第22話 外の世界へ一歩出る

『那由、おやすみ』という声が携帯から聞こえる。


 那由は律儀に録音された京に挨拶を返す。


(そう言えば、私のおやすみは録音してなかったな)と少し後悔する。


 晩御飯を食べると、デザートを手土産に京はごく紳士的に家まで送ってくれた。


(『何もしなくていい。側にいてくれたら』と『もう一度、一緒に演奏しよう』と言われた…ということは『とりあえず、俺と演奏するから、練習だけしろ』ということなんだろうか)と考えて、那由はベッドの中で身震いした。


「嫌だ嫌だ、絶対、怒られる」と那由は身を縮こまらせる。


 簡単な曲を二人で合わせるのだったら、いい。一体、どのレベルと京が求めているのだろうか、と思うとぞっとした。


「京のこと好きなのに…京と演奏するのは…」


 京がどれだけ練習しているか知っているし、大学を途中で辞めた後もどれだけ向こうで頑張ってきたか分かるからこそ、一緒に演奏なんてしたくない。まだ卵焼きの練習をしていた方が随分マシだ。学校でした定演はあの瞬間の奇跡であって、今はもうあり得ない。

 たくさん拍手してもらい、演奏中も京のチェロと会話してた…確かにあの時のきらきらした思い出はあるけれど、もうそれをする自信はなかった。ピアノが嫌いになったわけではないけれど、あんなに努力することもなくなったし、練習時間も今はない。私のピアノを好きだと言ってくれた京にも嫌われてしまう。


 断る理由を考えながら眠ってしまった。


 翌朝、一人でバスに揺られていると、後ろから前田さんに声をかけられた。


「おはよう。一人で通勤するようにしたの?」


「え? あ…。前田さん? おはようございます」


「そうそう。理美でいいから」


 不意に声をかけられて、驚いたけれど、バスの空いてる席に案内してくれた。座りながら喋りかけられる。思えば、こんなふうに話すことはなかった。


「やっぱり本物も格好良かったわー。西澤京。すごい男前よねぇ…。って分からないか」と思ったことをすぐに口に出す。


「…あ。そうなんです。顔は…見たことなくて」


「なんか、それを聞くとすごいって思うけど…。でもさ。…あぁいう世界だから性格はきつそうなのよね」


 理美がそう言うので驚いた。


「競争の世界でずっといたから…それは分かるんだけど。本当は私にサインなんかしたくなかったと思うの。でも児玉さんの同僚だからってちょっと悩んでるのを見て、意外と中身も悪くないのかなって思った」


「児玉さんじゃなくていいです。那由で」と言いながら、理美が言う内容にショックを覚える。


「ちゃんと大切なものには優しくできるんだーって。意外だった」


「…見えてるって…すごいですね」


「え?」


 理美は昨日、京と会って少し喋っただけなのに、京のいろんなことが理解できていた。男前な顔だけでなく、勝ち気な性格も、そして那由のために努力するところも…。


「私…見えないから、分からないことも多くて」


「あぁ…まぁ。そうね」


「あ、ごめんなさい。なんか困らせるようなこと言ってしまって」


「うん。見えない世界って分からないから…。私、不自由ばっかりで大変なんだと思ってたの。もちろんそういうこともあるだろうけれど、那由を見てたら、たまにいいなぁって思うことあるの」


「え?」


「こんなこと言うと…悪いかもしれないけれど、見なくていいものだってあるし…。那由は汚れることが少ない気がする」


「汚れ?」


「なんかねー。色々知っちゃうと、それだけ消耗するっていうか…。だからいいのよ。それで。みんな、那由に癒されてるところあるから」


「え? 私、変ですか?」と不安になる。


「ううん。素敵だなって思ってる」


 理美の言う意味が分からない。それも見えないからかも知れないけれど、見えてたら関係も違っていただろうか。


「あの…私、お化粧が苦手で」と言うと、理美が膝を叩いた。


「ナチュラルだもんねぇ。マスカラとか無理でしょう? まつ毛エクステとかあるから、今度、一緒に行こう」


「まつ毛エクステ?」


「そうまつ毛を増やして、可愛くなるし、面倒じゃないのよ」


 理美がどんな顔をしているのか全く分からないけれど、女性同士と言うこともあって、化粧の相談ができるのは嬉しかった。そうやって話しているうちに仕事場に着いた。二人で仕事場に行くと、「珍しいね」と課長に声をかけられた。


