第30話 行き違い

 私はお昼にピアノを弾こうと思ったら、また二人にランチを誘われた。そして外に出る。今日はお店ではなく近くの公園にキッチンカーが来ると言うので、そこでベトナムのサンドイッチを食べることにしようと理美が言う。


「ベトナムのサンドイッチ?」


「サンドイッチって言っても、フランスパンに挟んでて…、具沢山で美味しいから」


 それはバインミーという名前だと教えてくれた。一緒に「僕も食べたことない」と言って、町田くんも来る。


 バインミーには甘いベトナムコーヒーが合うというので、そのセットにすることにした。具は三種類から選べて、ミートボールのにした。町田くんは焼き豚のにしたらしい。理美は私と一緒だった。

 公園のベンチに三人並んで座る。外のベンチに座ると何だか大学の頃を思い出した。風と空気の匂いがして、それも私にはご馳走だった。


「あのね…来週の日曜日に楽器店で西澤君のコンサートがあって…、私、伴奏に行くの。二人の好きな曲弾くから…もし時間があったら寄ってみて」と二人に言ってみた。


「えー? すごい。那由が伴奏するの?」と理美が驚いた声を上げる。


「うん。そうなの。練習がんばってるから」


「そっか。行くよ。俺、予定ないし」と町田君が言ってくれる。


 二人が来てくれることになって、私はさらに頑張ろうと思った。バインミーは美味しくて、ベトナムコーヒーにあっていたけれど、ちょっとだけ具沢山な分、食べにくくて、ポロポロこぼしてしまう。理美がさっとティシュで拭いてくれた。


「ありがとう」と言うと、「なんの」と笑ってくれる。


「俺も落ちたの拾ったんだけど」と町田君がふくれるから、私は慌てて謝った。


 二人といると少しも嫌なことが起こらない。私は仕事もコツコツしているし、本当に幸せだな、と思った。こうして少しずつ、自分の世界を広げて行こうと思った。理美がゴミをまとめてくれる。


「児玉さん…、西澤さんと結婚するの?」と町田君が聞いた。


「え? それは…」


「それは考えているわよね」と理美がフォローしてくれた。


「うん。考えてる。でも…考えてるけど、足手まといかなって思ってて」


 二人の沈黙を私はしばらく待ったけど、何も返って来なかった。


「断る…つもり」


「でも…」と理美は言ったが、その後が続かなかった。


「そりゃ、世界的有名なチェリストだから…児玉さんとってなると…生活リズムも違うし…」と町田君が私の立場を理解しようとしてくれる。


「うん。私はできる限り公務員でいるつもり」


「那由…。どうして?」


「どうしてって…」


 どうしての理由は私が京を愛しているから、だ。


「それは…彼のためだから」


「何、それ」と言って、理美は立ち上がって、一人で帰ってしまった。


 どうやら、怒っているようだった。


「私…変だった? 変なこと…言った?」


「いや…」と町田君も困ったように言った。


 それから一週間、理美は口を聞かなかったし、バスで一緒かもしれないが、声をかけてくることはなかった。それに私たちは外にお昼を食べに行くことも無くなった。一人で食堂で食べた後も、私はピアノを弾く気分にもなれなくて、外を軽く散歩したり、公園のベンチに座って時間を過ごした。

