第31話 最後の嘘つき

 那由の伴奏で、チェロを人前で弾くのはあの定演以来だな、と思いながらチェロを弾いていた。ソロのチェロのバッハのプレリュードが終わって、アンコールがあったら、リベルタンゴをしようと言っていたのに、いきなり流れ出したのはピアノのバッハの平均律一番。

 一緒に練習していた最初の頃に、那由が突然弾き出して、俺にアヴェマリアの旋律を弾かせたことが蘇ってくる。思わず振り返って、那由を見たが、あの頃と違って、愛しく見える。弓を構えて、弾き始めると、ゆっくりと俺のチェロは歌い出した。


 アヴェマリアを弾いていると、神様なんて普段は信じない俺でも、那由に会えたことを感謝したくなる。


 でも那由との恋愛は確かに今までと違って、上手くできている気が少しもしない。俺といることで、不安にさせたり、無理をさせている気がする。それでも俺は那由と一緒にいたい。透明感あふれるピアノの音を聴きながら、那由にもっと自分のピアノの価値を分かって欲しいと思う。

 それに何より、俺は那由が好きだった。何でも受け入れてくれて、優しくて、可愛い那由がかけがえなく思う。だから…返信をくれないことが不安になって、同僚と出てきた姿に嫉妬して那由に何度も謝らせてしまって、挙句の果てには急に走って逃げて、転けてしまうという可愛そうな思いをさせてしまった。


(一緒にいない方が那由にとっていいのかもしれない)


 そんな考えがふと何度もよぎる。


(どうしていいのか分からないくらい那由が好きなのに…)


 最後の音が消えていく。


 CDを買ってくれた人にサインをするということになっているが、どれほど買ってくれるのだろうと思っていると、割と多くて、結構時間がかかった。那由を待たせている、と思ったが、これも仕事なので仕方ないがきっちりとすることにした。

 那由の同僚も来ていたし、全く見たことのない人から「伴奏の人、彼女ですか?」と聞かれたもした。


「はい」と言って、笑ってサインをした。


 でも心の中では(今の所は…)と付け加えていた。


 ようやく最後の一人まで終わって、あたりを見ると、那由は仕事先の同僚と一緒に話して待っていてくれた。そこに行こうとすると、事務所の人が「あの彼女、すごくいいと思うよ。声かけたから。良かったら一緒に演奏してって」と言った。


「え?」と思わず俺は聞き返すと、肩を軽く叩かれて、そして「お疲れ様」と言われた。


 それがどういう意味で「すごくいい」のか、俺には分からなかった。それから那由のところに向かった。



 近くのカフェに入って、二人で遅くなってしまったランチを食べる。俺はカレーを頼んで、さっさと食べ終えて いた。那由はグラタンを頼んで、熱かったのか、少しずつ口に運んでいる。半分くらい食べたところで、事務所の人がなんて言ったか、那由から聞いた。


「…え? そんなこと…言ったんだ」


「うん。どう言う意味か分からないけど」


 視覚障害者の恋人とメディアに出て演奏すると言う意味に俺は固まった。


「…それは…多分…」


「私の障害を利用するって言うことかな?」と那由が言った。


 とてもフラットな声と表情だった。


 それに引き換え、俺は口を開けて言葉を出そうとしたが、何も出てこない。


「京のためなら、それでもいいよ。私、役に立つことがあったら、それだけで嬉しいから」


「俺はそんなつもりで…今回、誘ったわけじゃないんだ」


「うん。分かってる。京は…考えもしなかったんだと思う。…でも私、言ったでしょう? 私のこと、食べていいって。役に立つことが何か少しでもあったらって思ってたから。でも…私なんていなくても、京はずっと素敵なチェリストだから。そういう意味では私なんて、本当は出ちゃダメなんだと思う」


