第20話 有名人の彼女

 京と二泊した後、家に帰り辛かったけれど、京も一緒に家まで送ってくれた。お父さんも玄関に来ていたようだけど無言で、お母さんが何とか取りなそうとしていたのは伝わっった。


「本当にお嬢さんを連れ回してすみません。ちゃんと大切にしたいと思っています」と京は言ってくれた。


「あら…まぁ。それはそれは…」とお母さんが嬉しそうな声をあげるけれど、お父さんが何も言わない。


 そしてお母さんが晩御飯を勧めてくれたけれど、京は流石に練習しないと、と言って断って帰って行った。


「那由、話があるの」とお母さんに言われて、私は後をついて行く。


 お父さんは黙って、そのままリビングに行ったようだった。キッチンに連れて来られると、「こういうことは…言いたくないんだけど、やっぱり那由が結婚するなら料理くらいできないと…って思うの」とお母さんに言われた。


「今まで何もかもしてきたけれど…」と躊躇いがちに言われる。


 事故にあってからどれほど母親が心配したか、そして過保護と言われてもサポートしてくれていたか今更ながら気がつく。


「あ、私ももう少し自分でできることを増やそうって思ってたの。結婚するとかじゃなくても…自分で…生きていけるようにならなきゃって」


「それで…お母さんは目が見えるから、そういうのちょっと難しいんだけど、目の見えない人に料理を教えてくれる講習会とかあるから、行ってみない?」と言った。


「うん。行きたい。でもそれまでにも家でできること…する」


「そうね。なんか卵焼きなんかもレンジで作れるみたいだから…そういうの活用していくのもいいかもね」


「…お父さん、なんか怒ってる?」


「怒ってないわよ。不機嫌なだけで。那由を取られた気分なんでしょ?」と言う。


「…お母さん…私…どうしていいのか分からない」


「どうしてって?」


「…ううん。なんでもない。少しゆっくりしていい?」と言って自分の部屋に戻る。


 ベッドの上に寝転ぶ。京に愛されたことが蘇ってきて、思わず顔を手で覆った。


「京のこと…好きだけど…」と呟く。


 不意に京の匂いがする。気のせいだと思うけれど、体に染みてるのかもしれない。手の指先から背中から京が触れていないところはない…。落ち着かせようと深呼吸をした。すると音声メッセージが京から届いた。


「お疲れ。不意に那由の匂いがした」


 私も、と言ったけれど、メッセージにはしなかった。


 京の気持ちに応えたいから、もっと頑張らなくては、と思って、手を伸ばした。


 寝る前に京に電話した。


「練習してた?」


「ちょうど終わったところ。那由は?」


「今から寝るの」と言うと、京は笑った。


「だって、明日、仕事だから」


「うん。うん。しっかり寝て、頑張って働いて」と言いながら、まだ笑っている。


 少し腹が立ったから、話題を変えることにした。


「京は明日、何するの?」


「明日は大学に行って、恩師に会ってくる。それから…練習して…。あと音楽事務所にも入るから…」


「音楽事務所? 芸能人みたい」


「クラシック専門だけどね」


「へぇ…」と私は言葉が出てこなかった。


 知っていたけど、京は私とは違う世界にいるんだな…とちょっとなんて言ったいいのか分からないけれど、寂しいような悲しいような羨ましいような気持ちになった。


「那由…。水曜日、晩御飯一緒に食べよう? 迎えに行くから」


 それ以外はどうやら忙しいらしいということが分かる。


「それから、来月二週間ほど、ハンガリーに行くんだけど、那由は休み取れない? 良かったら一緒に行きたいなって」


「二週間は無理だけど…」と言いながら、私はさらに京が遠く感じてしまう。


 京が日付を言ってくれるけれど、覚えられなかった。また会った時に聞けばいい、と思いながら、自分との差を感じる。


「でも…ちゃんと京を支えるつもりだから」と私が言うと、京は驚いたような声で「え? 何?」と言った。


 どうやら私は京の話とは違う、自分で考えたことを口にしたようだった。


「あ、京が忙しそうだから…。私も料理をできるようになろうと思って。…他にも…色々生活面全般の…ことを」


「無理しないでいいよ。俺ができることすればいいし」


 ぽつん。


 何だか一人きり置き去りにされている気がした。私が頑張ってしようと思うことは京がやれることらしい。でも京がこれからしようと思っていることは私が代わりになんてなれない。


「うん…」と頷いたものの、なんて言うか、私は京のために何一つなっていない気がした。


「那由…愛してる」


 京がどうしてそう言ったのか分からないけれど、私は「…うん。京…好き」と返していた。


 翌日から私はいつもお母さんに車で送ってらっていた出勤を一人でバスに乗っていくことにした。念のため、白杖も持って出かける。全盲というわけではない。光と形は見えるのだから、そんなに移動で困ることはないが、見た目的に私が視覚障害者だと周りに分かってもらう方が楽なことが多い。みんなが避けてくれるから。たまにわざとぶつかってくる人もあるみたいだけれど、実際に会ったことはない。もし会ったとしたら、そういう人は不幸なんだと思うことにしている。


