第24話 那由の不安

 カレーは成功したみたいだけど、京は「最近、変わったことない?」なんて変なことを聞いてきた。


「変わったこと?」と聞き返してみたけれど、「ううん。いや、元気だったらそれでいいんだ」と言う。


「え? 何? …あ」と考えてみて、思い当たることは一つあった。


 でも何だか言いにくくて、京に言うべきかどうか迷ってしまう。


「どうかした?」と焦った京の声がするから、仕方なく言ってみた。


「あの…この間…」


 やっぱり恥ずかしくて、京が気づいてくれたらいいのに、と思ったけれど、京は「この間?」とちょっと真剣な声で言うから、更に言いにくくなってしまう。


「あの…私…分からないんだけど…」


「うん? なんでも言って」


「でも京…が…困らないかな?」


「何?」


 お父さんたちが帰ってくる前にこの話は終わらせたくて思い切って言ってみる。


「避妊、してくれた?」


「え? ひ? ひにん?」と京が思いがけず驚いた声を出す。


「あ、ごめん」


「え? あ、避妊? したけど…体調悪いの?」


「ううん。ちょっと遅れてるだけ…かも」


「え? 病院行かなくていい?」


「あ、流石に…まだ…早いかも」と私は何だか顔が熱くなってしまう。


「いや、はっきりさせよう」


「え? でもあんまり早いと分からないし…」


「いつ分かるの?」


「えっと」と困っていると京が自分のスマホで調べてくれた。


「生理って…いつくる予定だった?」と聞かれて、それも恥ずかしくなる。


「そろそろなんだけど…」


「じゃあ…それから一週間待って病院行こうか」と京が言う。


「あの…もし赤ちゃんできてたらどうするの?」


 沈黙がちょっと怖かった。


「だったら尚更、結婚して欲しい。…でも那由が決めていい」


「…京、困らない?」


「困る?」


「だって、これから沢山、いろんな国に行って…演奏する予定なのに…」


「連れては行けないだろうけど、会えないのも寂しいだろうけど…。本当に赤ちゃんが出来てたら…大切にさせて欲しい」


 京の言葉が心に沁みた。私は少し不安だった。もし赤ちゃんが出来たら、と思うとちょっと怖かった。京の人生だって変わるだろうし、私もどうしていいのか分からない。


「ごめん。不安にさせて。もちろん避妊はしたけど、百パーセントじゃないから…」


「ううん。なんか…ごめん」


「なんで那由が謝るの?」


「ううん。ううん」と言葉にならなくて恥ずかしくなる。


 また京に抱きしめられた。


「不安になるよね」と言われて、私は泣いてしまった。


 誰にも相談出来なくて、怖かったから。お母さんにも言えずに、そのことを考えたら頭がいっぱいになっていたから、今、京に言えたことで、気持ちがゆっくりと凪いでいく。


「那由が色々努力してくれて…嬉しい。でももっと俺を頼ってくれてもいいし…。俺も那由を頼らせて欲しい」


「え? でも…私にできることってあるかな?」


「あるよ。…一緒に演奏してくれない?」


「え…でも…それは」


「簡単な曲を、楽器店併設のカフェで…。CD販売するんだけど、可愛い曲があった方が買ってくれるし…。那由と演奏したい」


「簡単な曲?」と言うと、京は笑った。


「うん。一緒に愛の挨拶とか、愛の喜びとかそう言った聞き馴染みのある曲を二、三曲演奏して、それでお客さんにCD買ってもらおうと思って」


 最後の台詞は少し舌を出してそうな雰囲気だったので、私も笑ってしまった。


「他に、那由がしたい曲があれば…いいんだけどね」


「…リベルタンゴ。京が弾いてるのを聞いて、一緒に弾きたいなぁって思ってたから」


「へぇ」と京が驚いたように言う。


「ちょっと楽しみになってきた。あとパッフェルベルのカノンも」


「…うん」と言いながら、優しく背中を撫でてくれる。


