第21話 リクエスト

 待ち合わせにぎりぎりだった。雑誌の編集者が長々と話すから、遅刻しそうになる。那由の仕事が終わる時間はいつもきっちり決まっているから待たせたくなかった。急いで市役所の前に向かうと、ちょうど那由が出てきたが、隣に男がいて、何かを一緒に話している。

 楽しそうに笑っている。思わず、足を止めてしまう。


 那由の笑顔が自分以外に向けられることもあるんだということを当たり前のことなのに、理解できそうにない。止めていた足を動かすと、会話が聞こえてくる。


「今日もリクエスト弾いてくれてありがとう。すごく上手くて感動した」


「吹き抜けだから響くから…上手く聞こえるの」と那由が言う。


「そうかな? 僕は素人だから…分からないけど、児玉さんのピアノ、綺麗だと思う」


「ありがとう。じゃあ…弾いた甲斐あったなぁ」


(那由がリクエストを弾いた?)


 俺がすぐ近くにいるのに、那由は全く気がつかないようで通り過ぎてしまう。俺は振り返った。


「彼のチェロはやっぱりすごいの?」


「京…あ、西澤さんの? うん。すごく優しい木の音がする。チェロって、木の音がするんだけど…。私もあんな音、出してみたかったな…」と那由が優しい顔で言うから、俺は振り返ったまま動けなくなった。


「一緒に弾いてた時、私が下手で、練習もしないし、ものすごく怒られたんだけど、でも…チェロを弾くと、音はすごく優しくて、で、聞いてたら、また怒られるんだけど、ほんと、チェロには優しいから…」


 そう言って笑う。


「那…」と声をかけようとしたら、違う人から声をかけられた。


「西澤さんですよね?」


 見たこともない人だったが、ものすごく喜んでいる。


「あの、サインください」と鞄の中をごそごそと漁っている。


「あ…」


 サインなんてしたことないから、どうしたらいいかと思っていると、那由といた人が近づいてきて、


「芸能人じゃないんだから、そういうの迷惑だよ」と女性に言う。


「そうかなぁ」と言って、こっちを見た。


「あ、ごめんなさい。サインとかしたことなくて…。普通に名前書く感じになりますけど…」と言うと、あっさり諦めてくれた。


「確かに…デビューしたばっかりだもんね。頑張ってください。私、応援してます。あ、私、前田理美まえださとみです。児玉さんと同じフロアで働いてます。彼女、一生懸命なので、みんなに好かれてますよ」と言って、頭を下げて去っていった。


「京…。待ってたの?」と後から那由が来る。


「あ…うん」


「じゃあ、僕はここで」と一緒にいた男性が頭を下げる。


「ありがとうございました」とお礼を言った。


「また明日」と何気なく彼が言って、手を振る。


「またね…」と那由も答える。


 何となく気まづい空気が流れる。那由の日常は俺の毎日と全く違っていた。


「京?」と那由が言うから、慌てて取り繕った。


「ごめん。俺の話してたから、ちょっと声かけにくくて…」と言うと、那由が何を言っていたか、思い出したのか、少し顔を赤くして、俯いた。


「京が怒る話しちゃっ…た」


(いや、そこじゃない)と俺は思ったけれど、那由の手を取る。


「…お腹空いてない?」


「うん。空いてる」


 何を食べたいか聞いて、ゆっくり歩く。


「休み、取れた?」


「あ、それなんだけど、いつからだっけ、忘れちゃって」


「じゃあ、携帯かして。音声メモするから」と那由が渡してくれた携帯に日付を吹き込む。


 音声アプリを終了する前に思いついて、「那由、おやすみ」と言う。


「え?」と不思議そうな顔をする。


「那由、おはよう」


「京?」


「那由、愛してる」


「…録音してるの?」


「うん。那由が寂しくないように」


「…そんなの…聞く暇ないもん。忙しくて」と那由が言う。


「朝と夜だけ、聞いてよ」


「…京」


 電話に出られない時もある。那由には不安になって欲しくないから、と思ったが、那由が手を出す。携帯を返しても、さらに手を突き出してくる。


「何?」


「京の携帯にも入れるから。音声アプリ開いて」


 俺は慌てて、自分の携帯の音声メモを起動させて那由に渡す。


「お、おはよー」とちょっと緊張している声になる。


「あ、もう一回」と那由が俺に言うから、消したふりして、次の録音にした。


「えっと、おはよう。え? えっと入ってる?」


 また消したふりして、次の録音にする。六回目で、納得のいく「おはよう」ができたようだ。次、おやすみを言おうとするから「先にご飯を食べに行こう」と言って、とりあえず、おはようだけもらうことにした。

