第36話 気配

 何だか、気持ち悪い。


 気のせいかもしれないが、人の気配を感じる。一人でレッスンからの帰り道だ。

 駅からの帰り道、ずっと誰かに後をつけられている気がする。私の後からずっと同じ間隔で歩く人がいる。特に声をかけられるわけもなく、ひたすらついてくる。私が立ち止まると、その足音も止まる。家の近くまでずっとで、怖くなった。

 家の中に入って、深呼吸していると、


「那由? どうしたの? 黙ったままで」


「あ、えっと。…ただいま」


 お母さんに余計な心配させたくなくて、そのまま靴を脱いだ。



 翌朝、仕事へ向かうバスの中で「おはよー」と理美の声に安心した。


「理美…。おはよう」とほっと息を吐きながら挨拶する。


「どうしたの? 何か…あった?」と理美が心配してくれた。


「うん。昨日…レッスン受けたんだけど…。その帰りに誰かにつけられているような気がして」


「えぇ?」と理美は驚く。


「でも私は見えないから…確認できなくて」


 すると理美は少し声を低くして、「ねぇ、お迎えに来てもらった方がいいよ。だって…何か起きてからじゃ…」と理美は言う。


 私はなるべく自分のことは自分でできるようになりたかったのだけれど、やはりお迎えを頼んだ方がいいのかもしれない、と思った。せめて駅まで迎えに来てもらおうかと悩んだ。


「那由。仕事場ではそんな気配ない?」


「うん。仕事は…ないの。レッスンの帰りだけ」


「そっか。レッスンって同じ時間に帰る?」


「あ…うん。大体、同じかな…」


「そっか。それは後をつけやすい行動パターンだよね」


「え? どうしよう。家までついてきてるんだけど」


「やばいじゃん」


 その日は理美がしっかりガードしてくれたから何も起こらなかった。仕事に行くのはどうやら問題なさそうだと感じた。


「児玉さん、ストーカーにあってるんだって?」と町田くんも心配してくれる。


「あ、それは…気のせいかもしれないんだけど。同じ間隔で家までついてくる足音がして…」


「え? 怖っ。夕方…とか?」


「夕方だけど、割と早い時間で…」


「児玉さんが目が見えないの分かってるんだよね」


「うん。白杖持ってるから…」


「俺、送ろうか?」


「あ、いいの。お母さんに駅まで迎えに来てもらうことにするから」と慌てて断った。


 そんな日曜日に町田くんにわざわざ来て、送ってもらうことなんてできない。


「俺…いいのに。暇人だから」


「そんなの…悪いし」と言っていると、理美が「仕事、仕事」と会話を終わらせてくれた。


 町田くんの厚意はありがたいけれど、私は町田くんに優しくされるとどうしていいのか、なんとなく困ってしまう。そんなことを考えて、仕事をしつつ、お昼になった。どうしても理美が仕事が押してて、「先に行ってて」と言うので、食堂に向かう。

 町田くんと二人きりになってしまった。


「何食べようかな?」と町田くんの穏やかな声がする。


「えっと…。お腹すいたから…親子丼にしようかな」と私は言う。


「あ、それ美味しそう。俺はカツ丼にしよう」と町田くんが言う。


「カツ丼…」


「一つあげようか」


「え、ううん。大丈夫。カツ丼に私もするから」


 町田くんの優しさはこっちまで踏み込んでくるから困る。京だったら…喜んで受け取るのに、と思って唇を少し噛んだ。


「じゃあ、一緒だね」


「うん。美味しいもの食べて、午後も頑張ろう」


「最近…元気になったね」と言われた。


「あ…。心配かけてごめんね」


「ううん。僕が出来ることは…ないけど。カツ丼、奢るよ」


「え? あ、いいよ。そんなの」と言っている間に、食券を買っているようだった。


「行こう」とそのまま注文口まで言って、「カツ丼二つ」と言ってくれる。


 そして二人並んで、カツ丼を待つ。


「あの…ありがとう」



「ううん。いいよ。元気になってくれるだけで…よかった」


 本当にいい人だけど、私は町田くんに返せるものが何もない。でも自意識過剰かもしれないし、どうしたらいいのか、いろいろ悩んでしまう。


「…町田くん。ありがとう。心配もしてくれて。私…でも…まだ整理できてなくて、色々あの…」


「うん。分かってる。まだ好きなんだろうなって思ってる…」


 カツ丼が出来上がって、二人で受け取った。そして窓際の席に並んだ。


「だから…俺のことはただの友達と思っていいから」


「あ…うん。友達だけど…本当に感謝してる」


「カツ丼効果はすごいなぁ」と町田くんが冗談を言うから、私は笑った。


「そりゃカツ丼だもん」


 笑えるようになって、確かに少し回復しているような気持ちになった。京に会えなくなって、二ヶ月…三ヶ月目になっていた。


「でもさ。その付き纏い…誰だか知りたいから…続くようだったら、一緒に帰ってもいいんだけど」


「…うん。もし…続くようだったらお願いするね」


「警察って動いてくれないし」


 確かに町田くんの言う通りだ。誰か分からなくて、不安が膨らむ。


「さ、食べよう」と明るい声に急かされて、私はカツ丼にスプーンで食べようとしたら、うまくいかなかった。


「あ、どうしたらいい?」と町田くんに言われて「あ、そうだ、フォークで食べよう」と私は取りに行くことにした。


 京はフォークに差して渡してくれた。でも…京がいなくても私はちゃんとカツ丼食べれるようにならないと…、と思うとまた涙が溢れる。こんなこともまともにできない自分が悲しくなる。京がいなくても…京がいたら…私はいつもそんなことばかり考えている。

 結局、ずっと京のことばかり考えてる。

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