第26話 天井から差す光

 合わせは京の家だったから、京がわざわざ車で迎えに来てくれた。


「京はいつ車の免許取ったの?」


「チェロ運びたかったから、高校卒業してすぐに取った」


「へぇ」と言って助手席に乗る。


 家の車と匂いが違ってて、不思議な気持ちになる。


 カチッ。

 近くに京の匂い。


 私がシートベルトを締めるのにもたもたしていると京が近寄って、嵌めてくれた。


「苦しくない?」と言われて、首を横に振る。


 京の匂いがして、思わず、どきっと胸が鳴った。京は少しも気づいていないかもしれないけれど、京が近づくたびに緊張してしまう。警戒しているときは特に何も起こらないけれど、油断しているとキスをしてくる。嫌じゃないけれど、突然は本当にびっくりしてしまう。さっきはお母さんが見送りに出ていたから、キスはされなかったけれど、京の匂いがして、思わず緊張してしまった。


「那由? 今日は怒らないから」


 私が黙っているのは合わせに緊張しているからだと思われた。


「今日は…京のご両親いるの?」


「あ…知らない。聞いてなかった。でも大体、日曜は親父おやじはゴルフ行ったり、母さんは買い物に行ったりしてると思うけど」


「そっか。京って兄弟いないの?」


「一人っ子だからね。今日は二人っきりかも」と京が楽しそうに言うので、私は少し困った。


 車は快適だった。京に仕事先で楽しくやっていることを伝える。先週は毎日、外でランチを食べたと言った。


「仲いいんだね」


「うん。最近、仲良くなったの。なんか…友達って一緒にいると楽しいね。…でも三人での会話って結構大変なの。二人がよく喋るし…」と私は上手く間に割って入ることができなくて、ちょっとドキドキしながら話を聞いてると言う。


「あの…男の方の同僚だけど…」


「町田君? いつもお菓子くれるの。クッキーとか常備してるみたい」と言うと京から返事が返ってこなくなった。


 それから会話が途切れて、少し変な空気のまま京の家に着いた。京の家はどんな風だか見えないけれど、車を降りてから、家までゆっくり案内してくれる。さっきのはなんだったんだろうと思ったけれど、「段差があるから」とか優しい声だったから、私は流すことにした。


 玄関の扉を開けて、靴をここで脱いで、と言われて、靴のストラップを外していると、上から


「いらっしゃい」と低い声がした。


 顔を挙げると人影が見える。


「こんにちは。お邪魔します」と慌てて立ち上がって、頭を下げた。


「え? 何で親父が?」


「母さんもすぐ帰ってくる。ケーキを買いに行ってるから」


「いや、遊びに来たわけじゃないから…」とムッとした京の声がする。


(始まる前から京の機嫌を悪くしないで欲しい)と私はこっそりお願いする。


「紹介して欲しいんだが…」と言われて、私は肩が上がった。


「初めまして。あの…児玉那由です」と頭を下げる。


「私は京の父親で、西澤俊行です。京と仲良くしてあげてください」と落ち着いた声で言われた。


「もういいだろう。行こう」と手を引っ張られて、私はもう一度だけお辞儀をした。


 ストラップの取れた靴を脱いで玄関の端の方に置こうとしたけれど、玄関が広くて、分からなかった。


「こっちでしておくから」と言われて、私は京の父親らしき人影にお礼を言った。


「目が不自由と聞いてます。困ったことがあれば何でも言ってください」と丁寧に言ってくれた。


(京のお父さんだって、私のこと不安に思っているかな)


「あの…京とおつきあいさせて頂いてます。それで…」と私が勢い込んで言うと、低い笑い声が聞こえた。


 京と同じで、私が何か言うと、突然笑い出す。そんなにおかしいことを言っただろうか。


「那由ちゃん? それは…京の台詞だから」


「え?」と私は言われたことが分からなくて、首を傾けた。


「京がちゃんと紹介しないから」と京の父親は京に向かって言ったようだった。


「あ…でも。京はちゃんと私の家に来て、挨拶をしてくれたので…今度は私が」と言うと、今度はさらに大きな声で笑われてしまう。


「那由、もういいから…」


「…え? 私、変なこと言った?」と途方に暮れてしまう。


 京の父親はまだ笑いが収まらないみたいで、「あぁ、それは…。とりあえず玄関先では何だから入って」と笑いながら言われた。

 

(また空気が読めなかったのかな)と思いながら、京に手を引かれて歩く。


 廊下を少し歩いて、扉を開けると「リビングにピアノあるから」と言われた。防音室のような狭い空間ではなくリビングに置いていると言うので、アップライトのピアノかな、と私は思っていたけれど、リビングに入って驚いた。


