第32話 種
私の世界から京が消えた。
京との日々は幸せで、嘘みたいで、夢だった。甘くて、可愛い夢がはじけただけだ。
大好きな人と一緒に過ごせた時間はかけがえの無いものだったけれど、失った喪失感の大きさは私を苦しめた。何を食べても美味しさを感じられない。みんなと一緒のランチも量が食べれなくなった。周りの人に心配されたけれど、どうしても口に運べない。
スカートが緩くなったから、きっと痩せているのだろう、と思ったが、誰も「痩せたね」と気を遣って言ってくれなかった。
(きっと、大丈夫)
私は繰り返し、自分にそう言った。
(私はきっと大丈夫)
呪文のように、何度も、そればかり頭の中で繰り返す。私は家に帰ると寝るまでの時間をずっとピアノで音階を弾いて時間を潰した。音階を弾きながらずっと同じことを繰り返していた。
(時間が過ぎれば…きっと忘れられる)
季節は夏真っ盛りになり、その夏がいかに暑かったのか私は少しも気にならなかった。あんなにうるさく鳴く蝉の声も私の心に届いてなかった。
お盆休みはずっとピアノを弾いていた。音階ばかりだと流石に頭がおかしくなったと思われるので、バッハの平均律を一番を抜かして弾いた。やっぱり一番を弾くと、京のチェロが聞こえてくるからだ。朝から晩まで、ずっと弾いて、今なら難曲だって挑戦できそうな気持ちになった。
そうだ、難曲にチャレンジしていれば、頭が空っぽになるかもしれない。取り憑かれたように私はコンチェルトのCDを聞いて、弾いた。
夏休みに花から音声メッセージが届いた。夏にフランスでバイオリンの講習会に参加しているらしい。花はオーケストラのエキストラをしたり、バイオリンの先生をしていたりして、毎日忙しそうだった。
「那由、元気? 海外で楽しく講習会に参加してるよ。那由も一緒だったら良かったのに。来年は一緒に行って、室内楽しない? また那由と一緒に演奏したいな」
大学でほとんど友達がいなかった私に優しくしてくれた花。いつも花にくっついて、室内楽も花とばっかりだった。
「あの頃に戻れたら…」と思って、私は手で顔覆って泣く。
もう涙が出ないと思っていたのに、律儀に涙は忘れることなく出てきた。
「もっと…ちゃんとピアノ…弾いてたら…また…変わったのかもしれない」
少なくとも…京の伴奏を胸を張ってできたはずだった。
視覚障害者の世界的音楽家は存在する。でも頑張ることのできない自分を私はどうして叱咤できなかったんだろう、と。彼らのようになれなくても、どうしてそもそもの努力をしなかったのだろう、と初めて後悔した。
世界的な音楽家のようではなくても、私にもできることがあったはずだった。
私は花にメッセージを送った。
「来年…一緒に行きたいから…。誘って。今から練習しておくね」
花との練習は楽しかった。いつもお互いに失敗しても笑いながら、何度もやり直しをした。
(もっと練習しなくちゃ)
私は大学の時よりも、入試の時よりもピアノを弾いていたと思う。そして改めて…私のピアノが私を支えてくれることに気がついた。
九月になって大学が始まった頃に、私は恩師に会いに行くことに決めた。約束をとって、その日は午後を半休にしてもらって、一人で大学まで行った。なんとなく行けるのに、私はずっとお母さんに送ってもらって、甘えて…ただ好きなピアノをちょっと弾くためだけに通っていたのだ。京がそんな私に苛立っていたのも今なら分かる。真剣に音楽を勉強している人には私の音楽への向き合い方はふざけている。
(今更…遅いかもしれない。でも京のおかげで、私はもっと上手くなりたいと思えたの)
大学までの道を白杖を使いながら歩く。いつも車だから分からなかった、なだらかな坂道に少し汗ばんだ。大学の敷地内に入ると懐かしい匂いと音が溢れていた。そうだ…もうすぐ秋の定演がある。初めて出た定演。新調したドレス。何もかもが遠い記憶のように思える。
階段をゆっくり登って、恩師と待ち合わせしている教室まで向かう。手で壁をなぞって歩く。何もかもが懐かしい。
ドアを確かめてノックした。
「はい」と先生の声がする。
「児玉です」と言うと、歩く音が近づいてドアが開かれた。
「お久しぶり…。来てくれてありがとう。…随分と…痩せたね」
初めて私の体型を指摘された。
「あ…はい。今年は…暑くて」
「そっか。僕は暑いからやたらアイス食べて、太っちゃった」と相変わらず大らかな様子で笑う。
目の見えない私を受け入れてくれる先生だけあって、本当に優しい。
「そうそう。動画、見たよ。西澤くんとの演奏」
「え?」
思いがけないことを言われて、思わず聞き返してしまった。
「西澤くん…。母校のスーパースターと二回目の共演」
「あ…あれは…間違ってました。私なんかじゃなくて、もっと上手な人と」
「もっと上手…かぁ」
「はい。だから私、もっとちゃんと練習しておけば良かったって反省してるんです」
先生はふふふと笑って「ようやくその気になったか」と言った。
そして「下手じゃないよ」と言ってくれた。
もちろん「練習しないだけで」と付け加えることも忘れてなかった。
「僕がどうして西澤くんとデュオを組ませたのか…分かる?」
「それは…京…西澤くんのためだと…」
「まぁ、もちろんそれもあるけど、僕はね。彼と一緒に演奏することで、君の中に種を蒔いたんだ」
