第16話 黒い影の母親
「そういうところ頑固だから」って京に言われたけれど、京だって、相当頑固だと思うし、いきなりキスしたりするし、もうめちゃくちゃだ。
少し腹を立てたけれど、京が素早くおやつの提案をしてくれたので、文句を言うのはやめることにする。デパートの上階のレストランのプリンは硬くて美味しい。
「那由…一緒に舞台に上がらない? 定演で弾いたのでいいから」
「無理無理無理無理。それに絶対もう嫌」
「どうして?」
京はすっかり忘れているようだけれど、あの時の鬼のような練習はもう二度と繰り返したくない。
「私、公務員でお仕事忙しいから、練習に時間、割けません」と丁寧な日本語でお断りする。
すると京が笑いながら「あの時は本当に悪かった。もう大丈夫だから。優しくできるから」と言う。
信じられないので、首を横に振る。
「だって京は…何よりチェロが好きでしょ? ちゃらんぽらんなピアノだと許せなくなるはず」
「まぁ…それは…」と歯切れが悪くなる。
「いいの。私は京のチェロが聞けるだけで、幸せだから」
京はコーヒーを飲んでいるようだった。
「晩御飯はどうする?」
「え? あ…うーんと。家に帰ろうかと思ってるんだけど」
「今日も泊まったら? 明日は日曜だし…」
「…でも」
「だって二年も離れてたから。今日は帰らずにいて欲しい」
「うーん」と悩むのはお父さんのことが少し気になる。
「困らせた?」と京に聞かれて、首を横に振る。
私だってもう大人だし、外泊に親に気を使う年でもない。
「でも…京はどうして実家に帰らないの?」
「あー。まぁ…それは…せっかくだから、那由と一緒に過ごしたいなって思ってホテル取ったから」
「え? 私の予定も聞かずに取ったの?」
「那由は来てくれるって思ってたし、もしダメだったら、ホテルで一人で泣こうかと思って」と冗談を言う。
「しょうがないなぁ…」と私はそう言って、もう一泊することにした。
後で連絡しようと思って、京に「ねぇ…。京は結婚を急いでるけど…。私は京のご両親に会ってないのに、勝手に決められないでしょ?」と言う。
そう言えば、京のご両親がどんな人か全く知らない。
「…あぁ。忙しいから…。今度にしよう」
「忙しいの? ご両親も音楽関係?」
「…まぁ、そう? そうかな?」と曖昧な言い方をする。
京が何かを隠しているような気がする。
「京…。私、京と結婚するにはたくさん問題があるの。分かってる? 京のご両親がどう思うか分からないけれど…。普通は受け入れられないと思うの。苦労するの分かるし。京は…チェリストとして活躍していかなきゃいけない…だからこそ…私のお父さんが心配するのも分かる。本当に受け入れられるのか…心配してくれてるの」
「…那由」
「京のこと…大好きだけど…」
「不安にさせてごめん。できるだけ那由のフォローするつもりだったけど…。確かに…どうしたらいいのか、色々わからないこともある」
「私だって、自分でできることちゃんとするつもりだけど…」
お互い、何だか少し苦しくなった。好きという気持ちだけで生活はできない。
「でも今だって、ご飯はお母さんに頼ってるし…。料理、あんまりできないままだし…」
「…俺が一緒にやるから…」と言う声は弱々しい。
「うん。…でも私も…お母さんに甘えてたところもあるし。この機会に頑張る」
京と結婚しようが、しまいが、いずれは私が乗り越えなければならないことなのだ。
「…ありがとう」と京に言われて、別に京のためじゃないと口にするのはやめて、プリンを口に運んだ。
「あ、ちょっとごめん。電話してくる」と京が席を立つ。
その間、私は京と本当に結婚するのか、できるのか、と言うことを考えていた。
京はチェリスト。
私は…市役所職員。
京はいろんな世界で演奏するだろう。もし私が仕事をやめてついて行ったとして…、私はそこで何ができるだろう。何もできない。英語も喋れなければ、ろくに伴奏だってできない。できるとすれば調弦のAの音をピアノで鳴らすくらいだ。
「…ない」
どうしたって、京との未来が思い浮かばない。そう思うと少し涙が滲みそうになる。甘いプリンを口に運ぼうを俯いた時、大きな涙が溢れた。京との未来が見えなかった分、京のことが本当に好きだと分かったからだ。離れたくない、と京は言ってくれたけれど、昨日、京の温もり、匂いに包まれて、私の方が離れたくないと思ってしまう。
長い電話だな、と思っていると、京がようやく帰ってきた。でも涙を見られなかったから良かった。
「お待たせ。ごめん」と言って、頭を軽く撫でる。
「京…」とその人影を見る。
今、どんな顔をして私を見ているのだろう。私には見えないから想像するしかない。できれば想像しているような優しい顔であって欲しい。
「あの…。母さんが…会いたいって」
「え? 京のお母さん?」
「さっき…話してたけど。うちの母さん…バレエ教室を経営してて…」
元バレリーナでロシアに留学していたらしく、とても厳しい人らしい。京のチェロに対する姿勢もそこから生まれたのだろうと思った。
「今から…ホテルで」
「今から?」
「いや。嫌なら断るけど…。もうホテルにいるらしくって」
「分かった。緊張するけど…」
京は多分、会わせたくないんだろうな、と思ったけれど、私はこれも避けて通れないと思うので、行くことにした。覚悟を決めたものの、京が一言も口を利かなくなったので、不安が募った。タクシーの中も行き先を言ったきり、黙り込んでいる。
それでもホテルに着くと、手を引いてくれる。私は繋がれた手を頼りにロビーを歩いた。
「…母さん」と呟く。
「京。まずはおめでとう。それと…帰国の連絡もなく、何してるの?」と張りのある声がした。