「明るい」


 上から光が差し込んでいる。


「…お日様の光?」


「うん。天窓が大きくあって…だから天気のいい日は明るいんだ」と京が言う。


 ピアノまで案内されると、アップライトではなくグランドピアノだった。鍵盤を触ると、音が上にぽーんと上がっていった。市役所のロビーほどではないが、吹き抜けになっているのであろう。音が響く。


「うわぁ」と思わず声が出てしまった。


 こんな環境で、京は毎日練習していたのか、と驚いた。私は椅子に座って、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾く。音が綺麗に上へ上へ登っていく。消えていく音を確認した。響が残るうちに次の音を弾く。

 バッハのこの曲を弾く時は何もかも投げ捨てて、神様の前でかしずくように、音楽を奏でる。私という個人を捨てて、音と響きに耳を澄ませる。


(そうか…。京は毎日こんな場所で弾いていたのか)と私はもう一度思った。


「…那由」と京に声をかけられた。


「京…。京はずっと…この音を聴いてたんだ」


「え?」


「この場所は…神様に近い音がする」


「…那由」ともう一度呼ばれた。


 京がどういう顔をしているのか分からない。でもきっと京もここの場所で鳴ったピアノの音に感動しているのだろう。ピアノに関しては少しくらいは私の方ができるはずだから、きっと今までに聴いたことのない音をこのピアノは出したと思う。


「素敵なピアノだね」と私が言うから、京は「違う」と言った。


 肯定が返ってくると思っていたから驚いた。私は何か失敗したのだろうか、と思って、京の方を見る。


「違う。…那由が…素敵な演奏をしてくれた」


 私は見えないけれど、じっと京を見て、言った言葉を考えた。


「本当に」と後ろから、女性の声がした。


 京の母親だろう。


「あ、お邪魔してます」と立ち上がって、頭を下げる。


「那由さん…。素敵な音だったわ」


「あ、ありがとうございます。ピアノがすごく綺麗な音で、お家も…響がすごく良くて」と私は一生懸命理由を述べた。


 どうして言い訳みたいなことを言ったのかは分からない。それでも何だか言わなければいけないような気がした。


「姉も…喜んでるわ。そのピアノ…私の姉のピアノだから」


「お姉さんの…」


「そうなのよ。病気で亡くなってしまって」と言われて、何と言っていいのか分からなくなる。


 京は「今から合わせるから」とちょっと不機嫌な声を出す。


(あぁ、もうお願いだから練習が始まるまで、京は放置して欲しい)と手を合わせて心の中でお願いする。


「はいはい。お邪魔でした。スタジオの方に行ってるから。後で買ってきたケーキ、冷蔵庫に入れてるから食べなさい」と言って、出て行ったようだった。


 少し息を吐いて、私はまたピアノに向かった。パッフェルベルのカノンから合わせた方が早そうだったので、その前奏を弾きながら、京にテンポを確認する。それにしても光が溢れるピアノを弾くのは楽しい。音まできらきらしてしまう。


「そのくらいのテンポで。A弾いて?」と言うので、Aを鳴らすと京が調弦を始める。


 チェロの音もゆっくり響きだす。京のCDがたくさん売れるといいな、と思いながら待っていた。


「じゃあ、お願いします」と京に言われて、あっけに取られた。


 そんなこと言われたの初めてで思わず「えっと…何を?」と聞いてしまった。


「那由が前奏してくれる曲でしょ?」


「あ、はい。じゃあ…」と言って、鍵盤に手を置いた。


 京のチェロがゆっくり入れるように、私は前奏を始める。京のチェロはやっぱり素敵だった。『なんて最悪な性格だ』と思いながら泣きながら弾いていた頃が懐かしくて、あの頃の私はまさかまた京と合わせることになるとは思わなかった。最初から楽な曲を合わせることができたらまだ良かったのかもしれないけれど。


「いいと思う」と京はたった一度だけでカノンは合わせるのを終えようとする。


「あ…」


「何? 気になることあった?」


「あ、少しだけ…。チェロの音を確認したいから…」


「どこ?」


「あの…私もチェロ弾きたい」と言うと、京は少し笑った。


「いいよ」と言う優しい声も後から聞こえる。


 私がチェロを弾きたいと言うと、京は後ろから弓を持った私の手を握ってくれる。左手は京の手に私が乗せる。そうしてチェロを弾かせてもらえる。カノンの出だしを弾き始める。チェロってなんて素敵な楽器だろう。体と楽器との距離が近くて、その響きが体にダイレクトに伝わるし、何なら私も楽器の一部になった気持ちになる。弾いてくれているのは京だけど、私も楽器になったような気持ちいで心地いい。


「那由、上手だね」


 また嘘をつかれたけど、私も「うん」と嘘をつく。


 後ろに京がいて、チェロからはいい音が流れて、私は楽器の一部になって、溶けそうなくらい心地がいい。光が燦々と降り注ぐ場所で、心地いい音が私たちを包んだ。

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