三 雨の町

 スオウの肩の上に乗ったブルーデジアが、大きな瞳から大粒の涙を溢していた。

「レイン………あたしが外に出たいって言ったから、怒ってるの? わがまま言ったから……?」

 レインははっとして手を振った。

「ち、違います」

「だったら何でそんな怖い顔するの? 何で……」

 ブルーデジアはついに号泣し始めた。その足が濡れているのを見てレインの思考が固まる。

 戦々恐々とした時間が流れる。最悪だった。

 スオウがブルーデジアを抱き上げ頭を撫でようとしたので、レインは反射的に手を伸ばして彼女を奪い取ろうとする。しかしすぐに手を引っ込めた。

 全員がレインを見ていた。

 心配そうな目で。

 悲しそうな目で。

 恐がるような目で。

 レインはカランコエと最後にした会話を思い出す。

『もう家族を失いたくないんです』

『……うん』

 このままでは、レインは嘘を言ったことになってしまう。

 レインは長い瞬きをすると、スオウの目を見て言った。

「……すみませんが、彼女を渡して頂けますか」

 彼が誰かなんて今はどうでもいい。今は家族が優先だ。

 スオウはレインの気持ちを感じ取ったようにゆっくり頷くと、ブルーデジアをレインの腕の中に納めるようにそっと受け渡した。

 レインはブルーデジアの髪を優しく撫で、小さな声で囁いた。

「ごめんなさい」

 それからレインはアイリスとローゼンを順に見て言った。

「私は駄目なお姉さんです。一緒に遊ぶにも直ぐ迷子になってしまいますし、皆さんを見失ってしまいます。お話するのも上手じゃなくて、退屈させているでしょう。笑うのも下手です。それでも、この三ヶ月皆さんと過ごして、私は楽しかったんです」

 レインは「この時間が……」と言いかけて止める。

「……足が治ったらまた皆で遊びましょう」

 ブルーデジアがレインの胸に顔を埋めたままこくりと頷いた。続けて近くに来ていたアイリスとローゼンも頷く。

「わがまま言ってごめんなさい……」

「良いんですよ謝らなくて。子どもは元気に駆け回るものですから。ただもう少しの間、中遊びで辛抱してください。ハーゲルお兄様も心配しますから」

 ブルーデジアは「わかったわ!」と元気に頷くと改めてレインにぎゅーっと抱きついた。


      ☔☔☔☔☔☔


 ブルーデジアがアイリスとローゼンと手を繋ぎながら部屋から出ていくと、室内は再び微かな雨の音に包まれた。

 再び水を持って戻って来たスオウはにこりと笑って言った。

「仲直りできて良かったですね」

 レインは彼に言うことを色々考えていたのだが、そのとたん頭に血が昇って何も出てこなくなってしまった。

「じゃあ、俺はあの子達と遊んできますね。粥も持ってきたんで、出来れば食べてください」

 出ていこうとするスオウの服の袖をレインは咄嗟に掴んだ。

「何か?」

「あなたは――」

 彼を引き留めたはいいものの、やはり言葉に詰まってしまう。

 このスオウという青年が、カランコエの替りにこの場に現れたことは間違いないだろう。そうでなければ、ブルーデジアたちが当然のように彼を受け入れている説明がつかない。

 レインは不安になり始めていた。

 アイリスが言っていた通り――自分がおかしいのではないか?

 レインはスオウに少なくとも一回以上は会ったことがある気がしていた。

 レインがわかっていなかっただけで、彼は、教会の数少ない参拝者なのかもしれない。

 (参拝者? 違うな。彼は、)

「レイ、水」

「ありがとうございます」

 差し出された水を受けとる。

 (いけない、感情的になってる)

