二 疾走と失踪

 外に出た瞬間雨粒が顔を叩き付けてきて、レインは目を細めた。

 嵐は過ぎ去った。とは言えこの町の天候は、常時から良いとは言い難い。強い風と雨に吹き飛ばされそうになりながらカランコエに言う。

「ちゃんと着いて来て下さい!」

 森の中に入りさえすれば、木々が雨風を遮ってくれる。

 レインは肩掛を頭から被ると、舟を停めている所まで一直線に走った。少し遅れて着たカランコエを先に舟に乗せてから自分も乗り込む。

 雨風が届かない地点まで来てから振り向くと、半身が水に浸かった大木と、それに押し潰されそうな教会が見えた。



 先に出たハーゲルの姿がないか確認しつつ、舟を漕ぐこと数十分。

「ねぇ、何で」

 舟の後ろに乗ったカランコエが口を開いた。

 レインとカランコエは同じ屋根の下で暮らしているが、二人とも物静かで、フレンドリーなタイプではないので、日常的な会話をすることは少なかった。レインは特に気にしていなかったが、こうして話し掛けられると少し驚く。

「何がですか?」

「私たちが探しに行く必要、ない」

 なのに何故行くのか。

 カランコエが言葉少なに呈した疑問を、同類の共振かレインは正確に汲み取った。

 恐らくカランコエはわかっているのだ。レインが感情で動くような人間ではないということを。

 レインは暫く考えて、最も適当で端的な答えを口にした。

「もう家族を失いたくないんです」

「……うん」

「……」

 レインはやってしまったと、こっそり額を抑えた。

 教会に身を寄せる子どもたちは、全員親も兄妹も居ない、所謂いわゆる孤児だ。この通りレインは人との会話にあまり積極的でないので、彼らの細かい事情は知らない。敢えて言うなら、そこまで踏み込んで良いものではないと思っていた。

 思いもよらず初めてその話題に触れてしまった今日、あろうことか墓穴を掘ってしまったのだ。

 (こんなことなら黙っておけば良かった……)

 気まずい空気を払拭しようとカランコエを振り返る。突然ビュッと空を切るような音がして、舟がひっくり返った。

 宙に浮いたレインの身体は数十メートル先まで吹っ飛び、太い木の幹に顔面から激突した。お風呂のヒヨコのような声を出すと、そのまま水の中に落ちていく。

 何も見えないくらいに濁った水を大量に呑み込みながら、レインはひたすら前に向かって手を伸ばした。

 ゴボゴボッ。

 意識を失う間際、自分を呼ぶ兄の声がした気がした。


       ☔☔☔☔☔


 目を覚ますとレインは、自分のベッドに横になっていた。

 レインの顔にはガーゼが貼られ、額の上にはタオルに繰るんだ氷嚢ひょうのうが乗って居る。頭を動かすと氷嚢が額から滑り落ち、ベッドサイドに居た青年が振り向いた。

「目が覚めましたか」

「……誰」

「寝ぼけてるんですか」

 頭が痛かった。大木に顔面からぶつかったことを思い出して、レインは額を抑え項垂れた。

「妹は」

「さっきまでいましたよ。相変わらずこっちが驚く程元気いっぱいです」

 それは恐らく一番下の子だ。ハーゲルは無事彼らを見つけられたらしい。

 結局自分は何も出来ず、カランコエまでを危険に曝しただけになってしまったようだ。

 レインは溜め息を吐いて部屋を見回した。

 いつもなら、本やらぬいぐるみやらが縦横無尽に散らばっている部屋が、こざっぱりとした姿に生まれ変わっている。

「なかなか目を覚まさなかったので安心しました」

 ぬいぐるみのリボンを結び直しながらそう言った青年の顔を、レインはまじまじと見た。

 フレームの細い眼鏡を掛けた黒髪の青年で、黒色の顎まであるインナーの上に割烹着を着ている。暑そうな服装の上、部屋の中を世話しなく動き続けているのに汗一つかいていない。

