第17話 見えない目

 俺は母が那由と会いたいと言い出した時は絶対に、嫌な空気になると思っていた。

 高校の時の彼女にも散々嫌なことを言って、別れさせた母親だったからだ。その時は俺もそこまで好きじゃなくて、好きって言われたから付き合ってみたという感じで、彼女には申し訳ないとは思ったけれど、特にフォローもせずに終わった。

 大学に入ってからは放置されている気がしたが、それは俺が本気で好きな相手じゃないことを知っていたからかもしれない。それに大学になると、チェロの魅力に俺自身が取り憑かれていて、恋よりもっと上手くなりたいと言う気持ちが強かった。きっとあの母はそれを知っていた。

 面倒臭い母ではあったが、何よりも俺のことを分かっていたから、今回の那由のことは本気だと思って、会いに来たのだろう。


 那由が傷付けられることがあったら許さないし、俺は今回だけは絶対に折れないつもりだった。


 それなのに那由は傷付けられるような人間じゃなかった。ずっと彼女は、大学の頃もそうだったけれど、あらゆる悪意に対して、何とも思わないようだった。


 見えない。


 見えない世界がどんなものか俺には分からないけれど、那由は見えない世界の中で、唯一あるものは自分だった。だから他人の悪意が入ってくることはない。最初からそうではなかっただろう。那由も苦労して、そういう世界を作っているのだと思う。


「那由」とホテルのベッドで体を投げ出しいている彼女を呼んだ。


「はー、疲れたよー」と天井を見上げている。


「ごめん」と言って那由の側に腰かける。


「京…。どうして私のこと、好きになったの?」と聞かれた。


「え? それは…可愛かったから…」と答えると、眉間に皺を寄せる。


 那由の両手がすっと天井に向けられた。


「好きにならなきゃ良かったのに…」


「え?」


「恋なんて知らなきゃ…辛くなることなかった…のに」と言って、上げた手を下ろして顔に当てて泣き始めた。


「ごめん。那由。でも…」


「私、京のこと、好きじゃなかったら、別れなさいっていう言葉にだって、素直に頷けたし…。あんなこと言わなくても良かった」


 泣きじゃくる那由の体を覆いかぶさるように抱きしめる。


「あんなことって?」


「京がしつこくしつこく練習するって言うこと」


 俺は思わず体を起こして那由を見た。


「もっと言葉を選べば良かったー」と再び泣き始める。


「あ…。え? そこ?」


「だって、やっぱり自分の子供のこと、あんな嫌なこと言われたら…。もっと、えっと…何度も繰り返しとか…そう言う風に言い換えれば良かった」


 俺はティシュを取って、那由の涙を拭く。そして那由の体を起こして、抱きしめた。


「言い方は…あれぐらい言っても気にしないから。でも…辛くさせてごめん」


「もう遅いよ」と言って、背中に手を回してきつく抱きしめ返してくる。


 もう遅い…。それは俺も同じだと思った。


「那由じゃないと…だめなんだ」


 泣き顔にキスをする。思えば、笑った顔より、泣いた顔を見ることが多い気がする。また瞼が腫れる。そう思ってキスを瞼にもする。


「京…。またチェロ弾かせてくれる?」


「いいよ。那由、上手いから…」


「嘘つき」


「那由とチェロ弾くの好きだから」


「私も…楽器と京と…溶ける気がする」


「そうだね」


 那由と出会って、初めて他人を愛する気持ちを知った。それは俺にとって大きな経験だった。自分より大切な存在ができると言うことがあるなんて思ったこともなかった。

いつも上昇志向が強い俺は他人のことを愛するー慈しむ気持ちなんて持っていなかった。今、目の前にいる那由は出来の悪いピアノ科の人間で、俺としては有り得ない存在だった。


 白い首にもキスをする。

 少し首が横に揺れる。


 あの頃はいつもそんな那由に苛々していた。留学をしたくて仕方がなくて、焦っていたのに、まるで障害物のように現れたのだ。


 ゆっくり体をベッドに寝かせた。小さな口が少し開く。


 練習は逃げ出そうとする。何度、言っても分からない。目が見えないことにすら怒りを覚えたと言うのに、那由は見えないから、それすらスルーしていた。


 那由の小さな手を握る。手のひらも小さいし、指は短い。その指を何度も確認する。こんな指でピアノを弾くなんて大変だろうな、と思う。


「京…あの。汗かいてるから…」


「いいよ」


「良くない」と言う口をキスで塞ぐ。


 でも那由なりに練習してきたんだろうな、と言うことも分かったし、暗譜ができてからは早かった。ちゃんとやればできるのに、ちゃんとしない。それが苛々してたけど…、少しも伝わらなくて、その内、おかしくなった。


「好きだ」


 少しも俺のことを見ないところも。でも…俺の音を聞いて、それを好きだと言ってくれるところも。


 高慢な俺のことを嫌う人もいれば、外見、受賞歴で近寄る人間もいた。那由はそのどちらでもなかった。俺のことが全く見えなかったから。


「京…いや」


「いや…って」


「だって、汗かいてるって言ってるでしょ? それに…晩御飯も食べてない」


「晩御飯…より優先順位が低い…」


「だってお腹鳴ったら恥ずかしいもん」と顔を横に向ける。


 ちょっと唇を尖らせるその横顔も可愛い。見えないのが少しずるく思える。俺はこんなに好きなのに、那由はいつもマイペースだ。


「いいよ。お腹鳴っても可愛いから」


「もー、嫌だ。本当に嫌だって言ってるのに」


「そんなに嫌?」


「だって…嫌われたくない」


「嫌い…になんか…なれないよ」


 でもこれ以上、無理矢理したら、俺が嫌われそうだ。仕方なく体を離すと「ごめんなさい」と謝られる。


「ご飯、急いで食べよう」と言うと那由の見えない目が大きく開いた。

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