一 雨とレイン

 雨の音が響く森の中を歩いていた。

 一年中雨が降っているこの森は、水を膨満に吸い込んだ木々が高く高く空に伸びている。その大木たちが受け止める為に、下には殆ど水が落ちてこないのだった。

 しかし、森には確かに雨音が響いていたし、湿った土のすえた匂いもしていた。

 それでもその姿は見えない。雨音だけが、遥か天上から響く。

 その不一致さに、吐き気がした。


      ☔☔☔☔☔☔


 森を出て直ぐの小高い丘の上に、その教会は位置している。

「ハーゲルお兄様、只今戻りました」

 教会に戻ってきたレインの姿に、ハーゲルは驚いたように目を見張った。

「レイン! どうしたの!」

 レインは自分の身体を見下ろした。雨に濡れ全身びしょびしょ、白銀の髪からはぽたぽたと絶え間無く雨水が滴り落ちている。少々泥も跳ねていた。

 レインは事も無げに言った。

「転びました」

「怪我はしていない? 皆、気付いたらいないから心配したよ。他の皆は?」

 あわあわと近付いたハーゲルは、直ぐにレインの顔色が優れないことに気付く。「取り敢えず身体を流しておいで」と優しく言ったハーゲルに押されて、レインは浴室へ向かった。


      ☔☔☔☔☔☔


 レインが正堂へ戻ると、ハーゲルは森でレインが採ってきた茸を、真剣に選り分けていた。

 誰も見ていないというのに、その表情は慈悲深いまでに優しげだ。雨の町より、晴れやかな空の下にいるほうがしっくりくるだろう。

 よほど集中しているのか彼は、彼のしなやかな髪の毛一本一本を見分けられるくらいまで、レインが近づいても気付かなかった。

 味を占めたレインは、暫くハーゲルを色んな角度から見詰めることにした。

 彼は本当になかなか気付かなかった。レインは弱く息を吹き掛けてみたり、白い肌に触れようとしたりしてみたが、彼は頑として茸から目を離さなかった。が、その手は既に止まっていた。

 もはや目を開けたまま寝ているんじゃないだろうか。レインは、彼の耳元で「ハーゲルお兄様」と囁いてみた。

 飛び上がったハーゲルが、やっと驚いたようにレインを見た。

「れ、レイ、居たの。今、レイが採ってきた茸を視てたんだけど、今回は何れもちゃんと食べられそうだよ」

 ハーゲルが満面の笑みでレインを迎える。

 レインは何事も無かったかのようにすまし顔をして答えた。

「良かったです」

 素っ気ない態度だが顔色が大分良くなったレインに、ハーゲルは満足そうにうなずいた。

「ふふ」

 急に笑いだしたハーゲルにレインは訝しげに首をかしげる。

「どうしたんですか?」

「しっかり者のレイが、転んで顔中泥だらけにしちゃうなんて。よっぽど茸のことしか見えてなかったのかな?」

「……ハーゲルお兄様」

「ん?」

「一つのことしか見えなくなっているのは、ハーゲルお兄様のほうではありませんか」

 ハーゲルはレインの目をじっと見詰めると、困ったように笑った。

 いつもこうだ。

 彼はいつどんな時も、ずっと笑っている。

 これまではその笑顔に救われてばかりいたが、今はその笑顔のせいで、どうすればいいわからなくなる。

 レインのそんな憂いを感じ取ったらしいハーゲルは、直ぐに笑顔を引っ込めた。

「……」

「……」

「……」

 雨音が堂内に響く。

 何とも気まずい空気が流れるなかで、レインはハーゲルの目の下にくっきりと付いた隈から、目が離せないでいた。

 (また濃くなってる……)