 どうして理美を怒らせてしまったのか分からない。


「那由、元気?」という京のメッセージにも返事ができずに金曜日の終業時間が来た。


「児玉さん」と町田君が声をかけてくれる。


「あ、お疲れ様でした」と言いながら、帰る用意を始める。


「あの…大丈夫? 前田さんのこと」


「ううん。全然、大丈夫じゃない。怒らせてしまったみたいで。でも…どうしたらいいか分からなくて」


「そっか。応援してたんじゃないかな。二人のこと。…でも決めるのは児玉さんが決めたらいいんだから」


「…そうなんだ。ありがとう」


「バス停まで送ろうか?」


「大丈夫。一人で帰れたし…」と言って、私は町田君に「また来週…。あ、日曜日…もしよかったら」と言った。


「うん。行くよ」


 少しだけ微笑んで、私は鞄に荷物を詰めた。


「どうせ同じ方向だし、バス停まで一緒に帰ろう」と町田君が言ってくれるから、私は慌てて片付ける。


 町田君は私の気を紛らわそうと、歩きながら、全然興味がないであろう作曲家の話を聞いてきた。


「あんまり詳しくないんだけど…どの作曲家が好きなの?」


「どの作曲家かぁ…」と私は考えた。


「ショパンとか?」


「ショパン…好き。素敵だもん。難しいけど」


 そう言うと笑う。本当にショパンは素敵なのに難しい。


「好きな曲って、その時その時変わるし…」


 でも一番思い入れの強い曲はやっぱり京と一緒に弾いたベートーベンのチェロのソナタだ。怒られながらもなんとか弾いて、定演まで出れた曲。まさかそんなことができるなんて思いもしなかった。


「何か思いついた?」


「えっと…」と言いかけた時、京が私を呼んだ。


「那由、連絡ないから来たけど…」


「じゃあ、また日曜日に」と町田君はそう言って、私から離れた。


「あ、ごめんなさい。練習して、気がついたら遅くなってしまってて」


「でも…連絡くらいできない?」と京の声も怒っていた。


 今週は私は人を怒らせてばかりだ。


「…ごめんなさい」


「いいよ、もう」


 呆れさせてしまった。連絡をしなかったのは本当に悪かったけれど、私は家でちゃんと練習をしていたし、そして疲れもあった。もちろん一言、音声メッセージを入れればいいだけなのは分かっていた。ただ友達とうまく言ってないことを京に知られたくなかった。


「ごめんなさい」


「那由…。俺って…那由にとって、そんなもんかな」


「え?」


「返信する価値もない…」


「あ…」


 私は見えない京の方を向いた。そして何かを言おうとして、でも涙が溢れた。泣いて許してもらうつもりじゃなかったのに。ずるいと自分でも思ったけれど、この目は見えないくせに、涙をこぼす。


「ごめんなさい」と言って、私は走り出してしまった。


 見えないけれど、バス停がある方に走って、そしてわずかな段差につまづいた。鞄がどこかへ飛んで散らばっている。私は片手で涙を拭きながら、もう片手で地面を探した。


「那由」と京が追いかけて来た。


「ごめんなさい」


 鞄を拾ってくれているようだ。


「…返事しなくて、ごめんなさい」と私が京の影に向かって言う。


「いや、ごめん。怒って、悪かった」と言いながら、体を起こしてくれる。


「違うの。私…友達と関係が悪くなって…それで悲しくて…京に連絡したくなくて…」


「それだったら…教えて欲しかった」と言って、抱きしめられる。


 京を怒らせてしまった。このまま…お別れするのもいいかもしれないと思ったけれど、日曜のことがよぎって、私はどうしようもない気持ちになった。京に嫌われる機会を自分から遠ざけてしまった。何だか気持ちがぐちゃぐちゃになって涙が止まらない。


「那由…連絡は欲しい。…きっと元気でやっているんだろうなって思うけど…、心配だから。それと…何かあったら相談して欲しい。忙しくしてるから…とかそんなこと考えなくていいから」


「…ごめんなさい」


 私は何に謝っているのか分からなくなる。もう限界だ。日曜日で終わりにしよう。私はそう思った。目が見えていたら、もっと幸せが続いたのにな、と久しぶりに見えなくなったことに文句を言いたくなる。


「それで友達とはどうして関係が悪くなった?」と聞かれた。


「えっと…。ちょっと…」


 涙がまた溢れた。

 何もかも嘘ばかり。いつの間にか、私の方が嘘つきになっていた。


「京…今日はこのまま帰っていい? 私、練習したい」


「プレッシャー? だった?」


「うん。それは…そうだよ。だって…京のことだから」


 京がどんな顔をしていたのか私には分からなかった。


「車で来てるから、家まで送るよ」と言われて、そのまま手を引かれた。


 車の中は無言だったし、私は目が赤くて、それで家に帰ったら、京にお母さんが聞いたりするかもしれないと思って、近くのコンビニで止めてもらうことにした。そこからなら歩いて帰れる。


