第28話 愛しい匂いと広がる不安
リビングに戻ると、京のお父さんが「京で本当にいいの?」と聞いてきた。
「え? あの…私の方が足手まといになるかと…思ってます」と答えた。
足手まとい。その言葉がぴったりだと口にしてから思った。新しい場所に行くと、私は自分のこともろくにできない。
「そんなことないから」と京が言ってくれる。
京の気持ちも伝わってくるけれど、私の思いは変わらなかった。でもこれ以上、何かを言うと京を困らせてしまうことは分かっていたから「ありがとう」って微笑んだ。
何だか微妙な空気にしてしまったかもしれない。いつもそうだ。私のことで、周りは気を浸かってくれるし、お互いどうしたらいいのか分からない。
「那由、行こう」と京が言う。
「合わせはいいの?」
「うん。完璧だよ。よろしくね」
「うん」
京がこんなにあっさりと解放してくれるなんて、思ってもなかったから、あっけに取られてしまった。そのまま手を引かれて、ゆっくり玄関に出た。京が靴を差し出してくれていて、私の足に履かせてくれた。まるでお姫様のような扱いだ。でも…私はお姫様じゃない。公務員だ。
「京…。ごめんね」
「なんで?」
「一つ一つ、京に頼らないと生きていけない」
「那由…」と京が言葉を探すようなことを言ってしまったことにも後悔する。
「あ。でも…自立、今年の目標は自立だから」と慌てて付け加える。
「ごめん。今度からは靴の場所を教える」
口で教えるより、持ってきてくれて、履かせてくれた方が京には楽なのだと分かっていた。それなのに、自分のことばかり言ってしまう。
「ありがとう」と言って、口角を上げた。
京が今、どんな顔をしているのか分からない。ただ差し出された手を握って、立ち上がった。
ラブホテルというところはひたすら湿っぽい匂いと暗くて、初めて入ったけれど、私はどこにも行けなくて京の手を握っていた。
「那由? 大丈夫?」と言われたので「ごめんなさい。暗くて…何も…形もわからないの」と言った。
「あ、ごめん」
「お日様の光がないと…電灯だけだったら…少し暗くて…」
そのまま京に抱きしめられた。
「分かってあげられなくて…ごめん」
そんなことを言われて、私は泣きたくなった。今日は何回、京が私に謝っただろう。私も同じ気持ちで、苦しくなる。好きとごめんと行ったり来たりしてる。
「京の…匂い」
「え?」
「京の匂いで、少し安心だから。…ここ…変な匂いする」
「うん」
何分くらいだろう、ずっとしばらくそうしてくれていた。
「京…好き」
そう言って、顔を上げるとキスをしてくれる。好きなのに、何だか息苦しい。もう少しで泣きそうになった時に、キスが終わって、優しく抱きしめてくれる。
「好きだから、ずっと」
ゆっくりと手を引かれて、お風呂場まで移動する。
「お風呂、一緒に入ろう。その方が俺が好きだから」
「…私は恥ずかしいけど」と言ったけれど、京がそう言うのなら…と思ってベッドの上に座らせてもらって、お湯が溜まるのを待つことにした。
ただ暗くて、湿っぽい部屋で、私は京を待つ。京が戻って来なかったら…と思うとすごく怖くなる。お湯を入れるスイッチを入れるだけなのに、不安になって、私は立ち上がった。そしてお湯の音がする方へ歩く。足がテーブルのようなものに当たる。そこを伝いながら、ゆっくりと進んでいると「どうしたの?」と京に言われた。
「あ…」
「喉乾いた?」
「京がいなくて…ちょっと不安だったから」と言ってから面倒臭いことを言ったと思った。
(大人しく待っていればいいのに)と思われてるかな、と考えていた。
「那由…。ずっと一緒にいたいから…結婚して欲しいんだけど」
「でも…」
私と一緒にいることが京にとっていいことなのか分からない。座る場所も分からなくて、暗闇の中、ぼんやりと立っている。
「朝も昼も夜も…一緒にいたいと初めて思えたから…」
そうだ。私は京のチェロになりたい。そう心から思った。そしたら足手まといなんかじゃなくなる。でも私はチェロになんかなれない。
「私も…」だけど…という言葉は心の中でつなげるだけにした。
京を悲しい気持ちにはさせたくない。
お風呂のお湯が溜まって、二人で入る。体を隅々まで洗ってもらうのは本当に恥ずかしい。だから今度は私も京を洗うことにした。背中に泡立ったタオルを擦り付ける。
「あれ?」
「ん?」
「京の背中…大きい」
改めて背中の大きさに驚いてしまった。京が思わず笑っている。
「那由、小さいもんね」
「だからチェロ弾けるんだ」
「うーん。少しは関係あるのかな」と京の声がくぐもって響く。
