第25話 愛しい彼女
翌週の半ばくらいに那由から赤ちゃんできてなかった、と連絡が来た。少し遅れていただけのようだった。那由は見えないから色々不安になることもあるんだ、と俺が気付かさせられた。ただ見えないからか、SNSに関しても全く気がついた様子はなかった。
「市役所のピアノが今弾けないから、ちゃんと家に帰ってから練習してるよ」と那由が誇らしげに報告してくる。
「じゃあ、合わせるの楽しみにしてるから」と言うと、ちょっと不安そうに「あと一週間待ってて」と言うから可笑しくなる。
「分かった。明日、晩御飯だけ食べよう。迎えに行くから」と言うと、那由は嬉しそうに返事をしてくれる。
目が見えないことがいいのか悪いのか分からない。例のアカウントは削除されているようで、ピアノも使えないと言っていたからか、特に那由と思われる写真が上がっている様子もなかった。
俺は那由と楽器店でのミニコンサートで演奏することこを決めたのは公に那由のことを公表するつもりだった。別にアイドルでもなんでもないのに、一々、そんなことを言わなくていいとは思うけれど、生涯、一緒にいたい人なんだと表立って言えば意地悪もされないと考えた唯一の方法だった。人は隠せば隠すほど探りたくなるのだから。
那由のことをブスだと書いた奴の顔を見てみたい。人の顔をあれこれ言う奴が一体どれほどの顔をしているというのだ。
確かに那由は化粧っ気が少ない。それでも那由の肌は綺麗だし、唇だって可愛い。焦点の合わない目はどことなく不思議でつい見入ってしまう。決して俺を見ることのない目は…でも俺がいつも映っていた。
待ち合わせより早めに着いて待っていると、那由が男女の同僚に挟まれて出てきた。男性の方が俺を見て、駆け寄ってくる。
「あの…西澤さんですよね? ちょっとだけお話しいいですか?」
「え、はい」
「児玉さんの写真が無断でSNSに上がってたの知ってますか?」
「知ってます」
「…だから、児玉さんに嘘をついてピアノ弾いてもらうのやめてもらってるんです」
「…そう…だったんですか」
「彼女、目が見えないからそんな嘘もなんとなく納得してくれてて…」
「…色々すみません」と俺は謝りながら、目の前の男性が那由に気があるんじゃないかと思っていた。
「彼女を守りきれないんだったら…」と言ったところで、サインを強請っていた女性が走って来た。
「西澤さん。那由が待ってるから。SNSの話でしょ? ここでのことは私たちがなんとかしてるから」と俺に言った。
「え、あ、すみません。本当にありがとうございます」と言って、入り口でぽつんと待っている那由を見た。
「早く行ってあげて」と女性に急かされたので、頭を下げて那由のところに駆け寄った。
那由はあらぬ方を向いているが、少し顔が違って見える。まつ毛が何だか増えている。
「あれ? 那由、まつ毛が…」
「え? 京? 変? もしかして変?」と手で顔を覆う。
「ううん。驚いただけ。可愛いから見せて」と言って、手を退けさせると、ナチュラルだった目が少しおしゃれをしていた。
「あの…マスカラ塗れないから、まつ毛エクステとかいうのしてもらったの。あ、同僚の理美が連れて行ってくれて」
「すごくかわいい」と俺は言う。
明らかにほっとしたような顔をする。那由は施術されたところで、変化も何も分からないのに、したと言うことは、それは俺のためだ。だから繰り返し何度も褒めた。
「もう。そんなに褒めたら、また京のこと、嘘つきだからって疑っちゃう」
「なんで、嘘つきってなってるんだよ?」
「だって…そんなに可愛くないもん」と頰を膨らませる。
「…誰が…そんなこと」と思わず驚いて言ってしまった。
「世界一男前には比べもにならないよ」と那由はなんでもないように言うから、知らないのだろうとは思うけれど、どう返して良いのか分からない。
那由が黙ってしまった俺の方に顔を向ける。まつ毛のせいで目がぱっちり見える黒目は俺を探すように気忙しく動いた。
「その男前がかわいいって言うんだから、世界一かわいいんだよ」
「あー、もー」と口を尖らせながら、恥ずかしそうに顔を背けた。
俺は那由の手を取って、歩き始める。那由は白杖を左手に持っているが使っていない。
「一人で仕事行ってるんだって?」
「うん。バスで一本なのに、今まで甘えてたの」とブンブンと、白杖を上下に振る。