 もうたくさんの可愛い「おはよう」で満足だ。


「那由。本当に…毎日、側にいて欲しい。毎日、毎日、近くにいて…それだけでいいから」


「それだけ?」


「それ以外、何も望んでない」


 俺は可愛くて、可愛くて、思わずそう言ったのに、那由はなぜか固まった。そして涙をこぼし始める。


「え?」


「私、頑張ってるのに」


 思わず、何を言われているのか分からなかった。那由が涙を流しながら「卵焼きとか…レンジで作って…」と言い出す。


「卵焼き?」


 市役所の仕事かと思ったから、思いがけない言葉で、理解が追いつかなかった。公園のベンチで座って、涙を拭いて、落ち着かせる。どうやら那由は今週、ずっと晩ごはんに卵焼きを作る練習をしていたようだった。それも俺のために。


「何でも京がするって言うけど、私だって…できること増やして…」


「うん?」


「一緒に…暮らすのに少しでもお役に…たたなきゃって…」


「那由?」


 俺は拳をぎゅっと握りしめる。


「私、目が見えないけど、ピアノだって上手くないけど…ご飯だって作れないけど…頑張ってるのに」


 ぽろぽろ涙を零すから、握った拳はすぐに開いて、そのまま那由を抱きしめた。


「那由、ありがとう。頑張ってくれて」


 でも俺は別に那由に無理して欲しいなんて少しも思ってない。


「後…ご飯は洗えるし…、カレーも週末、練習するから」とまだも続ける那由から体を話して、両手で肩をそっと掴む。


「那由…、一つだけ、訂正していい?」


「何?」


「ピアノ…下手なんかじゃないよ。練習しないだけで」と言うと、那由は涙が止まったみたいで、俺の方を向く。


「下手じゃない?」


「那由が俺のチェロを聴いてたみたいに、俺も那由のピアノ聞いてた。透明で、キラキラした音で…。那由のピアノは綺麗だった」


 涙も止まったが、動きも止まって、うんともすんとも言わない。


「音がまるで那由みたいだと思った。無色透明で、光ってた」


 俺は那由のことを可愛いと思ったのと同時に、那由のピアノの音が好きだった。自然で取り繕うことなく、本当に明るくて綺麗な音色。


「那由も那由のピアノも好きだから。下手っていうのは訂正して欲しい」


「…本当に?」


「うん。だからお願いがある。…もう一度、一緒に演奏して欲しい」


 それには驚いたみたいで、そして即答をしてくれなかった。


「那由」


「練習の時間も取れないし…ちょっと考えさせて」


「俺のリクエストは聞いてくれないの?」


「えっと…え?」


「さっきの人のリクエストは聞いてるって…言ってたから」


 ちょっと意地悪な気持ちが出て言ってしまった。那由が戸惑う気持ちも分かるけれど、何だか少しむかっとしてしまう。


「あのリクエストは気が楽だけど、京のは…本気だし」


 本気…って思わず、吹き出してしまった。


「もう、なんで時々、私のこと、笑うの?」


「ごめん。なんか、那由が言うことが可愛くて。真剣に言ってるの分かるんだけど…。本気は本気だけど…なんか…おかしくて」


「可愛いって」と言って、まだ腹を立てているようだ。


 泣いたり、怒ったり、相変わらず忙しい、と俺は思いながら「那由、お腹空いたんだけど。お昼から食べてなくて」と言った。


「え? ごめんなさい。行こう。早く」と那由は立ち上がる。


 夜になっても日が長い季節だからそんなに急がなくていいような気もするけれど、那由といると時間があっという間に過ぎていく。

 手を握って、那由に「今日も帰したくないんだけど」と言うと、「だめ、だめ。今日は絶対だめ」と取り付くしまもなく断られた。

 平日のデートはお食事だけらしい。


「土曜日、カレー作るから…食べに来て」と那由が言う。


 那由のカレーは食べたいけれど、正直、お父さんのいる家に行くのは気が重いし、スキンシップもできないだろうとこっそりため息を吐いた。

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