 私はこれで、理美にも町田君にもちょっと恩返しできるかもしれない、と少し嬉しくなった。



 朝、私の乗るバスに理美が乗っている。そして空いてる席に案内してくれるし、空いてなければ、一緒に立って支えてくれる。


「ねぇねぇ。今日はさ、ピアノ弾かなくて良くない?」


「え? でも…」


「おいしいランチ、行こう。お願い、一緒に行こう」と理美がやたらと誘ってくるから、今日くらいはいいか、と思って頷くことにした。


 仕事場で、町田君にも「今日、ピアノ…あれだから…使えないって」と言われた。


「あれ?」


「そう。あれ。…メンテナンスとかって言ってた気がする」


「メンテナンス? 調律のこと?」


「あー、そうそう、それ」


「そうなんだ。分かった。ランチ…外に誘われてたからちょうど良かった」と言うと、「俺も一緒でもいい?」と言われる。


「うん。理美とだからいいと思うよ」


「じゃあ、また昼に」と言って、行ってしまった。


 私は何だか分からないまま、お昼の時間は違う出口から出た方が近いから、と言われて、理美に手を引かれた。


「町田君も来るって」と言うと、


「町田君? まぁ、いいか。場所、メールしとくわ」と言う。


 そして聡美が一押しだという洋食屋さんに並ぶ。メニューを教えてくれる。ハンバーグランチ、海老グラタンコロッケランチ、パスタランチ、カツカレー、オムライスがあるという。選べなくて、困っていたら「明日も来たらいいんじゃない? 端から端まで堪能してみないと」と言われる。


「そう?」


 理美の一押しのお店というだけあって、美味しかった。町田君も後から来た。


「もう並んでたから…先に行っててくれてよかった」


「ハンバーグおいしいよ」と私が言うと、町田君もそれを注文する。


「さっき聞いたんだけど、今週いっぱいピアノは…調律なんだって」


「え? 今週いっぱい? どうして?」


「あ、なんか…その…調子が悪いみたいで」


「ピアノの?」


 ピアノの調律は時間がかかるとはいえ、三時間もかからないはずだ。


「いや、あのメンテナンスしてくれる人の」と町田君が言う。


「あー、ボランティアでやってくれるから…忙しいからのよね。だから毎日、少しずつするみたいよ? その間、触って欲しくないんだって」と理美も言う。


「毎日? 少しずつ?」と私は首を傾げた。


 おかしなこともあるもんだな、と思いつつ、でも市役所のピアノだから私は何も言えない。


「じゃあ、今週はみんなでグルメランチ会でもしよっか」と理美が明るく言う。


 変だな、と思いつつ、私は何だかその楽しそうな会に参加することにした。そして来た時と同じ駐車場の入り口から戻る。


「こっちの方が近いのよねぇ」と理美が呟いた。


 私の感覚とは違うが、理美が正しいのだろう、と思って、そのまま地下のエレベーターに乗って、仕事場に戻った。今週はずっと理美か町田君と一緒だった。金曜日なんて、理美と一緒にまつ毛エクステに帰りに行って、一緒に晩御飯も食べて帰る。


 駅に着くと私は「ありがとう」とお礼を言った。


「え? どうして?」


「なんか、友達付き合い…初めて楽しめた気がする」


「友達いなかったの?」


「いたけど…学校でお世話してくれてて…でもこういうのは初めてかも」と私は言う。


「そっか。友達だから遊びに行くのにありがとうとか別にいらないよ。でも…ありがとう。ついてきてくれて」


「えー?」とお礼が言いたかったのは私の方なのに、と理美に伝えたかったが、上手く行かなかった。


 そして理美は一緒のバスに乗っている間、ずっと私の新しいまつ毛を褒めてくれた。私は見ることができないけれど、京が喜んでくれたらいいな、と思った。

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