 那由は俺より冷静にこのことについて考えていた。


「京はとっても実力のあるチェリストだから…。私なんかと弾いちゃ…本当はダメなの」


「…那由」


 その先の言葉を俺は阻止できなかった。


「だから…お別れしよう」と言って、息を吐いた。


 俺は唇を噛んで、那由を見る。どんな表情で那由を眺めても…伝わらない。どれほど、俺が失望しているのが那由には伝わることがない。


「…京?」


 何か言わなければいけないと思っていたけれど、多分、そう言う選択をすることになるとどこかで分かっていたのかもしれない。


「…じゃあ…もし…俺が那由を利用したいって言ったら?」


 那由は少し悲しそうに笑って「嘘つき」と言った。


 確かにそれは本当に嘘だった。


「京が…チェロに対して、そんなことするわけない」


「でもそうでもして、那由と一緒にいたいって…そう言ったら?」


「尚更、一緒にいられない」


 那由がどれほど、俺のチェロを大切に思ってくれているか、その言葉で分かる。


「…好きだ」


 それを聞くと、那由も口を横に結んで、「私も…京が好き。だから…ずっと応援してる」と言って、見えない目から涙を溢した。


 ずっと役に立ちたいと言っていた那由が見つけた答えが俺から離れることだった。それが那由にとって、俺への役に立つことだと考えたんだろう。


「愛してる」


 手の甲で涙を拭って、那由も頷いた。


「私も…。京、ありがとう。幸せだった」


「ごめん。幸せ…続けられなくて」


 首を横に振る。


(ねぇ…もし…チェロより君が大事だって今言ったら、また『嘘つき』って言うかな?)


 冷えたグラタンがそのまま置かれている。


(精一杯の嘘をつこう)


「那由のこと忘れて、チェロに…邁進するから」


(ひどい男だと思ってくれていい)


一瞬、目を大きく開けて、辛そうな表情で笑おうと頑張っている那由を見ながら、俺の傷ついた顔を見れない彼女を本当は抱きしめたいのを我慢する。だって、俺は『嘘つき』だから。胸が捩れるような痛みで息が止まりそうになる。


「…うん」と頷きながら、溢れた涙をまた手の甲で拭っている。


(君だって、嘘つきじゃないか)と思って、俺はハンカチでテーブル越しに涙を拭き取る。


「最後に…『おやすみ』と…それから…。いや、それだけ録音してくれる?」と言って、携帯を渡した。


「録音ボタン押してる?」と聞かれたから、携帯を返してもらって、押そうとした時、「ちょっと恥ずかしいから、トイレ、行ってて」と那由が言った。


「分かった」と言って、携帯のボタンを押して、那由に渡した。


 そしてすぐにトイレに向かった。俺はもし一人だったら、泣いていたかもしれない。那由がどんな思いで別れを決めたのか、あるいは決めていたのかもしれないけれど、受け入れたくなかった。でも…那由のことを利用しようとする人がいて、そんなこと許せるはずがなかった。那由は那由で、俺のチェロをそんなふうに扱って欲しくないと言う。


「でも…どうして…」


 解決方法はないのだろうか。水を流しっぱなしで、もう随分長いこと手を濡らしている。何度も失敗していた那由は上手く録音できただろうか。録音に手助けが必要かもしれない。そろそろ戻ろうか、と決めて席に戻る。那由が携帯にまだ何か吹き込んでいる。一生懸命携帯に何かを喋っているのを遠くから眺める。いつもずっと一生懸命愛してくれていた彼女を幸せにできないなら、チェロなんか辞めて終えばいい。


 でもチェロを辞めた俺を那由はきっと好きではいないだろう。


 那由が喋り終えたのか、携帯をテーブルに置いた。そして俺は近づいて、小さな肩に手を置いた。


「おかえり」と那由が言ってくれる。


「ただいま」と言ってから、それも入れて貰えば良かった、と思った。


 そして俺たちは別れた。


 まさか今日の動画がネットにアップされているなんて思いもしなかった。

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