綺麗過ぎて、俺はただじっと見ていた。

 まるで片思いをしているみたいだ。ただ遠くからじっと見ているだけで。


 那由はちゃんと自分の駅で降りていった。俺もついて降りていく。那由は白杖を使いながら、ゆっくりと駅から家に向かう。家の玄関に消えるまで見送ると、切なさが込み上げてきた。一人で頑張っている那由を見て、俺は自分の場所へ急いで向かった。


 それから日曜日はできる限り喫茶店に行き、那由を見て、そして家まで帰れるか見送ることにした。三週間ほど、続けていたら、駅までお母さんが車で迎えにくるようになった。陽が大分短くなったから、それはそれで安心だった。暗いと見えなくなるのだから、と俺は思って駅からUターンした。

 そこから急いで、スタジオに向かう。ヨーロッパで演奏した曲を収録するためだった。まだ事務所の人が那由と連絡を取らないかとうるさいが、俺は無視をしていた。


「ほら、見て。反響高いから」と見たくもないSNSを見せられる。


『塩王子のデレっぷりがたまらん』


『普段とギャップがありすぎ』


『こんなの蕩ける』


 俺はスマホを押し返して、「これ、音楽関係ないですよね?」と言った。


「はぁ。塩王子って言われるだけある」と落ち込まれたが、そんなこと関係ない。


「わ か れ た って言いましたよね?」


「別れてもさ、ほら、演奏は別だから。じゃあ、クライスラーの愛の悲しみでも二人で演奏して」と言って、「別れても〜、好きな人ぉ」と昭和の古い歌を歌い始める。


 バッハを弾く前にその歌はやめて欲しい、と思ったが、黙って、収録を始めた。  



 日曜日が楽しみになっていた。毎週、日曜日の中途半端な時間、家を空ける俺を見て、家族は何か聞きたそうな顔をしていたが、無視して家を出る。出かける時はいつもチェロを持って出るが、喫茶店に那由を見にいく時は、その後に用事がない時はチェロは置いていった。それも珍しいのか、親父は不思議そうにして、どこへ行くのか尋ねようとして、母親に肘鉄を食らっていた。


 今日は手ぶらの日だった。チェロの練習は朝からさっきまでしていて、そして終えたところだった。喫茶店でサンドイッチでも頼もうと思っていたから、昼ごはんも食べずに出た。


 今日の那由はどんな服を着ているんだろう、と想像して、俺は完全に片思いをしているストーカーになっていた。


 チェロがないので、歩いて駅まで向かう。那由は一体、どうして毎週、あの場所にいるのだろう、と考えても分からなかった。特に誰かと会うわけでもなく、イヤフォンを耳にしながら、一人でお茶をして帰っていく。

 俺が想像していた男性店員もいないし、那由が特に楽しそうという訳でもない。時々、少し涙を拭いているような気もした。


(辛いことがあるなら…)と俺は思う。


 でもまだ声をかけられずに、ただ眺めるだけの時間をいつも過ごす。


 今日はまだ那由が現れなかったので、ゆっくりとサンドイッチを食べていた。

 メール音が鳴ったので、慌てて見ると事務所からだった。がっかりして、閉じようかと思ったが、一応仕事の内容だったので見た。


「塩王子が言うことを聞いてくれないので、別のピアニストとコラボをお願いします。ピアニストは桜木一樹氏で、ドイツに在住していて、来週から日本に一時帰国するので、そのタイミングでCDの収録と、ミニコンサートをします。チャリティコンサートもあります。ぜひ受けてください」


(いや、これ、言うこと聞く以前に話…スケジュール的に決まってるだろう)と俺はため息をついた。


 年は十位上で…確かラジオで人気が出たピアニストだった。クラシックに限らずなんでも弾くとかで、批判されていたが、俺は普通にクラシックも充分、上手いと思う。確か違う大学の講師をしていたはずだったが、辞めたのだろうか…と俺は思った。

 でも俺は正直、こんなおっさんと演奏したくなかった。本当は那由と演奏したい。


 ため息をつきつつ、今週も那由が来るのを待つ。

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