第23話 垂れたカレーライス

 事務所の人から言われて、携帯でSNSを見て驚いた。那由の顔は写ってないけれど、市役所のロビーでピアノを弾く後ろ姿がアップされていた。


写真と一緒に「Nさんの彼女?」と書かれている。


「何これ…」と俺は思わず呟いた。


「この人、西澤君のファンみたいなんだけど、ちょっと色々、度を超えたところがあるから…」と言って、SNSを遡ると、事務所を契約したところから、タグが付けられている。


「自分のことを認知してほしい…だけなら、よくあるんだけど。とりあえず…この彼女と付き合ってるの本当?」


「…はい」と言って、SNSを見ると「よくその顔でNさんの彼女とか…」、「下手くそなのに毎日、ご苦労様」とリプが付いている。


「…これ、場所特定しようと思えば、できますよね?」と俺は言う。


 那由が後ろ姿だとして、背景は綺麗に映り込んでいる。


 リプは数件だったが、「そんなに下手じゃなかったよ。もちろん簡単な曲だったし…」と書かれているものもあった。


 実際、見に行った人もいるようだった。


「そうだね。…後さ、これ…」と事務所の人が那由が市役所前を白杖を持って歩いている写真も後ろから撮られている。


 それを見て驚きと…そして怒りが込み上げてくる。那由が白杖を持って歩くのも知らなかった。いつも普通に歩いていたからだ。どういうことかも理解できない。そしてそれを上げる人を許すことができなかった。


「彼女…目が悪いの?」と事務所の人が聞く。


「…完全ではないらしいですが…視覚障害者です。光や物の形がぼんやり見える…程度らしくて」


「それでピアノ弾けるってすごいね。西澤君と一緒に弾いたらいいのに」と言われて、はっとした。


 この人は全盲の素晴らしいピアニストのようだと那由を想像している。那由はそうじゃない。下手ではないが、ピアニストというレベルの練習量ではない。分かっているのに…俺もそれを強要していた。


「いいじゃん。素敵な二人でねぇ」と続ける。


「ちょっと…あの…彼女は…ごく一般的な方なので」


「え? そうなの? どこで知り合ったの?」


「音大ですけど…」


「じゃあ、そこそこ弾けるんでしょ?」


 なんて説明すればいいのか分からない。それに今は猛烈に腹が立っていて、冷静にいろんなことを考えられない。


「この件に関しては…一応、通報しておいたけど…。こういうのってアカウントを変えて、またするかもだし」


「ありがとうございます」と言いながら、俺はどうしたらいいか考える。


 那由には知られたくなくて、那由のお母さんに連絡した。電話で聞くと、最近、一人でバスに乗って通勤していると言っていた。そのために白杖を持っていると。それも…全て俺のためだった。料理も白杖も「結婚するなら、一人でできることを増やしたいって言って」と明るく話す母親と対称に俺は胸が裂けそうだった。


 そもそも那由がこんなことを言われているのは、俺と付き合っていると周囲に分かったからだ。いつどこで、見られていたのか分からないが、俺も市役所に行ってチェロを弾いたりしていたから、話がどこかで流れたのかもしれない。


 土曜日に那由の家に行って、カレーを食べることになっている。それまで夜は忙しくて会えなかった。


「夕方に来て。ちゃんと作って待ってるから」と那由からのメッセージが入っていた。


 まだ那由は気がついていないようだった。


 俺はどうしていいのか分からないまま土曜日の夕方に那由の家に行った。玄関で迎えてくれたのは那由だけだった。


「あれ? ご両親は?」


「それが…せっかくだから夫婦で外食したいって。私のせいで、いつもお母さんがご飯作ってくれてて。だから…二人きり…。あ、もちろん、食べたら帰ってくるんだけど」と若干、牽制されたような気がしなくもなかったが、それどころではなかった。