 水を飲んで少し冷静になったレインは、スオウを見上げた。

 その表情は――先ほどの子どもたちと全く同じ、傷付き怯えた迷い子の表情かおだった。

「……さっきはあんなふうに言ってたけど、俺は、レイのことをちゃんと家族だと思ってますから」

「……か、」

 言葉に衝撃を受けると同時に、レインは年上の男性に、子犬のような顔をされることなど生まれて初めてで、何ならそちらのほうに酷い衝撃を受けていた。

 固まって何も言えずにいるレインを名残惜しげに見詰めて、スオウは部屋を出ていった。



 三日後、レインは町の復興作業に繰り出していた。

 とはいえレインは五日間も熱を出して寝込んでいたらしく――被害は甚大でも小さな町のことだ。先日見たときからも作業は進み、既に一段落した後だったのだが。

 ハーゲルから町の様子があまり芳しくないことを聞いていたレインは、多少拍子抜けした。

 もっと森から流れてきた木や、雪崩れ込んだ泥が散乱していると思っていたのだが、それは復興初日に粗方片づけてしまったらしい。

 雨の中でよくやったなとレインは感心したが、よく考えてみればこの町の人たちはそれをこそ生業としているのだ。

 リグネットは元々少人数の物静かな集落だったが、その静けさは楚々とした穏やかなものだった。それが今は荒廃として、貧民街のようになってしまっている。

 生まれたときからここにいる彼らはとてもやるせないだろう。だからこそ皆、一日でも早く元通りにしたくて、作業に熱心なのだ。

 レインは町を眺めているハーゲルを見た。

 彼の表情は暗く沈んでいたが、その目に宿った光は一切弱まっていない。目の下の隈は更に深まり、あれから今日に至るまでまともに寝ていないのは明白だった。落ち窪んだ顔の中で瞳だけが輝いているのが異常だ。

「スオウ、君は昨日に引き続き、壊れた建物の修復作業に加わって」

 当然のようにスオウは作業メンバーに加わっている。離れていく彼を見送ってハーゲルはレインを振り返った。

「さてと。レインは…………どうしたい?」

 ハーゲルの気遣わしげな視線の意味はわかっている。レインは怪我人だ。正直ここに居ても何の役にも立てず、松葉杖を突いて町を闊歩するのが精々だろう。

 着いてきたのは、ハーゲルと話がしたかったからだ。この二日間レインは、朝早くに教会を出て町の復興作業に参加し、暗くなってから帰ってくるとひたすらお祈りをするという、ハーゲルの油断も隙もないライフワークを目の当たりにしてきた。レインの予想では、これは恐らく町の問題が解決するか、彼がぶっ倒れるまで続く。そうなる前に話がしたかった。

「ハーゲルお兄様、ランさんは……」

「ランさん?」

 わかってはいたが、やはり彼も忘れているらしい。普通にスオウと話をしている時点でそうだろうと思ってはいたが、レインはショックだった。

 どうやらスオウは、居なくなったカランコエの席を埋めるような形で、皆の記憶に存在しているらしい。

 それはそれとして――次が本題だ。レインは声を少し潜めて訊いた。

「ハーゲルお兄様、今回の嵐の被害者はどれほどですか」

 ハーゲルの窶れた顔に陰が射した。

「そんなの聞いてどうするの?」

「いえ、少し気になって……」

 ハーゲルは少し考えると言った。

「今確認出来てるだけで十一人。重軽傷者含めると六十人以上いる」

「行方不明者は?」

「一人」

 レインは思い出す。確か、三ヶ月前の行方不明者数は三人だった筈だ。

 考え込むレインに、ハーゲルがそわそわと言う。

「レイン、そろそろ私は手伝いに行ってくるよ。レインは戻っててもいいけど、どうする?」

「私は――」

 水浸しの地面を見る。

「――私は、見逃しがないか見て回ります。あと、もう一つだけ。私が目を覚ました日に会議をしていたそうですが、何を話したんですか?」

「町の修復具合の照らし合わせとか、新たに見つかった人の確認とか」

 これ以上引き留めるとハーゲルが何かすることを探して穴でも掘り出しそうなので、レインは礼を言うと潔く彼を開放した。

 直ぐ様走り去ると思っていたが、ハーゲルは一瞬振り返ると、

「あまり目立たないように」

 素早く走り去っていくハーゲルの後ろ姿が見えなくなるまで待ち、レインは宣告通り、少し町を歩いてから森に出ることにする。

 雨の強さはこの数日で、多少のブレはあれど以前までの穏やかさを取り戻しつつあった。とはいっても同じ雨であることに変わりはないので、レインは脇に松葉杖を挟み、空いた手で大きな傘を差して町を歩いた。