 彼の目の下の隈。その原因は明白だ。

 雨の町リグネットを襲った、数十年に一度の大洪水。

 それは何の前触れもなく訪れた。そして、たった三日で町を壊滅状態まで追い込んでしまったのだ。

 強い風には家の屋根や扉が次々に吹き上げられ、森の若い木々が泥土共々、町まで流されて来て建物を薙ぎ倒した。

 激しい突風と雨は、雨を愛する多くの人々の命を奪っていった。

 その為、牧師ハーゲルはこの三日間睡眠も取らずに、ずっと正堂で祈っていた。それはまるで、それしか出来ることがない自分を責めるように一心に。

 それが功を奏したのか、嵐は止んだ。

 しかし今日、ハーゲルの表情は未だに晴れないままだった。

 その理由はわかっている。そしてハーゲルは、そのことについてレインから話し出すのを待っている。

 今すぐにも、荒廃とした外へ出ていきたい衝動を抑えて。

 レインは、覚悟を決めてことの経緯を話し出した。



 この教会では、身寄りのない子どもたちを保護し育てている。レインもそのうちの一人だ。

 下から5歳、10歳、12歳の子どもたちがいるなかで、レインは16歳。最年長だ。

 酷い嵐が続いていた。レインは毎日毎晩祈り続けるハーゲルに不安を感じていた。

 一方、まだ幼く遊び盛りの子どもたちは、外に出られないことに対しただただ納得がいかず、不満を募らせていた。

 その不満が今朝、ついに爆発した。

 珍しく祈りの時間より早く起きた子どもたちに、レインは突然外に遊びに行こうと誘われた。

 衰弱したハーゲルのことが心配だったレインは、当然駄目だとはっきり断った。

 しかし、彼らは疾うに我慢の限界を迎えていて、レインが来ようが来なかろうが関係なかったのだ。

 レインの制止は何処吹く風に、暴風雨荒れ狂う室外へ出ていく彼らを、レインは渋々追いかけた。



 そこでレインは一旦話すのを止めた。

 ハーゲルが眉を潜めていたからだ。

 レインたちが出ていくとき、ハーゲルは正堂にいた筈だ。しかし、出ていく彼らに全く気付かなかった。

 頭から血の気が引いていく気がして、ハーゲルは変化した顔色をレインから隠すように、外へ出られる唯一の扉である正堂の正面玄関口を見詰めた。



 久々に出た外は、川のようになっていた。

 小舟に乗って森へ出た子どもたちは、鬼ごっこやかくれんぼなどをして悠々自適に過ごし、レインは時々彼らの遊びに付き合いながら、茸の採集をしていた。

 ふと気付くと、レインは子どもたちとはぐれてしまっていた。

 レインは慌てて彼らを探したが、広い森の中から、特定の人物を見つけ出すのは至難の業だ。どちらの方角に行ったのかもわからない以上、更にどうしようもない。

 レインは、彼らが教会へ先に帰っていることを願って帰るしかなかった。



 レインはぐっと拳を握って言った。

「申し訳ありません、ハーゲルお兄様……私が目を離したばかりに」

 見守る為に着いて行ったのに目を離してしまうなんて、何の為に同伴したのだかわからなかった。

 ハーゲルは顔を扉のほうに向けたまま動かない。

 その後ろ姿から、レインは少しの失望を感じて焦る。話し掛けようとしたとき、ハーゲルが口を開いた。

「――つまり、レイ。君以外の子どもたちは、まだ森の中に居るんだね」

 扉を見つめるハーゲルの声音は穏やかだった。しかし、その心情を想像するとレインの心は零度以下まで冷えた。

 それでも自分が取り乱していいわけがない。あふれ出る感情を抑えて淡々と答える。

「その可能性が高いと思います」

 ついに振り返ったハーゲルの顔を見て、レインは愕然とした。

 彼は、いつもの周りをほっとさせるような笑顔のままだった。

「仕方ないよ。あの子たちは小さいときから森の中で遊んでいるから、動きが尋常じゃなくて僕も着いて行くのには一苦労だもの」

 ハーゲルはそこで薄い唇に指を当てて、懐かしそうに言った。

「特にブルーデジアは、赤ちゃんの頃からあそこで這い這いの練習をしていたからなぁ」

「……」

 樹齢何百年の大木たちが根を張るあの森で、乳児に這い這いの練習をさせていたのか。レインは泣くに泣けず笑うに笑えず、黙りこくる。

「だから、そんなに心配はしていないよ。なんなら僕が行って、逆に迷子になることを心配しないといけないくらいなんだよ、うん」

 レインの瞳に、ふっと強い光が浮かんだ。

「私、行きます」

 ハーゲルが曖昧に笑う。レインは構わず繰り返した。

「私がもう一度、森に行って探して来ます」

「レイもだよ、迷子になるのが心配なのは。本当に帰って来れて良かったよ」

 レインは、ハーゲルのその言葉が心からのものだとわかっていた。同時に、先の言葉はやはり嘘だもわかっていた。

 広大な森の全容をレインはまだ掴めていない。帰って来ることが出来たのは、そこまで奥に行っていなかったからだ。況してやレインは舟から落ちたらなす術がない。

 レインはふと窓の外に目をやった。今にも窓を割って入り込んできそうな大木が、教会を覆うように立っている。

 ハーゲルのいう通り、子どもたちは森を熟知している。しかし、心配なのはそこではない。いくら彼らが森を知り尽くしていても、自然の脅威には敵わないだろう。

 そこで、ハーゲルが扉を僅かに開けて身を乗り出しているのに気付き、レインははっとして追いかけた。ハーゲルが内側に半身を残したままで静止したので、レインは扉から飛び出す勢いのまま、ハーゲルの背中にどんとぶつかった。