 レインは彼をどこかで見たことがある気がしたが、どこで見たのか思い出せなかった。

 じっと自分を見ているレインに気付いた青年は、手を止めるとレインに微笑み掛けてきた。

「覚えてますか?」

「何をですか」

「いえ、何でも」

 レインは彼がどの程度事情を知っているのか計りかねていたが、何だかイラッとした。

 まあいい。掃除をしている彼に背を向け、レインは窓の外を見た。

 この部屋は町のほうに面していて、百数十メートルほど下に住宅が見渡せる。

 嵐の三日間は、森から町へ流れていく泥や枝葉がぼんやり見えるくらいだったが、いつの間に水位は引いて、今ははっきりと町の輪郭が確認できた。

 いくつかの家は水に流され、なくなっていた。他にも、屋根から玄関にかけての部分が大破していたり、失くなっていたりする。流木は飛んでいったのか流されたのか、はたまた取り除かれたのか、そこまでの量は見えなかった。

 全て嘘だったかのような穏やかな霧雨の中で、人々が世話しなく動き回って作業をしている。

 レインは一通り町を眺めてから、ふぅとひとりごちた。

 ――あれから何日経ったのだろう。

 (大分落ち着いてるから、三日か、四日?)

 このくらいの雨なら、子どもたちも十分安全に遊べるだろう。ハーゲルならまだ様子を見ているか。町のほうに行くにしてもあの様子じゃいつ何が落ちて来るとも知れないし、厄介がられ追い払われる可能性も高い。

 ふとハーゲルの失望したような背中が頭に浮かぶ。落ち着かなくなってレインが振り向くと、こちらを見ていた青年と目が合う。

「ハーゲルお兄様は……」

「大変な状況です」

 無表情のレインの顔からサッと血の気が引いた。

「け、怪我をされたんですか」

「それは……」

 彼が言い淀んだので、レインは更に青ざめるとベッドからまろび出た。

「ハーゲルお兄様!」

「ちょ、危な――」

 バランスを崩したレインを青年が前に出て受け止める。

「骨折しているんですよ。動かさないほうがいい」

 頭が沸騰するほどの痛みが右足に走っていた。それでも腕を振り払ってレインが行こうとすると、舌打ちした青年にすごい力で持ち上げられた。

「最後まで聞いてください。彼は今、会議の最中です」

「会、議?」

「はい。町のお偉い人と話してるんです。今行っても逆に迷惑になります」

 青年はレインをベッドに戻すと水を取りに行った。

 戻ってきた彼は、水だけでなく後ろに何やらぞろぞろと連れていた。

「レイ姉!」

 皆の妹、ブルーデジアは二つに結んだ黄色い髪を振り乱しながら、レインに飛び付いた。乗ったところが丁度足のところで、レインは危うく気絶しそうになる。

 続いてぽっちゃり体型のアイリスと、のっぽのローゼンも歩いてきた。

「レインちゃん。良かったぁ目が覚めて」

「ははっ、間抜けだな。普段茸ばっか採って運動しねーからこーなんだ」

 レインは彼らに会ったらまず言うことを決めていた。

「……皆さん……本……本当に……申し、訳あり……ませんでした…………っ」

 ぷるぷると肩を震わせながらレインは頭を下げた。

 それは、事前に用意していた申し訳なさと、予想外に受けた外的痛みが組合わさった結果だったのだが、少年二人は酷く驚いたように目を見張った。

「い、良いんだよレインちゃん、気にしないで!」

「いえ……そういう、訳には」

「良いんだよレインちゃん、元々は僕たちが悪いんだから…………レインちゃんも大変だったよね。ありがとう」

 気遣ってくれる小さな少年を見上げたレインは、そこにハーゲルの面影を重ね、少し和む。

 隣からここぞとばかりに茶々が入った。

「保護者失格ゥ」

「はい……」

「ろ、ローゼン!?」

 アイリスが驚愕の表情でローゼンを見た。ローゼンは今までしたこともない神妙な顔を作り、「良いんだよ、レインちゃん…………気にしないで」と言うと、ベエッと舌を出した。

 ハーゲルに似て真面目な彼には、ローゼンがふざけた態度を採る理由が理解出来ない。顔を真っ赤にして真剣に怒り出すアイリス。

 (まだまだ子どもですね……)