「バスが一緒で」と理美が言ってくれる。


「一人で乗ったの? えらいねぇ」とまるで孫を褒めるような勢いだった。


 那由がなんて言っていいか分からないでいると、理美が「じゃあ、私も一人で乗れたんで、お駄賃ください」と言って、課長におねだりをしていた。


「やれやれ」と言って、ジュースを奢ってくれることになった。


 目が見えないことで特別扱いを受けているのは分かっている。でもいつも一人でいることを選んでいた。自分の母親や、大学では花としか一緒にいなくて、他の人と距離を置いていた。勇気を出して、一人で歩いてみると、意外と声をかけられることが多くて、それは少し怖いことだったけれど、新しい世界が広がっているようにも思えた。


「おはよう。え? 何か賑やかだね?」と同期の町田君の声がする。


「今日は一人で出勤したら、課長がジュースを買ってくれるんだって」と理美が言う。


「え? マジで?」


「あ…。私が一人でバスに乗ったから…なんかそれで…」


「えー? 一人で乗ったの?」と町田君にも驚かれた。


 いつもお母さんが送ってくれていたが、今週から一人で行くことにしたのだった。


「バスで一本だから…そんなに難しくないのに…今までしてなくて」


「いや、すごいよ。俺だったら、家から一歩も出ない」と言って、「じゃあ、ご褒美にお菓子あげる。あとで机に置いとくね」と言われた。


 生きていくために働こうと決めたけれど、ここで働けてよかった、と少し嬉しくなった。特別扱いをお菓子やジュースという気遣いに変えてくれる周りの温かさがありがたかった。


 お昼休憩も声をかけられる。町田君と理美が一緒だった。


「ちょっとなんで、あんたも来るのよ」と理美が町田君に言う。


「同期なんで。一昨日も一緒だったんで」


「私は西澤君のこと聞こうと思ってんのに、邪魔よー」と理美が言ったけれど、結局三人でテーブルについた。


「ねぇ、いつも社食で飽きない? 今度、外のランチ行こう」と理美が言う。


「だめだよ。児玉さんはピアノ弾くから社食でサッと食べたいんだから」


「あんたに聞いてないわよ」と二人の会話のスピードが早くて、いつ会話に入っていいのか分からない。


 花と二人のランチはのんびりしていたし、京だって話を聞いてくれる。でも三人ともなると間合いを取るのが難しい。


「ね? いついく?」


「あ…やっぱり私は社食で…。ピアノ…ここのはすごく響くから楽しいんです」と断った。


 町田君がくすくすと笑う。


「何よー」と理美が言うと「児玉さんってはっきり断るよね」と町田君が言った。


「え? あ、失礼でしたか?」


「嫌なのに断らない方が失礼よ。まぁ、もちろん友達ならね? 知り合いなら…まぁ、気を遣って、断れないとかあるかもだけど」と理美は言う。


「いつの間に友達になったんですか?」と町田が驚いたような声で言う。


 すると得意げに「今朝から」と理美。


 その会話を聞いて、思わず楽しくなってくすくす笑ってしまった。


「あ、笑った」と二人に同時に言われてしまう。


「え? いつもは…笑ってないですか?」


「うん。笑ってない」も同じだった。


「いつも口をきゅっとさせて眉間に皺寄せて頑張ってる」と町田君が言う。


「やらしいなぁ。よく見てて」と理美が言う。


「だって…同期だから」


「どうだか」と理美が言って、沈黙が訪れた。


 二人はどんな顔をしているのか分からない。


「…これから笑って仕事できるように頑張ります」と言うと、理美が「怖いから。にたにた笑いながら仕事って怖いから」と言って、また笑った。


 三人で食べるお昼ご飯はなかなか大変なこともあったけれど、ピアノを弾くと解放感溢れて、リフレッシュできる。今日は理美のリクエストでリベルタンゴだった。格好良くて楽しい曲だ。これも京弾いたの聞いたことあるなぁ、と思いながら、京のチェロを思い出す。


 いつもまばらなギャラリーなのに、少しずつ人が増えている気がする。気のせいではない。なんとなく、昨日より、今日はと少しずつ増えていた。

 それがどういうことなのかわからずに私はいつも通り楽しく弾いていた。

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