お腹の方を洗うと、少しくすぐったいのか、笑い出す。
(私は見られて恥ずかしかったのだから)「我慢して」と言う。
お腹の下の方までいくと、
「そこは自分で洗うから」と言われる。
「あ…ごめんなさい」とタオルを落としてまうと京が笑い出した。
「それとも那由が手で洗ってくれるの?」
(意地悪なこと言うなぁ)と思って、「よし」と気合いを入れて、お望みの通り手で洗おうと触れる。
思いがけない感覚が手にしたので思わず感想を口走ってしまうと、京が「そう言う事言われたら…我慢できなくなるんだけど」と言う。
「びっくりして…」
「そっか。ごめん」となぜか京が謝る。
「あの…」
「何?」
もう一度、触れたくなったけれど、それを言うのは躊躇われた。
「ううん…。あ、じゃあ、足を洗うね」
京の足も大きかった。足の指も大きい。
京はチェロでいつも座っているし、歩いている時は「背が高いなぁ」と思っていたけれど、こんなに大きいなんて…とため息をついた。
「那由は小さいもんねぇ」と京の声が上からする。
「そうなの?」
「うん」
そう言って、湯船に二人で浸かると、お湯が溢れる。京に後ろから抱かれるような形でお風呂に浸かる。
「その小さな手だったらピアノを弾くのも大変だろうなっていつも思ってた」と言って、手に触れられる。
「そうなのかな…」
指にキスをされる。
「京…」
私も京の指にキスをした。指も長くて、節を感じられる。どうかこの先もずっと演奏が上手くいきますように、と願いを込めた。万が一、指が動かなくなることなんて起こりませんように、と。
「何してるの?」
「ずっと京の指が素敵なチェロを演奏できるようにってお願いしてたの」
「ありがとう」
「だって、京のチェロは素敵だから」と言うと、後ろからぎゅっと抱きしめられる。
温かいお湯の中。暗くて見えないけれど、京がいるから安心できた。
お風呂から上がって、髪の毛も乾かしてくれて、本当にゆっくり愛してくれた。真っ暗だけど、京の息遣いも聞こえる。
「那由…ちゃんと避妊してるから」
「あ…はい」
「この前…那由は不安になってしまったかもしれないけど、あの時、赤ちゃん…できたらってちょっと考えて、幸せな気持ちになれたんだ」
「え?」
「那由と俺と…赤ちゃん」
「でも…私…育てられるかな」
「みんなで育てよう」
「みんなで?」
「両親に協力してもらってって考えたら…早い方がいいかなとか」
私は京に抱かれながら、不思議な気持ちだった。どうして京はそう具体的にいろんなことを考えられるのだろう。私はまだ何も考えられないのに。
「…赤ちゃんって…私は自分のこともまだ何もできないのに…」
「ごめん。ちょっとこの間、そう思っただけ」
「あ、謝らないで。私の早とちりだったんだから」
「あれこれ考えて、嬉しかったんだ。那由に似てたら可愛いだろうなとか」
「京に似てたら、男前だとか?」と私が言う。
確かにそれは素敵な想像だ。だけど、私には京の顔も見えないから、赤ちゃんの顔を想像することもできない。
「京…。私、初めて…なの。こんなにあなたの顔を見たいって思ってるの」と京の顔を軽く指で辿る。
少し息が頰にかかって「安心して。間違いなく男前だから」と言うから、思わず笑ってしまった。
「那由…愛してる」
「うん。私も…」と言いながら、広がる不安と京の優しい匂いに包まれていた。
湿った匂いがしていた真っ暗な部屋で、幸せと優しさと不安と愛しさが混ざっている。私は京の大きな背中に小さな指を這わせる。
「好き」という言葉を発したつもりだけれど、京に届いただろうか。
「可愛い」と言ってくれる言葉は私の横を滑り落ちてベッドに染みていくような気持ちになる。
だって、私は自分の顔さえも分からない。記憶では十二歳の顔だけれど、それが成長と共にどうなったのか…そのままなのかも分からない。
「本当に?」
「本当。那由は何もかも可愛い」
目を開けても閉じても暗くて、京の声や体温が唯一の拠り所だ。
「白くて柔らかい肌。綺麗な瞳…は見えないなんて思えないんだ。今も俺が映ってる」
「京が?」
「うん。那由の瞳の中に映ってる」
見えないけど、だとしたら素敵だと思った。
「小さくて赤い唇も、細くて茶色髪も、何もかも可愛い」
「京がそう言ってくれるのなら…それが一番いいから」
今は京に甘えたい。本当はお別れするのがいいのだと分かっている。京に抱きしめられながら、今だけだから…と自分を許した。
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