 レインが暖かい目で二人を見ていると、それまでよくわからないという顔でソワソワしていたブルーデジアが、レインの肩を突っつく。

「どうしました?」

 ブルーデジアは大きな目でレインをじっと見てから言った。

「三人とも何の話をしてるの? レイン、あたし毎日退屈で退屈で死にそうだったの! 今日こそ外に出て遊びましょ!」

「……」

 思わず絶句する。

 アイリスが慌てたように振り向いて言った。

「で、デジアちゃんっ。それはつい最近ハーゲルお兄様に怒られたばかりじゃない!」

「でも、大人の人が居ればいいんでしょ? レインは大きい人よ!」

「た、確かに大きいけど、レインちゃんは今、怪我してるから……」

「そんなのもう治ってるわよ!」

「ほら!」ブルーデジアが自信満々に突然レインの足を叩いたので、レインは「うっ」と声を出した。それを見たアイリスははっとして、その顔をみるみる青くした。

「……い、今は危ないから駄目だって」

「そんなの心配いらないわ。あたし怖くないもの!」

「そ、そういうことじゃなく……!」

 アイリスが助けを求めるように「大きい人」に目を向けた。しかし、レインは自分が何を言っても無駄だと知っている上に、ブルーデジアを唯一止めることの出来るハーゲルは、今ここには居ない。

「おいブルーデジア、足……」

 やっと気付いたらしいローゼンも声を上げる。

 が、ブルーデジアはぷーっと頬を膨らませるとそれを遮り、あまつさえレインの身体の上でバタバタと暴れだした。

「もうっ。皆あたしと遊びたくないのね! いいもんっ、皆が居なくてもあたし、森に遊びに行くもんっ。町の子たち誘って、あんたたちが居なくたって……」

「おい」

 それまで傍観していた青年が、ブルーデジアをレインの膝の上からひょいと持ち上げた。

「ここにはまだ大きい人がいるだろ。そいつと遊べばいいじゃないか」

「大きい人?」

「そうだ」

 ブルーデジアは少し考えて口を開いた。

「スオウが遊んでくれるの?」

 (スオウ?)

 レインは解放された足を擦りながら、ブルーデジアの言葉を反芻した。名前に覚えはあるが、どうしても誰のことだったか思い出せない。

 しかし、今この部屋にいる大きい人は、件の青年しかいない。

「ああ。あんまり遠くまで行かないって約束出来るんなら、気が済むまで遊んでやるよ」

 あっけらかんに言い放ったスオウに、レインは唖然とする。

「止めて下さい。危ないですよ」

「危なくないですよ。さっき見てたから知ってると思いますけど、水は既に引いてますから。それに、俺がついていきますし」

 だからなんだと言うのだ。自分ですら見失ったのに、寝起きから誰だか思い出せない青年に、三人を任せられるわけがない。

 レインの心労など知らないブルーデジアは、スオウの首にぎゅっと抱きつくと「スオウ大好き! 早く行きましょ!」と、レインにとってとんでもない公言をする。

 (そ、そんなに使用度が高いなんて…………私なんか、未だに「好き」留まりなのに)

 ウェディング姿のブルーデジアが頭に浮かぶ。「レイン! 私、外で大好きな人と生きていくわ! 今までありがとう!」。投げられるブーケ。雨風に飛ばされていく……。

 (いやいやいや)

