第27話 久しぶりの合わせ
甘い匂いが鼻をくすぐる。チェロの間に那由がいる。陽に透けて茶色い髪の毛が明るく光っている。曲が終わってもずっとそのままで那由をチェロごと抱いている。柔らかい暖かさが腕の中にある。
「那由…今日、遅くなってもいい?」
「合わせで、遅くなるの?」と怯えたような声を出す。
余程、俺との合わせがトラウマのになっているようで、軽く笑ってしまった。
「違う。那由のこと…抱きたい」
無言で固まっている。耳が赤くなっているのを横から覗き込む。増えたまつ毛が揺れている。頰も赤くなっていて可愛いけど、やっぱり少し恨めしい気持ちになる。だって、俺も相当顔が赤くなっているのに、それをきっと分かってもらえない。
「…合わせが早く終わったら」と小さな声で那由が言う。
耳元でため息をついた。拒否しない那由が愛おしい。そのまま軽く抱きしめてから、体を離した。那由がゆっくりと立ち上がるから、ピアノの椅子まで連れていく。
「那由…好きだ」と髪にキスをする。
「京、合わせでしょ!」と那由は少し怒ったような顔をして、俺の方を向いた。
そして視線が全く合わないまま「私も好き」と言う。
(ずるい。俺がどんな顔をしているのか見えないで、そう言うこと言うのは…ずるい)
聞こえないように小さく息を吐いた。
「良かった。じゃあ…Aくれる?」
ぽーんとAを鳴らす。
Aの音は生まれた赤ちゃんが出す声だとどこかで聞いた。どうしてこの音で合わせているのか、分からないけれど、オーケストラはこの音で始まる。
曲が始まる前の調弦の音。ざわざわしたざわめきのような音。
今は那由と俺しかいないから、俺だけの調弦だ。それをじっと待ってくれている。ピアノの前でじっとしている横顔はどこも見ていないのに、少しも動かなかった。
「リベルタンゴ…テンポはどうしようかな」とあんなこと言った後なのに、意外だけれど、ちゃんと音楽のことを考えていた。
前奏を弾いて「これくらい?」とこっちを向く。
こっちを向く必要はないのだけれど、那由は人の声のする方に話しかけるという癖をつけているようだった。
「うん。パーフェクト」
インテンポ。テンポに揺らぎがない前奏だ。前奏に乗ってドラマチックに演奏する。那由は徹底して、伴奏として表に出ない。ひたすらリズムを刻んでいる。わずかな箇所だけ、那由がメロディーになるが、それ以外はリズムマシーンのように俺のチェロがうまく乗ることに徹している。だから信頼感を持って、最後も同時に終われる。
「…那由、上手くなったね」
「え? ふふふ。そうでしょう?」と言って、笑う。
市役所のロビーで毎日弾いているからか、音楽の魅せ方を知っているようだった。大学で那由のピアノを聴いた時は鼻歌のような楽しそうだけれど、演奏とは言えるレベルではなかった。
「プロコフィエフとか難しい曲は弾いてないけど…、少しでも聴きに来てくれる人がいるから…。喜んでもらいたくて。後、ちゃんと練習したよ」と自慢げに言う。
「まぁ…それは当然のこと…」と言ってしまって口をつぐむ。
「そりゃあ…京からしたら当然かもしれないけど」と頰を膨らませる。
(練習しないチェリストとか存在しないから)と思ったが、それは言わなかった。
那由はピアノが弾ける公務員なんだから。でもやっぱり勿体無い、と思う。何というか、魅力がある演奏をするのだ。クラシック向きではなく、もっと音楽を楽しんでもらえるような、人を惹きつける演奏ができるのではないか、と思った。
「那由…ピアニストにならないの?」
「へ?」と思わず変な返事をするところが可愛い。
「俺、専属の」と言うと、間髪入れずに「いやー」と声を上げる。
(そんなに嫌われてるのか)と流石に悲しくなった。
「そんなに厳しくしてないのに?」と聞き返しても首を横に振る。
「だって、もう二度とあんな大変なことしたくないし、京のこと嫌いになりたくない」
そこまで言われたら流石に俺もそれ以上は強く言えなかった。
「今回は…CDが売れるために協力してるだけだから…あれ? もっと上手い人に頼めなかったの?」と今更、那由が聞く。