 飛んできた木々を取り除けど、町は元通りとはならない。レインの歩いた道に屋根の残っている家など片手で数える程しかなかった。そのままにしておくと家が水溜タンクになってしまうので、ブルーシートを張り上から枝葉を被せている。

 あれなら当分の間は浸水の心配はないだろう。とはいえ中に人がいる気配はなかった。

 男も女も若いものは、外で何かしら作業をしている。その周りで無邪気に走り回っている町の子どもたちを見て、レインは苦笑いした。

 (ブルーデジアが知ったら悔しさで暴れますね……)

 それでも、こういった災害時の死傷者のほとんどが、彼らのような子どもや逃げ遅れた老人なのだから、笑うに笑えない。

 レインは拾われ損ねた窓や瓶などの破片を拾いながら歩いた。雨に洗われてキラキラと輝くガラス片に触れて、子どもたちが怪我をするかもしれない。

 じろじろと視線を感じたのはそのときだ。

 見れば薄汚れたエプロンを着た数人の女性が、何やら囁き合いながらレインを見ていた。

 どうやら目立ってしまったらしい。レインは傘を閉じると、さりげなく道の端の軒がある場所に移動した。

 (あれから全く変わっていないな)

 自分を見る彼女らの視線には見覚えがあった。正確には彼女らが見ていたのは差している傘のほうだったのだが、何だか興醒めしたレインは、そろそろ森へ向かうことにした。

 森は、町の住宅地から数百メートル歩いたところにある。木は大きいものでも百メートルちょっとなので、倒木に依る被害を想定して離されたのだろう。それでも壊れるときは壊れるのだから、あくまで気休めだ。レインにとっては、往復に時間が掛かるので用がなければ極力出掛けたくないな、程度の距離である。

 住宅地と森との中間地点まで来て、人通りがないのを確認すると再び傘を差した。

 今更だ。髪から服からぽたぽたと水が滴り落ちる。

 (またハーゲルお兄様に心配させてしまいますね……)

 しかしレインは、結局数分もしないうちにまた傘を閉じることになった。森へ近付くに連れて土が柔くなり、踏み出すと一歩前より深く沈むようになっていったからだ。

 

 

 三十分近くの苦闘の末、森にたどり着いたときにはレインはびしょ濡れになっていた。

 (服が……)

 雨水を大量に吸ったワンピースはレインの身体にぴったりと張り付き、未成熟の痩せ細った体躯が透けていた。

 レインは髪と服から絞れるだけ水気を絞ると、森の奥へ進んだ。

 水位はレインの膝下まで達していて、彼女が歩く度にぱしゃぱしゃと水が跳ねた。

 瑞々しい樹木から垂れた水滴がそこらじゅうで波紋を生み出し、その度にポーンという小綺麗な音が森中に反響する。

 外の音は遮断されている。

 木と水が共に奏でる音一つ。

 耳障りの良い静寂。

 音だけではない。水面は先日レインが目にしたものとは比べものにならないほど澄んでいる。そこに浮かんだ葉がレインの周りを心地よさそうに揺蕩った。

 ここに入ればどんなに荒ぶる神も鎮まるだろう。

 しかしレインはそんな静謐な空間を、凡そ穏やかとは言い難い顔で突き進んでいた。

 (カランコエとはぐれたのは反対側ですが――――流れてきている可能性はあります)

 暫くすると、道中何本見たか知れない大木たちの中でも際立って太く高い巨木が現れた。相当長寿とみえ、幹の太さは、両腕を広げたレイン五人がかりでやっと囲めるくらいある。

