第15話 違う立ち位置の好きな人
隣で規則正しい寝息を立てている那由を見ていると、ようやく…と嬉しさが込み上げてくる。那由のお父さんを怒らせてしまったけれど、どうしても今日はずっと一緒に過ごしたかったから、無理やり宿泊しているホテルまで連れて来てしまった。
「もう…」と頰を膨らませていたが、最後には二人で笑ってしまう。
那由は綺麗になっていた。俺のことは見えないからどう変化したのかなんて分からないだろうし、そもそも…俺の外見には興味を持つことすら諦めている。ただチェロの音は好きだとずっと言ってくれていた
横で寝ている那由の温もりを感じながら、ヨーロッパの冬の寒さを思い出す。手がかじかんで息を吹きかけながら、那由のことを思い出して、チェロを弾く。このコンクールが終わったら、この曲が終わったら…。那由に会うまでは早くヨーロッパに行きたかったのに、こんなに日本が恋しくなるとは思いもしなかった日々。
「ようやく帰ってこれた」
でもまたヨーロッパに演奏をしに行かなければいけない。那由はついて来てくれるだろうか。
(もう…離れたくないんだ)と思って、那由の肩にキスをする。
明け方、嬉しくて、うっかり起こしてしまう。何度も名前を呼ぶ。起き抜けはどこか分からないみたいで驚いていた。
「本当に京?」と言われて、思わず胸が小さくなる。
待っててくれるはずと思い込んでいたけれど、二年もほぼ放置していたのだから、他の男と付き合っていてもおかしくなかったのに…そんなこと少しも考えもしなかった自分を自意識過剰だ、と反省した。
反省したから、どうか大人しく結婚して欲しい、と思ったけれど、そんな簡単には行かなかった。
二年の時間はお互いの位置を違う方向で作り上げていた。
俺は音楽家。
那由は公務員。
お互い夢を叶えたのだけれど、それは交わりそうになかった。
「那…由」
目の前で俺が取ってきた朝食を美味しそうに食べている。
「さすが一流ホテルの朝食」と那由は嬉しそうに笑う。
「後、ヨーグルトもあったけど…後で取ってくる」
「京は? 京は何食べてるの?」
「俺は…日本食。久しぶりだから、卵かけご飯」
「えー。一流ホテルで卵かけご飯?」
「それが橙色の黄身で、すごく濃厚なんだ」と言って、醤油をかける。
「ふーん」と言って、那由は俺の方に視線を向けた。
はっきり見えてはいないらしいが、ぼんやり形は見えると言っていた。よく混ぜているが、那由はじっと見ようとするかのように俺から視線を動かさない。
「あ、海苔入れようかなぁ」と言うと、たまらなかったのか「美味しそう」と言う。
海苔で卵かけご飯を巻いて、「那由、口開けて」と言って、口元に持っていく。小さく開かれた口にご飯を持っていくと、那由が食べた。途端に笑顔になるから、俺も幸せな気分になる。
「那由、お代わり欲しかったら言って」
「食べたいけど、クロワッサンもあるし」
「じゃあ、クロワッサン、半分こしよう」と言って、那由のお皿のクロワッサンを半分に分けた。
「京…本当に優しいね」
「那由だけに、ね」
「どうして?」
「そりゃ、好きだから」
「どうして?」
首を傾げて、眉間に皺を寄せる。
「ピアノだって、下手だし。目も不自由なのに…。お化粧だって、そんなにうまく出来ないから…」と俯く。
「…那由は自分の顔見えないから分からないだろうけど、何もしなくても可愛い。ピアノも…うまくないけど、かわいい。…不器用だけど、一生懸命なところもかわいい。おやつ食べてるところも、きゅうり齧ってるところも、何もかもかわいい」
そう言うと、口を開けて、何か言おうとするけれど、言葉が出ないのか、そのままゆっくり閉じられる。そしてオレンジジュースのストローに口をつけて飲む。
「京は嘘つきだからなぁ」と飲んでから言った。
「嘘?」
「優しい嘘つき」と那由は言う。
「そうかな? でも俺にとっては全部、本当だけど。じゃあ、那由は俺のどこが好きなの?」
「えっと。優しいところ。厳しいところは私は嫌だけど、自分にも厳しいから尊敬してる。後、チェロの音。こんなに綺麗な音を出せる人って…ってどんな人だろうっていつも想像してた」
「想像と違ってた?」
「うん。最初はね。でも…チェロの音と京は同じくらい綺麗だと思う」
(見えないのに…君の方が優しい嘘つきだ)と言う言葉は飲み込んで、その代わり、「ありがとう」と言った。
那由は乗り気じゃなかったが、やっぱり指輪を買いに行くことにした。確かに那由にとって見えないもので、指に異物を嵌められるようなものだから、不快で仕方ないのかもしれない。それでも俺は独占欲が強いのかもしれないけれど、指輪を嵌めて欲しかった。
「京…。本当にいいの? 京なら…もっと」と宝石店の前でそう言う。
なるべく指あたりのいい指輪を作っている店を探して来た。
「もっと素敵な人がたくさん」と那由が言い続けるので、俺は店の前で那由にキスをして口を塞いだ。
那由が両手で俺の胸を押すので、唇を離したけれど、「同じことを繰り返すなら、こっちも同じこと繰り返す」と言うと大人しくなった。
ショーケースから指輪を選ぶのだが、那由は見えないから口でデザインを伝える。婚約指輪は頑なに拒否されたので、結婚指輪のペアリングを買うことにした。
「このウェーブしたデザインはどう?」と言って、店員さんが出してくれたものを那由の指に嵌める。
那由は形を指で辿って、理解しているようだった。
「うん。綺麗だし…。指にストレスがない」と那由が言う。
「そうだね。俺もそう思った」
チェロを弾く時もずっとつけていたいから、那由が言う通りストレスがないものが良かった。あっさり決まってしまう。お互いのイニシャルを彫ってもらうことにした。あんまり興味なさそうだったのに、那由は出来上がるのが後日だと聞いて、少ししょんぼりしていた。
「また一緒に取りに来よう」と言うと、嬉しそうに笑う。
「…ありがとう」と柔らかく微笑まれたから、心臓が跳ねる。
「那由…。本当に結婚のこと、すぐには考えられないかな?」
「…すぐに?」
「那由の気持ちに擦り合わせたいから。一緒に頑張って、やっていきたい」
「…う…ん。京は…演奏旅行の前に慌てて帰国したんだよね?」
「そうだけど?」
「じゃあ、それについていく。そしたら私がいかにお荷物になるか…あるいは意外と良い働きをするか、分かるでしょ?」と言って、笑う。
「良いの?」
「でも結婚はその後」
「那由はそう言うところ、頑固だな」
頰が膨れるのを見ながら言って、指で膨れた頰をつつく。
「でも…そう言うところも…何もかも…好きなんだ」
怒ろうとする直前に言ったから、回避できた。そして「おやつでも食べよう」と言って、那由の機嫌を取る。
「あ、うん。デパートの上のプリン食べに行こう」
すぐに機嫌が良くなる。本当に何もかも好きだ。一年で日が長くなる六月の午後。一日が長い時に君といられるなんて、幸せ過ぎる。
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