「も、申し訳ありませんハーゲルお兄様」

「大丈夫? 見せてごらん」

 ハーゲルはレインの頬にそっと手を添えて顔を近付けた。

「少し鼻が赤くなってるなぁ。あと顔が少し熱いね。やっぱり風邪ひいたかな」

 レインの顔がみるみる赤くなっていく。ハーゲルは身を翻し自室から氷嚢を持ってくると、それをレインの鼻に軽く押し当てた。

「レイは寝ていて。祈りの時間までに帰って来るから」

 レインははっとして直ぐに言い返した。

「私が行きます!」

 ハーゲルは困ったように笑ったが、今度こそはっきりと拒絶した。

「駄目。君は残ること」

 その言葉には有無を言わせぬ響きがあり、レインは黙り込む。

「ありがとう、レイ。でも、私は森には慣れているし、あの子たちのこともよく知っているから。君が無理に来る必要はないよ」

 嵐は去った。レインが出来ることはもうないのだ。

 レインはしぶしぶ頷いた。

「じゃあ、ちゃんと寝ていられるね」

「はい」

「寝室まで歩いて行ける?」

「はい」

「直ぐに帰って来るからね」

「はい」

「……本当に大丈夫?」

 石のようにその場で固まってしまったレインを、ハーゲルは寝室まで運んでいった。

 レインの寝室は、子どもたち共用の部屋だ。元々物置だったらしいその部屋は、今は三つのベッドがぎゅうぎゅうに詰められ、かなり窮屈になっている。

 手前側のベッドにはおもちゃやらぬいぐるみやらが散らかっている。対象的に、その隣のベッドは敷布が綺麗に整えられており清潔だ。

 部屋に残る子どもたちの匂いを感じながら、ハーゲルはレインを窓際にある一番奥のベッドに寝かせる。

「大丈夫。直ぐに皆で帰って来るから」

 ハーゲルは安心させるように、彼女の頭をぽんぽんと二回撫でてから部屋を出ていった。

「……」

 ばふんっ。

 ハーゲルが居なくなると、レインは枕に向かって思い切り突っ伏した。

 (後悔先に立たずとはよく言ったものですが……)

 ハーゲルのあの笑顔を壊してしまうかもしれない。そう思うと、言葉では言い尽くせない後悔が頭に押し寄せ、レインは枕をばんばんと叩いた。

 教会の二階にある寝室は、広さも違えば材質も違うので、正堂よりも音が籠る。雨の音も容赦なく充満していた。

 (嵐が過ぎ去っても、この町は変わらない。きっと永遠に雨は振り続けるのでしょうね)

 レインはその喧しい音に耳を塞ぎたくなり、枕に顔を埋めた。



 雨音の中に異質な音が混じっているのに気付いて、レインは顔を上げた。

 ベッドの上のぬいぐるみがモゾモゾと動いている。

 (何?)

 レインは恐る恐る近付くと、小高く積まれたぬいぐるみの山かららぬいぐるみを一つ抜き取った。

 ぬいぐるみの下から、毛色の違う紺色の髪が覗いた。

 レインは更にぬいぐるみを退かし、その正体を確かめんとした。不健康そうな青白い肌に続いて大きな眼がレインを捉える。

 一瞬人形かと思ったが、その目が瞬きをしたのでレインはその考えを振り払った。ただの人形なら瞬きをしない。

 それは少女だった。不健康な生活をする引きこもりの少女。

 名をカランコエというその少女は、読書に勤しんでいるところを邪魔されて、不機嫌そうにしていた。

「……何?」

 レインは驚きで暫く返事を忘れた。

「……い、居たのですか」

 漸く口にしたのは間抜けな質問だった。

 案の定カランコエは眉を潜めて言った。

「見ればわかるだろう」

「い、いつから」

「いつからだったかな」

 カランコエも今朝、一緒に外へ出た筈だ。その後、遊んでいるときは? レインは思い出せなかった。

「教会にいつ戻って来たんですか」

「鬼ごっこの後、疲れた。アイリスに言っておいた筈。そういえば皆は?」

「はぐれてしまって……」

 気まずそうに言うレインに、カランコエは何でもないように「そう」と言って、また本を読み始める。

 その様子に、レインは顔を暗くして訊いた。

「心配じゃないんですか?」

「何で? そのうち帰って来るだろ」

「今日はいつもと違うんです。酷い嵐の後で、何が起こるかわからない」

 カランコエは関心がないようだったが、レインは水を得た魚のようにカランコエの手を取った。

 本がぬいぐるみの上にぽすんと落ちる。カランコエが訝しげにレインを見上げた。

「探しに行きましょう。私たちが早く見つけないと」

 元はと言えば、子どもたちを森へ連れ出してしまったのは自分だ。レインはやはり、彼らを探しに行くのを諦めていなかった。


      ☔☔☔☔☔☔


 レインがカランコエを説得している頃。ハーゲルは茫然自失の体で、森の中にいた。

 子どもたちがよく行く場所を全て探して回るつもりでいた彼は、拍子抜けする程呆気なく子どもたちを発見したのだ。

 正に台風一過の、光射し込む森の中心で、秀麗な牧師が子どもたちを抱き抱える。その様は、すべての苦しみからの救済を感じさせた。

 彼らは各々の小舟の上で眠っているが、幸いなことに全員命に別状はなさそうだった。そのあどけない寝顔に彼がほっと息を吐こうとしたとき、彼の目の前を信じられない光景が過った。

「――師匠」

 その人影は遠く、ハーゲルが子どもたちを胸に抱えているのを確認すると、直ぐにどこかへ消えた。

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