「そっか。那由。今日は先にケーキ食べる?」
「え? ご飯食べれなくなる」と言いながら嬉しそうに笑う。
「那由はいちごのショートケーキが好きそうだな」と言うと、驚いたような顔を見せる。
「えー? なんで分かるの?」
「だって…そんな気がした。なんとなく」
隣で俺の好きなケーキ予想を一生懸命にしている那由が愛おしい。モンブランかチーズケーキかで迷ってる。何を言っても正解って言ってあげようと思うけど、そう言うところがもしかしたら「嘘つき」と言われてしまうところかもしれない。
「ガトーショコラ!」
「え?」と思わず言ったから、「違ったか」と那由がまた眉間に皺を寄せ始めた。
「あ、それも好きだけど」
「一番を知りたいの」とちょっと怒ったように言われてしまった。
結局、ケーキ屋に着くまでにあーだこーだと言いながら楽しく歩いた。
そしてケーキは那由と同じいちごショートを選んだ。なんとなく、同じものを食べて、同じようにおいしいと思いたかったから。那由は「え?」と驚いていたけれど、少し嬉しそうに笑った。
「一緒に同じもの食べるの、なんか嬉しい」
「うん。そう思って…」
ずっと那由とそうでありたいと思うから。
「京…。私、いちごショートより京が好き」と那由が突然言うから俺は言葉を失う。
何か言わないと不安にさせてしまうんじゃないかと思ったものの、突然の告白に完全にフリーズしてしまった。
「京?」
那由が少し首を傾げて、呼びかける。
「あ…驚いた。ショートケーキより…上だったんだ」と間抜けなことを呟いた。
「えー? 当たり前でしょ」と頰を膨らませるが、俺はまだ一部しか解凍していなかった。
「京のチェロも、京も…一番好き」
まるで中学生みたいな会話だと思う。好きな人の好きなことを知って…お互いのことを理解して…すればするほど、好きになっていくことに驚いた。
(なんだ、これ…。那由の嫌なところが…全く見えない。人間だから欠点があるはずなのに…)
「京? どうかした?」
「ちょっと…あ。那由って自分で思う欠点ある?」
「欠点? 沢山あるけど…。その中で京が最も嫌いになる欠点あるよ」と俯き加減で言う。
「聞いてもいい?」
「聞いたら…嫌になると思うけど」
そうかもしれない。でも少しくらいは嫌にならないと、このまま那由のことを好きになりすぎても、何だかおかしくなりそうだ、と俺は思ったから「ぜひ聞きたい」と言った。
那由は考えて、舌を少し出して言う。
「ピアノ練習しないところ」
「あ…。うん。知ってる」
それはすでに知っていた。
「もっとないの?」
「え? もっと?」と真剣に考えている。
「えっと…すぐ泣いちゃうところとか?」
「知ってる。次」
「すぐ怒るところ?」
「その程度は問題じゃない。次」
「えっと、あと…内緒にしてたけど…。京と連絡しようかなぁと思いながらうっかり寝てしまうところ」
「え? そうだったのか。…連絡少ないと思ってたけど」
今まで付き合ってた女性はみんな、毎日は当然、一日三回以上連絡があったのに、那由は一日ない日も珍しくない。なんなら、俺のメッセージも無視されることもあった。
「しようと思うんだけど…眠くなっちゃって」と下を向く。
ちょうどその時、ケーキが運ばれてきた。ケーキをテーブルの上に綺麗に並べられている間にも真剣に考えていた。
「あ、あと、空気が読めないところ」
「…だめだ」
「え?」
「嫌いになる要素が…練習しないことだけしかない」
「ええー」と那由が一気に不安になっている。
「来週が楽しみだね」と初合わせのことを言うと、「意地悪」と少し涙が目に浮かんだから慌てて「ごめん」と言う。
「いいもん。ものすごく練習するから」
膨れた頰を見るのも楽しい。那由が見えないのをいいことに、多分、俺はものすごく幸せな顔で那由を眺めていたと思う。目の前のショートケーキより甘いはず。
「那由、はい、あーん」とケーキの乗ったフォークを差し出すと、小さく口を開けてくれる。
ケーキが食べたいから、口を開けているんだろうけれど、きっと周りが見えてたら、恥ずかしくてしてくれないだろう、と思いながらケーキを小さな口まで運ぶ。クリームのついた唇が動くのを見ながら、来週の合わせは優しくしてあげよう、と心に誓った。
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