「たね?」
「そう。人前で演奏する喜びを君にも知って欲しかった。何もかも諦めたようにピアノを弾いていた君にも、コンクールでバンバン賞を取るような子にも才能はあるからね。もちろん同じ才能じゃない。それぞれ違った才能がある。コンクールで入賞するような子はそれをいち早く気づいて弛まぬ努力して、そこに至ってる。君にだって人に劣らない才能があったけど…まぁ、努力しなかったからね。それに家庭の事情もそれぞれだ。経済的に余裕で音楽に費やせるご家庭もあるだろうし、そうじゃないケースだってある。だから僕は無理にお尻を叩くようなことはしない。したところで苦しくなるからね。ただ僕は君の中に種を蒔いた。定演を終えて、発芽したかなって思ってた。そこから結構、長かったね。でも君が西澤くんと共演している動画を見て、『あ、ちゃんと練習したな。努力した』って分かったから…。今度は双葉が咲いたって思ったんだ。ものすごくスローペースだけどね。そして君がここに来てくれた。これ以上、嬉しいことはないよ」
そう。私は先生に月に一度でもいいからレッスンを受けさせて欲しいと頼みに来たのだった。だから驚いて何も言えなかった。あの京とのデュオは私のためでもあったと思ってもみなかった。
「僕たちは大きく育った才能を花開かせるのが仕事だ。でもたまに君のように種を植えることだってある。そっちの方がものすごく大変なんだけどね。大輪の花も見事だけれど、小さな葉っぱが育っていくのだって、等しく感動する。だからレッスンしよう。君が望むなら、専攻科を受ける準備をしてもいい。もちろん経済的なこともクリアになっていれば、だけど」
「奨学金は返せそうです」と私は勢い込んで言った。
先生は笑いながら「良かった」と言う。
「音楽はいろんな形がある。ソリストのような憧れの対象、オーケストラのような活躍の場、あるいは気軽に楽しんでもらえるようなアンサンブル、ジャズ…。君がどこで活躍するかは分からないけれど…、もっと自信を持ってピアノに向かえるようにやっていこう。君は耳がいいから、それを生かして、室内楽も本当に向いていると思うんだ。まぁ、それはおいおいとして…せっかく来たのだから、何か弾いて欲しい」
私は延々と弾き続けたバッハの平均律を弾いた。後、プロコフィエフのピアノコンチェルトを練習していたので、それも弾いた。
「早速レッスンしたいところだね」と先生に言われた。
かつての時間を後悔していたけれど、私に種を蒔いていてくれたこと、そしてそれが今、ここにあることを実感しながら感謝した。
まだ汗ばむ季節だったけれど、陽が落ちるのが早くて、レッスンを終えると急いで帰ろうとした。暗くなると見えなくなってしまう。
「あの…」と後ろから声をかけられた。
大学で声をかけられることがないと思っていたので、自分じゃないと思ったけれど、「あの…チェロの西澤さんのピアノ弾いてませんか?」と言われたので立ち止まった。ぼんやりとしたシルエットがそこにあった。
「…ごめんなさい。どなたですか? 私、見えなくて」と白杖を見せる。
「あ、突然、すみません。私、ここの大学の…チェロ科で…、西澤さんに憧れてて…」
(そっか。そう言うこともあるか)と私は納得した。
「それで…動画見ました」
「動画…。ごめんなさい。私、その事、分かってなくて」
「あ、こちらこそすみません。あの…誰かが撮った動画だと思うんですけど、ネットに上がっていて」
「そうですか」
ネットにあげられているとは言え、私が見ることはない。私が認知することがないものは全て存在しないものと同じだ。そこに悪口が書かれていようが、その存在を知らないのだから。
「とっても素敵でした」
「え? あ…。私は…」と悪口でも言われるかと思っていたのだが、思っていたのと違っていて言葉が出なくなった。
「西澤さんがあんな…表情で演奏するなんて、なかなかなくて」
「表情?」
「あ、それもごめんなさい」と平謝りされる。
「気にしなくていいいの。私は見えないから、分からなくて。教えてもらえると嬉しい」
「…あ、とっても優しくて、調弦の音を頼んだ時の表情も柔らかいし、それに…アンコールの曲の前奏を聴いた時、一瞬、驚いて、ピアノの方を見たんですけど…その時の顔が本当に愛情を感じられるようで、微笑みながら弾き始めたんです。その音も綺麗で。それはいつもですけど…。だからお付き合いされてるって噂になってて…」
「そう…ですか。それは見えなかったので、全然…」と言って、私は涙が溢れた。
「え?」
「あ、驚かせて…ごめんなさい。今…は…お別れしてます」
「えぇ? あ、こちらこそ…ごめんなさい」
「いいえ。聞かせてくださって…」と言って、頭を下げる。
これ以上は言葉にならなかった。ずっと愛してくれていた京がどんな表情かだなんて思いもしなかったから。
「あの…また弾いて欲しいです。本当に素敵だったから…」
そう思ってくれる人がいたことを知れて、本当に良かった。私は声をかけてくれた彼女にお礼を言って、家に帰ることにした。一人で帰れて良かったと思った。胸に迫った寂しさを抱えて、歩くのにはちょうど良かった。
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