「…那由と一緒に弾きたかったから」
すると体ごと、こっちを向いて「どうして?」と聞いた。
SNSで那由が晒されているのだから、もう堂々と俺との関係を公式にしたかった、とは言えなかった。
「那由は…きっと楽しい演奏をしてくれると思ったから…」と言うと、「そっかぁ。…じゃあ、そういう感じで弾いてみるね。もう一回弾こう」と言う。
前奏の音が跳ね出した。生き生きと鍵盤を指が動く。面白いので、乗っておく。那由のわずかなメイン箇所もアレンジがたくさん入った。でも一曲弾き終えた後、
「これはアンコール用だね」と那由が笑う。
「確かに…」
「CD売りたいから…最初の方で。もしアンコールがあれば、もう一度、これ弾こう。きっとお客さんも楽しんでもらえるはず」と俺に視線が合わないまま微笑みかけた。
「恋人思いだな」
「だって、少しでも京の役になれるのが嬉しくて」
そこまで言われて我慢できなくなる。思わずチェロを置いて、那由のところに行こうとした時、リビングに親父が入ってきた。
「すごく良かったよ。休憩しない? お茶淹れるから」と言う。
「ありがとうございます」と那由が素早く言うから、俺は仕方なくテーブルに那由を案内する。
親父は冷蔵庫から母さんが買ってきたケーキの箱を取り出して、那由に一つ一つケーキの味を説明していた。こんなに親切な親父は見たことがない。今まで彼女を連れてきても、挨拶だけで、顔を途中で出すことはなかった。
「えっと…チョコと…モンブランと…」と那由は真剣に悩んでいる。
「全部好きなの食べていいよ」と俺が言おうとしたことを親父が言う。
(まさか…)と思ったら、親父も甘い顔をしていた。
俺が見ているのに気づくと、ちょっと顔を整え、咳払いをする。
(絶対、親父も那由を気に入っている)と少し睨んでおく。
「えっと…どうしようかな。一つにしておきます」とわざわざ言う那由を可愛いと思ったら、親父も眉毛を下げていた。
「那由の好きないちごショートもあるけど…」と俺は那由を理解してると言うふうに言ってみた。
「うん。…それにしようかな」と那由はやっぱりいちごショートを選んだ。
「へぇ。可愛いのが好きなんだね」と親父の感想が一々うるさい。
それから出て行ってくれない親父も参加して三人でお茶会をすることになった。那由にあれこれ質問して、嬉しそうだった。ケーキを食べ終えて、那由がトイレに行きたいと言うので、案内する。
「恥ずかしいから、トイレ出たら、メールするから…あのリビングで待ってて」と言われたので、リビングに戻る。
親父が心配そうな顔を向けた。
「何だよ?」
「お前…、彼女を幸せにできるのか?」
「するよ」
「…お前で本当にいいのか聞いてみよう」とふざけたことを言う。
すぐにメールが来たので、トイレに戻った。那由が扉から顔だけ出して「水を流すレバーが分からなくて」と困ったような顔を見せる。
「あ…えっと。流そうか?」
「ううん。いや。絶対いや。あの…場所を教えてくれたら、できるから」
「あ…そっか。えっと。壁の右側にあるリモコンの上にあるボタン」
流れる音がして、無事にできたようだった。
「京…」
「ん?」
「一々、恥ずかしい」と那由が俯く。
「…ごめん」
「京が謝ることないの」
「うん。最初に教えておけば良かったって」
「私も聞いておけば良かったって」
那由のこと、全然分かってなくて、俺もちょっと落ち込んだ。
「でも…なんでもするから」と俺が言うと、少し頬を膨らませて「なんでもって」と那由が言う。
トイレの前の廊下で何でだか分からないけれど、二人とも俯く。俺は那由の手をそっと取る。
「こんなところで言うのも変だけど、那由のこと愛してる…から」
那由の目が少し揺れて「私も京のこと愛したい…のに…何もできなくて悲しい」と言った。
それは率直な言葉で、すぐに答えを見つけられなかった。側にいてくれるだけで、と言う台詞は本当なのに、あまりにも彼女の存在を軽くしてしまう。
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