 無事に市役所について、バスを降りる。市役所の中は白杖を使わなくても大体分かっている。エレベーターで四階に上がる。


「おはようございます」と言いながら、入って行った。


「おはようございます」と近くの女性の前田さんが挨拶を返してくれる。


 仕事はみんなと同じことはできないけれど、なるべく雑用もかって出る。シュレッダーをかけたり、コピー用紙補充もする。


「児玉さん」とさっきの前田さんが話しかけてきた。


「はい」


「彼氏…もしかして…チェリストの澤谷京さん?」


「え? ご存知ですか?」


「私、クラシック好きで…。特にチェロが大好きなの」と言われた。


「あの…本当にこんなこと…申し訳ないけど…サインもらってもらえないかな?」


「サイン?」


 前田さんはそうやって、固い紙を私に差し出す。


「えっと…。多分…無理…かも…。一応聞いてみますけど…」


「え? お願いしてもらえる?」


 京がサインなんてしそうにないけれど、「聞くだけ」と言って、固い紙…多分、色紙はとりあえず返すことにした。京はもうすでに有名人で、私は有名人の知り合い…ということになった。それでも仕事に支障はなく進んで行く。同期の町田君も昼休みに声をかけてきた。


「有名人の恋人って大変だね」


「え? あ…」


「仕事、辞めるの?」


「ううん。辞めるつもりはなくて…。せっかく受かったし」


「隣座っていい?」と言われたので、頷いた。


 ゆっくりスプーンでハンバーグを食べるけれど、人に見られるのは苦手だ。サンドイッチにすれば良かった、と少し後悔する。


「辞めないって聞いて安心したよ。だって、いてくれると助かるし」


「え? そうですか?」


「うん。…前に課長に怒られてた時、児玉さんが割って入ってきたの覚えてる? なんか質問だかなんかで」


「あ…あの時は…ごめんなさい。怒られてるの、実は分かってなくて。すぐに確認しなきゃ、と思って」


「いや、助かったよ。何度も同じこと繰り返されてて…」と町田君は言う。


「私…空気読めてないところあるよね」


「え? そんなことないよ。いつも一生懸命だし。昼休みのピアノだって楽しみにしてる人、多いんだよ」


「私…役に立ってますか?」


「児玉さん、辞められたら、ほんと困るよ。シュレッダーかけるのも面倒だし、コピー用紙がなくなることもないし」


 町田君は私がやっていたこと、分かってくれていた。


「そういう風に言ってもらえると…自信がでます」と言って、ご飯もスプーンで食べる。


 簡単に食べれるからずっとスプーンを使っているが、これも直そうと思った。なるべくお箸で綺麗に食べる練習しなきゃ、と思う。


「自信持っていいよ」と町田君が言ってくれて、私はここで働いて良かったと思った。


 大学でピアノを専攻したけれど、私に期待する人はほとんどいなかった。私は私でピアノを自分のペースで練習するだけだ、と思っていたから、周りを気にすることもなかったけれど、ここで初めて必要とされて、そういう喜びも初めて感じた。


「ありがとう。ちょっと得意な気持ちになる」と言うと、町田君が小さく笑った。


「昼間のピアノ、リクエストしていい?」


「弾ける曲だったら。分からなかったら、練習してきて…明後日には弾けるようにしておく」と言うと、「カノン」と言った。


「あ、パッフェルベルの?」


「それは…分からないけど、多分、それ」


「私も好き。今日、弾ける。今から弾くね」と言って、慌てて食べる。


「ゆっくり食べて」


「うん。でもピアノ…弾きたいから」と言って、私は急いで片付けた。


 ロビーに行く。ピアノを弾こうと待ってる人がいないけれど、柵のところに二、三人の人影が見える。私は少しお辞儀をして、前を通った。そして町田君のリクエストに応えてパッフェルベルのカノンを弾いた。

 京のチェロが私の耳に聞こえてくる。暖かい音、優しく響いて、包み込むような。そんな音を私も弾けたらいいのに…と思って弾く。家で弾くより天井の高いロビーだと音が響く。いつもよりもずっと上手く聴こえる。

 音が高く、高く。シャボン玉のように一つ、一つ、上がっていく。

 繰り返されるメロディの優しい響き。

 私はやっぱりピアノが好きだ。プロには決してなれないけれど、それでもこの音を奏でられるこの指が私の誇りだ。


 パチパチといつもなら、数人の拍手なのに今日は数が多い気がした。立ち上がって、周りを見ると、人影が増えていた。


 頭を下げて、いつもと雰囲気が違うので仕事に戻ろうとした。


「ピアノ上手ねぇ」


「先週、チェリストの澤谷京と弾いてたって…」という声がした。


 いつの間にか私はその他大勢の人間から、澤谷京の…と言う枕詞がつくようになった。

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