「何か買うの?」


「ううん。この顔…見られたら、京まで、事情聴取が始まるよ」と私が言うと、京は「じゃあ…少しカフェに行こう」と言った。


「え?」


「お腹空いたし、このままだと、那由を食べることになる」


「あ…うん。京が食べてくれるならいいよ」


「那由? どうして俺のことばっかり考えてるの?」


「え?」 


「電話は面倒臭いから…しないの分かった。ちょっと腹が立ったけど、那由はそう言うところがあるの分かってたのに。怒って悪かった。でも基本、俺のことばかり考えてる。今も、俺が那由の両親に怒られるの心配してるし」


「…だって、私にできること…それくらいしかないから」


「そんなことないよ」


 車は私の家を素通りして行くようだった。しばらく車が走り続けて、ようやく止まった。


「パスタとか、ハンバーガーとか軽食のお店でいい?」


「うん。…なんでもいい」


 京は私に怒っていたのに、優しくしてくれる。


「京に怒られたの久しぶり」


「怒ってない…いや、怒ったかな。でも…嫉妬だから」


「嫉妬?」


「だって、男と一緒に出てきたから」


「あ…。町田君」


「だからちょっと腹が立って。連絡ないのも…あれだし。淋しくなかった?」と京が早口で言う。


「うん。だって、私、京のおやすみと、おはようを毎日聴いてるから」


「あ…。それ…録音するんじゃなかった」と京は心底落ち込んだ声で言う。


「京は聞いてないでしょ?」


 京は黙ってしまったので、図星のようだった。


「いや、リアルの声がいいから」と言いながら、ちょっと声のトーンが落ちていた。


 私は京の手を取った。とても大きな手で温かい。


「京のために、日曜日は頑張るから」


「…那由」


「CDたくさん売れるといいね」と私は笑った。



 日曜日になって、リハーサルも上手く行ったし、後は本番だけだった。CD売り場で弾くのだから、音響のことは全く考えられていない上に、別に京のファン以外のお客さんもいるから、うまく行くのか不安だった。小さなピアノで、何とかアップライトを運んでくれたようだったが、私はずっとピアノの前で座って待っていた。しばらくすると店内放送がされる。京のことを紹介している案内だ。そしてミニコンサートを行うといって、集客していた。どこからか人が集まってきて、話し声が多くなっていく。


「あの子じゃない?」


「SNSの子?」


「えー、ほんと? 付き合ってるの?」


 微かにそんな会話が聞こえた。SNS? と疑問に思ったが集中して、演奏することにする。空気が変わって、京が人を縫って、登場した。そして椅子に座りチェロを構える。


「那由」と言われたので、私はAを鳴らした。


 京の調弦が終わると、私はパッフェルベルのカノンの出だしを弾いた。小さなアップライトのピアノ。それにも小さな神様がいるように、祈りを込めて、音を出す。しばらくすると、京のチェロが流れ出す。思わず聞き惚れてしまうけれど、今日はちゃんと弾いて、CDの売り上げに貢献しなくてはいけない。


(町田君のリクエスト曲、聞いてくれているかな)と少し違うことを考えてしまったけれど、すぐに演奏に集中した。


 拍手されて、京がお辞儀をした。店内案内がまた流れる。さらなる集客を求めているのだろう。私も下手はできない、と思った。次はリベルタンゴだ。理美は来てくれてるかな、と思いながら、前奏を始めた。さっきとは打って変わって、会場が熱くなる。この曲をしてよかった。弾いてる方もそうだけれど、聞いてる方も乗ってくる。

 私のソロに少しだけアレンジを入れておいた。

 見えないけれど、京が「お?」と言った空気がはっきり伝わる。

 きっとこれで、京も張り切って、終盤を弾いてくれるはずだと思って、アレンジを加えたのだ。ラストは意外かもしれないけれど、テンポは強固に守った。最後は一緒に終わりたいから。