「そっか。これ…デザート。関西に行ったから…限定のカステラ買ってきた」


「え? いいの?」と嬉しそうに笑う那由を見て、俺は思わず抱きしめた。


 那由は訳がわからないというように俺の名前を呼ぶ。


「会いたかった…」


「京? 変なの。今までずっと会わなかったのに」


「うん。だから…我慢できなくなったのかも」と誤魔化した。


「カレー食べて」と言って、家の中に入れてくれる。


 ご飯をよそうのも大変そうだが、「手伝おうか?」と言うと「自分でしたいから待ってて」と言われる。


 時間がかかりそうだけれど、座って待つことにした。サラダも彩りという感じではないが、レタスと切って、プチトマトが乗っていた。簡素ではあるが、サラダ付きだ。見た目は本当に綺麗とは言えないいが、それを一生懸命俺のために用意してくれたと思うと、胸が詰まる。


 ようやく運ばれてきたカレーも皿からはみ出して垂れている。


「那由」


「失敗してる?」


「ううん。美味しそうだ」


「さ、食べて。味は確認できるけど、見た目は…分かんない。でも食べたら一緒だよね?」と不安そうに言うから、椅子に座った那由を俺は後ろからまた抱きしめた。


「ありがとう」


「え? すごい大感謝されてる?」


「うん。すごく感動してる」


「最近、褒められること多くて。仕事先でもみんなが褒めてくれるの。ちょっと嬉しい」


 那由。


「お菓子くれたり、ジュース買ってくれたり…あれ? 私、子供かな?」


 那由。


「でも…そういう気持ちが嬉しくて…。学校では花としか仲良くしてなかったけど、もっと仲良くする人を増やせばよかったって」


 那由。


「今更、後悔して…。京?」


「那由の世界が幸せで、良かった」


「え?」


 体を離すと俺も席に着く。


「いただきます」と言うと、那由も明るい顔で「いただきます」と手を合わせた。


 まだ食べてないのに、じっと様子を窺われている。急いで口に運んだカレーは中辛で甘味も感じて、美味しかった。


「こんなに美味しいカレーは…初めてだ」と言うと、「もう京はすぐ嘘つく」と言われる。


「嘘じゃないけど…、じゃあ、こんなに嬉しいカレーは初めてだ。だったら嘘じゃない」


 するとなぜか那由が笑って、「ありがとう」と言う。


「どうして? 作ってくれたのに?」


「京がいなかったら、私、ずっと親に甘えてた。ご飯も作ってもらってただろうし、仕事も送ってもらってた。京が結婚しようって言うから、驚いたけど、慌ててなんとかしなくっちゃって思って…」


「それなんだけど…無理させて…ごめんって思ってて」


「ううん。いつかはしなきゃいけないことだから」と慌てて首を横に振る。


 那由の作ったカレーは美味しくて、おかわりをした。ふと結婚生活をしているような錯覚を覚える。


「那由と一緒にずっといたいんだけど」と言うと、おかわりを持ってきた那由が顔を赤くする。


 皿から垂れたカレーが那由の指についたから、俺は皿を受け取って、テーブルに乗せて、那由の指を舐めた。


「京…。それは」という口をキスで塞ぐ。


 カレーの味がする。でも那由はいつも甘い優しい匂いがする。


「もー」と唇を離すとすぐに怒られた。


「どうして怒るの?」


「だって、突然だし、恥ずかしいから」とぷりぷりと怒っている。


「…じゃあ、キスしていい?」


「さっきしたでしょ?」


「おかわり」


 那由が首を横に振る前におかわりした。俺と付き合うことで嫌な目にあうなら、別れた方がいいのかと少しは考えた。でも那由を目の前にすると、心の弱さが勝ってしまって、そんなことを言い出すどころか、ますます手放せなくなる。


(どうしたらいい?)


 那由には聞けずにキスをした後のふくれっ面した顔を胸に抱く。


「好き」


 小さな声で言ってくれるから、さらに抱え込んでしまう。


「那由、ありがとう」と言いながら、どうしたら守れるのか…答えを出せずにいた。

 

 

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