「何って…」
「ともかく座って話しましょう」と言って、遠ざかって行く黒い影が見える。
「…那由。あの人が何を言っても気持ちは変わらないから」
私は「うん」とも「ううん」とも言えなかった。
ホテルのロビーのティールームで話し合うことになった。さっきプリンを食べたのでアイスティにした。京が紹介をしてくれて、ようやく挨拶をしてくれる。
「私、澤谷萌子、京の母です。京から聞いたけど、同じ音大ですって?」
「はい。児玉那由です。今は視覚障害があるので…市役所で働いています」
「京は結婚を考えてるって言ってたけど…あなたはどうなの?」
「私は…突然だったので」
ずっと京の母が黒い影に見える。黒い服を着ているせいだからかもしれないけれど、不安になる。
「そうよね。あなた、京のサポートどころか、ご自身がサポートを受けなくてはいけないんでしょう?」とはっきり言われた。
「母さん。そう言う話をするなら、もうこれ以上…」
「京…。いいの。だって…本当のことだから。私は…家族のサポートがあって、生活しています。それは本当のことです。結婚のことも…正直、嬉しい気持ちもありますが、不安です。おっしゃる通り、何一つ、京君の力になれないです。ただ…私は京くんのチェロと京くんが好きで、そばに居たいと思ってます」
「那由…」
結婚はできないかもしれない。でも離れたくない。その気持ちを伝えた。
「京の負担になったとしても? あなたは側にいるっていうの?」
「負担になんか」と京は否定するが、私は充分理解できる。
「なるわよ。京だって、彼女のこと全力でサポートなんてできないわよ。チェロの演奏会があるのに、あなたは彼女を連れて…彼女の生活の面倒を見て、いつ練習するの? お付き合いするのは構わないけれど、結婚なんて、できないわよ。今日だって、練習してないんでしょ?」
そんなことを聞きながら、京はだからチェロが上手いのかと納得していた。この厳しいお母さんがいる家庭環境で練習を続けていたのか、と。京がお母さんと言い合いしているのをぼんやり聞きながら、私はそこまで強要されたことがなかった、と思った。良くも悪くもピアノの練習に対して緩い母親だった。
「京…。それから京のお母さん。京のチェロはお母さんが作り上げて、守っていきたいものなんだなって分かります。京のチェロはとっても綺麗で…。絵を見るような素敵な演奏です。きっとお母さんのバレエを見ていたからかな…って今思いました。私も京のチェロを邪魔したくありません」
「那由」と京が息を呑む。
「そう…」
「だから、私も京のチェロがもっと素敵になるように、京の心の落ち着ける場所になりたいです。自分のことももっとできるようにならなければ…と思ってます。まだ家族に甘えきっているのも、いずれは自分でできるようにと思ってます。それは…京くんのためじゃなくて、自分のためにでもあるんですけど。私は京くんに何もしてあげられることはないのかもしれません。でも…京くんと京くんのチェロを愛してます。私ができることはそれだけです。…結婚は確かに私も急だと思います。でもどうか京くんを信じてあげて欲しいです。チェロについても。彼はものすごい勢いで練習するので…。その上、しつこいくらいに何度も」と言って、私は黒い影がどんな顔をしているのか分からないが思ったことを言った。
横で京が吹き出していた。
「え? 変なこと言った?」と京の方を向く。
「あなた…」と黒い影が呟く。
どんな表情をしているのか全く見えない。でも京がさっきから笑っているので、怖くないのかもしれない。
「あの…ごめんなさい。私…」
「なるほどね。京が…急いで帰国するほど頑張ったわけね」と言って、黒い影が立った。
「会いたくて仕方なかったから…那由のおかげなんだ」と京が言うが、言ってることがさっぱり分からない。
「でも結婚はまだ認めていないわよ。彼女…ちょっと甘さが見えるから。一人で何でもできるようになってからね。今日はもう帰るわ」と言って、そのまま黒い影が去っていく。
私は京に「結局、どうなったの?」と聞くと、京は笑いながら、「見えないって悪いことだらけじゃないんだな」と言った。
どう言うことか、聞いてみると、京の母は眼光鋭く二人を睨んでいた。まさかそんな母親に物申せる人がいるとは思わなかった、と京が笑う。
「え? それで、どうなったの? 怒らせちゃった?」
「怒るっていうか…度肝を抜かれたような顔してた」
「…馬鹿なこと言ったってこと?」
「ううん。そうじゃなくて…。俺は嬉しかった」
「ちっとも分かんない」と私が言うと、肩を抱き寄せて「那由がいたから…チェロが上達したって理解してくれた」と言って、「敵わない」と言われた。
「でも…京のお母さんがいたから、京のチェロがあるんだなぁって思った。あんなお母さんだったら、練習しちゃうよね」と言うと、またくすくす笑う。
「でも、俺、苦手なんだ。あの人」
「え? まぁ…わかるけど。あ、でも練習している時の完璧主義の京は絶対、お母さん譲りだと思う」
きっと変な顔をしていると思ったけれど、私はあの鬼のような練習だけは二度としたくないことを京に伝えたかった。不思議だな、と思った。あのお母さんと京は似ていて、違う。そして私は全く違う。京の肩に頭を傾ける。緊張して少し疲れてしまった。結婚はともかく、やっぱり私も京とは離れたくなかった。京がありがとうと言う声をぼんやり聞きながら、これから先のことを考えようと思った。
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