 あり得ない。ブルーデジアはまだ五歳。どう考えても犯罪だ。ブーケもそんなに飛ぶわけない。

 レインは冷静に自分の足の具合を確認した。先ほどは何の準備もなく立った為、体重の掛け方が悪かっただろう。支えがあれば歩くことは可能な筈だ。

 レインはチラリと視界に入れた青年を睨むと、「仕方ないです、私も一緒に行きます」と言ってアイリスを呼んだ。

 しかし彼は微妙な顔で固まっている。いつもだったら素直に支えてくれるだろうアイリスが来なかったので、レインは違和感を覚える。

「どうしました?」

「レインちゃん……その……スオウくんがこう言ってくれてるんだから、レインちゃんがそこまで無理する必要はないんじゃないかな」

「スオウくん……?」

 レインは少し驚いた。アイリスもスオウをリスペクトしているらしい。しかもかなり親しげな様子だ。

 スオウはといえば、ブルーデジアを肩車してやってキャッキャと喜こばれている。もうすっかり遊びモードだ。

 アイリスが羨ましげにそれを見ている。ハーゲルに言われたから自粛を装ってはいるが、本当は彼も思いっきり遊びたいのだろう。

 彼らの様子は完全に既視感のあるものだった。

 まずい。このままではつい数日前の二の舞を演じることになってしまう。

「スオウなら、道に迷うこともないしな」

 ローゼンまでもが、レインの心配は徒労であるということをぼそりと示唆する。しかもそこには明らかな軽蔑の意が含まれていた。

 レインは頭を抱えた。

 何かおかしい。寝て起きたらまるで時間が巻き戻されでもしたようだ。しかも前回より状況の制御が効かない。

 ――何かが違う。

 レインはそこでふと顔を上げて訊いた。

「―――ランさんは?」

 ランとはカランコエの愛称だ。教会に住む全員が、カランコエをそう呼ぶ。

 カランコエの姿がないのはいつものことだ。何処か暗くて目立たない場所で本を読んでいるのかもしれない。

 見渡した彼らの顔は一様にポカーンとしていた。

「らん……さん?」

 レインもポカーンとする。

「ら―――ラン、」

「誰それ?」

 レインは耳を疑った。

「わからないんですか?」

「レインのお友達?」

「こいつは外に出て友だち作るやつじゃないだろ」

 ブルーデジアとローゼンは顔を見合わせて頷き合う。当のレインはそれどころではなく、信じられない気持ちでか彼らを観察していた。

 冗談かと思ったが、それにしては二人の顔が真剣すぎた。況して普段ならそういうのには雑ざらないアイリスまでもが、首をかしげてレインを見ている。

 三対一。

 何だか頼りなくなって、レインは自分の身体を抱き締めた。

 (おかしい……何故、彼らはカランコエのことを忘れているんでしょう。まるであの嵐が、カランコエを皆の記憶ごと連れ去って行ってしまったみたいです……)

 レインは見るともなしにスオウを見た。

 (…………ハーゲルお兄様はご存知なのでしょうか)

「……私は帰ってきたのに、何故彼女は帰って来れないんですか?」

「レインちゃんを見つけたのは――」

「おいレイン落ち着けよ」

「そうですね。一旦水を……」

 スオウが差し出した水をレインは払いのけた。

「近付かないで!」

 スオウは驚いたようにこちらを見た。

「あなたは誰なんですか!? 突然現れて、悠々と家族面しないでください!」

「レインちゃん……?」

「冗談ですよね……皆さんは彼女と何年も一緒に生活していたんですよ? そこに……」

 レインははっとして床を見た。いつもならそこにあるものはなく、代わりにレインが落としたコップが転がって水溜まりが出来ていた。

 レインは起きたときにスオウが色々片していたのを思い出す。

 決して広くはない部屋を見渡したレインは、部屋の反対側の角にあるレインしか使わない机に目を止めた。あった。

 もうこれしかない。レインは机に立て掛けられた一冊の本を指差した。

「その本は、彼女が図書館で借りたものです。それがこの部屋にあることが、彼女の存在の証拠です」

 自信を持って言いきったレイン。しかしアイリスが悲しそうにそれを否定した。

「それはスオウくんが借りてきた本だよ」

「……」

 詰みだ。物を最低限しか所持しないカランコエの残したものは、その本以外もうここにはないだろう。仮にあったとして、それはスオウのものになっている可能性が高い。

 すっかり意気消沈してうつむいたレインに、アイリスは彼女が落としたコップを拾いながら言った。

「レインちゃんどうしたの? せっかく起きたと思ったら何だか様子がおかしいよ。忙しいハーゲルお兄様に代わって、ずっと看病してくれてたスオウくんにも酷いこと言って……」

 レインは狂ったように叫んだ。

「頼んでません!」

 そのときすすり泣く声が聞こえて、レインは顔をあげた。

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