 拍手が長かった。


「ブラボー」と言ってくれる人もいた。


 それはそうだ、と胸を張る。だって、京のチェロだから。誰だって、きっと好きになる。


 私はそう思って、最後は無伴奏バッハのチェロ、プレリュード第一番を京が弾いているのをその場で聴いていた。本当に綺麗な優しい木の音がする。ミニコンサートはうまく言った。アンコールが続いたので、勝手に私はあのバッハの平均律プレリュードを弾く。京に昔、無視された、でも最終的にはちゃんと弾いてくれたアヴェマリア。

 今日は拒否されることなく、美しい声が天から降りてきたようなチェロの音を響かせた。


 アンコールはリベルタンゴだと言っていたけれど、バッハの後にはやはりバッハがいい、と思ったから、勝手に変えた。後で怒られるかもしれないけれど、私は本当に綺麗なチェロの音をお客さんに聞いて欲しかった。


 木の安らぎのような京のチェロの音を。


 演奏が終わるとCDを買ってくれる人に京はサインするためにブースに置かれた机に移動したようだった。私はぼんやり待っていたら、男の人から声をかけられた。


「君…児玉那由さん?」


「はい?」


「僕、西澤京くんの事務所の者です。素敵な演奏、ありがとうございました」


「いえいえ。私じゃない方が良かったのかも」


「そんなことないですよ。あなたですごく良かった」


 事務所の人が言うほど、私は上手くないので首を傾げる。


「感動ですよね。目の不自由な彼女と演奏するなんて…」


「あ…。でも私は…そんなに上手くなくて。今日のが精一杯です」


「いいんですよ。別に。人の気持ちを感動させることができたら。僕は感動しましたから」


「そう…ですか」


 私は彼が何を言いたかったか、分からなくて、困ってしまった。京の伴奏が下手でいいなんてあり得ない、と私は思う。何か言おうとした時、町田君の声がした。


「児玉さん、すごく良かったよ。感動した」と同じように感動したと言ってくれる。


「ありがとう。わざわざ来てくれて…」


「…前田さんも来てるよ。サインもらいたくて、列に並んでるけど」


「そうなの? 良かった」と私は嬉しくなった。


「後で、来るって言ってたから。ピアノ上手かったね」


「あ、あれくらいは…。もっと難しいのは弾けないもん」と言うと、町田君は「それでもすごいよ」と明るく言ってくれる。


 事務所の人が割って入ってきた。


「児玉さん、小作品のCDを作るとき、参加しませんか?」


「え?」


「僕、今、思いつきました。愛のあいさつとか…そう言うタイトルで聴きやすいチェロ曲を作るんです」と朗らかに言う。


「え? 児玉さんがCD出すの? すごい」と町田君まで言うので、何となく否定できずにいる。


「それで…いくつかメディアに出て…、恋人と二人で演奏してもらって…」


「え? それは…京が望んでいることですか?」


「いや、何もまだ言ってないよ。でも売れると思うんだよね。視覚障害者の恋人とデュオ」と言われた。


 私は何を言われているのか、どうなっているのか分からずに、そして誰かに助けを求めることもできずに、立っていた。


「ごめん」といきなり声がして、顔を上げると、理美だった。


「本当に…ごめん」と言って、抱きしめられる。


「理美…」


「那由のこと…無視したりして」


「ううん」と言ったら、涙が溢れた。


「あのね…。私、少し悔しくて。那由のこと、羨ましかったから…、悩んで決めたことって分かってても悔しかったから」と言いながら、きつく抱きしめられて、私は理美の気持ちが伝わってきた。


 理美はそう言えば、京のこと…憧れだったんだ、と思い出す。


「今でも…何とかならないかって…思ってるんだよ」と抱きしめながら言われた。


「…うん」


 私だって、そう思ってる。


「でも…私にできることない? 本当に私に何かしてあげられることない?」と理美が聞いてくれる。


「…また一緒にランチに行って欲しい。バスでも声をかけて欲しい」


「そんなこと」と言いながら、理美も涙声になっていた。


「二人とも、はい、これ」と町田君が何かを渡してくれる。


 理美が体を離して、それを受け取ると、ティッシュだったようで、それで私の涙をそっと拭いてくれた。そして泣き笑いしながら、また謝ってくれる。暖かくて、私は涙を拭いてもらってもまた涙が溢れた。私の目は泣くためだけにあるみたいだった。

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