 レインは上から下まで観察するように巨木を見た。

 立派な老木だ。残念な点を一つ上げるとすれば、その木からは既に、周りの若い木々のような瑞々しさが損なわれていた。そのためこれほど巨大にも関わらず、他の木々より若干見劣りする。

 ぼたっ、ぼたっ。

 水滴がレインの目の前の水面に続けて落ちた。上のほうの葉から落下したのだろうそれは、なんとも痛そうな墜落音を発して、乾いてきていたレインのワンピースの裾を濡らした。

 レインは表情一つ変えず、無感動に巨木を見上げていた。

 木に触れようとすると、爪が引っ掛かってカリッと不快音が鳴った。乾いた砂のようなものがパラパラと出てきて、音も立てずに水中に消える。

 それを見るともなしに見て、眩しさを感じたレインが再び顔を上げると、

 (――嘘)

 数秒前までパリパリに乾いた木皮が見えていた幹を、いつのまに手が埋まる程の量の青々とした葉が覆いつくしている。

 レインはふらふらと後退ると顔を覆った。

 (何これ――何これ何これ!)

 危うく気絶しかけたが、木が尚もに気付く。

 レインは落とした松葉杖を慌てて拾うと、逃げるように来た道を引き返した。

 そこからの記憶は曖昧だ。気付けばレインは脇目もふらずハーゲルの胸に飛び込んでいた。

「ハーゲルお兄様っ」

「レイン、どこに行ってたの心配したよ……ってうわっ!」

 ハーゲルは昼時になっても姿を見せないレインを探して、つい今しがた町から出てきたところだった。持っていたはずの傘も差さずに走ってきたレインを見て驚いていると、予想外にも体当たりされ、受け止めきれず尻餅をつく。

 ハーゲルは痛みに顔をしかめてから、レインの頭をそっと撫でた。

「ど、どうしたのレイン……」

「ハーゲルお兄様、ハーゲルお兄様!」

 レインはハーゲルの言葉が聞こえないようで、必死に名前を呼び続ける。ガタガタと震えるその身体は濡れそぼって、まるで怯えた子犬のようだ。

 ハーゲルはとりあえずレインが落ち着くまでこのまま待とうと思ったが、レインを一緒に探していた友人たちが面白がって二人を指差し騒ぎだした。

「おいおいハーゲル、この子が探してたお嬢ちゃんか? 随分懐かれてるじゃねーか」

「こんな年近い女の子にお兄様って呼ばせてるのかよ? いいなぁ俺も呼んで欲しいぜ」

「可愛い子だなぁ、いくつ?」

 ハーゲルは曖昧に微笑む。

「そうですね――」

「マジで羨ましいぞ、お前」

「てか結構スタイル良くね?」

「確かに」

「それ俺も思った」

「つか、何か見たことあるような――」

 ハーゲルははっとした。レインは頭から桶をひっくり返したようにびしょ濡れだったが、その服はリグネットで着られているような撥水性の高い服ではない――水を吸収すると透けてみえる服だったのだ。

 ハーゲルは咄嗟に、覆い被さるように抱きついてきていたレインの身体に覆い被さり返した。

 思わず押し倒してしまった。ハーゲルは我に返って腹這いのまま友人たちを見た。

 彼らは一瞬ぽかんとしたが、ハーゲルが責めるような目をして自分たちを見たので、とても厭そうに口元を歪め睨み返した。

「何だよ」

「……いえ。ただ、女性の身体はあまり凝視しないほうが良ろしいかと」

 ハーゲルがいつもの調子で返したのを彼らはつまらなそうに一瞥すると、「やっぱりお綺麗な牧師様だな」と吐き捨てるように言って去っていった。

 ザーザー、ザー。

 雨の音しか聞こえないことに気付いたハーゲルが身体の下を見ると、口を閉じたレインが代わりに開いた眼で、じっとこちらを見ていた。

「やぁ、目覚めたかいお姫様」

「はい、ハーゲル牧師様」

 レインの言葉にハーゲルは一瞬きょとんとした。

「やめてくれ」

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