第6話 待ったニャ!

 病院までの道のり。

 歩き始めてすぐの頃は、雫と望海がぽつぽつと会話していたが、やがて話題も尽き、重苦しい沈黙が漂い始めた。


 母は病床で死にかけている。

 その現実を思うと、明るい話など続くはずがない。

 その沈黙を破ったのは、意外な存在だった。


「ご主人様のご主人様! 我が輩にその板を貸してほしいニャ!」


 オモチが雫の鞄を前足でちょいちょいと突きながら、キラキラした瞳で訴える。


「え? スマホのことですか?」

「そうニャ! その小さな板に世界の知識が詰まっていると、我が輩の本能が告げているニャ!」


 唐突すぎるお願いに雫は目を瞬かせたが、すぐに小さく笑みを浮かべて鞄からスマホを取り出した。


「壊さないでくださいね? 大事なものなんですから」

「任せるニャ! 我が輩、こう見えて器用ニャ!」


 雫は心配そうにスマホを抱えるオモチを見守る。

 小さな前足でタップする姿はどう見ても猫のじゃれつきにしか見えないが、不思議なことに画面は正しく反応していた。


「おい、急にどうしたんだよ」


 一輝は訝しげに眉をひそめる。


「決まっているニャ! この世界の情報と知識を知りたいのニャ! ご主人様たちを導くには、まず世の流れを掴まねばならぬニャ!」


 オモチは胸を張って堂々と宣言する。

 その姿はどう見てもただの猫だったが、口調と雰囲気だけは妙にしっかりしていた。


「ネットサーフィン開始ニャ!」


 オモチは器用に検索エンジンを開き、トレンドや動画サイトを片っ端から漁り始める。

 雫は苦笑し、一輝は頭を抱えるしかなかった。


 オモチの指先というか肉球が画面をスワイプする音だけが、行き交う人々の往来の中で響いていた。

 その間にも一行の足は確実に病院へと進んでいた。


 ようやく、病院に辿り着いたころには、汗が滲んでシャツに張り付いていた。


 病院の自動ドアが開くと、空気はひんやりとし、消毒液の匂いと人々の足音が混じり合う。

 雫は息を整え、受付の窓口に向かって小さく声を出した。


「面会をお願いします。星乃澪ほしのみおの家族で娘の雫と言います」


 事務的なやり取りの後、看護師に案内されて個室の前へ。

 扉を開けると、白いモニターの光に照らされたベッドの上に、小柄な女性が横たわっていた。

 頬は痩せ、頭には帽子をしており、だがその目はまだ濡れて光っている。


「お母さん……!」


 雫は走り寄るようにしてベッドの縁に膝をついた。

 奏は少し控えめに、だが確かな足取りで母の側に立つ。

 望海は廊下で少し離れてオモチを抱きしめていたが、今は誰もが静かにその場にいる。


「お母さん、聞いて……!」


 雫が息を詰めて話し始めると、奏が穏やかに微笑んで説明を継いだ。


「ほら見て、お母さん。綺麗でしょ。これ全部、一輝さんが治してくれたの」

「えっ……! 本当に? 奏、手足が戻ったの?」


 澪の瞳がみるみるうるみ、まるで自分のことのように喜びの震えが走る。

 雫は頷き、事の顛末を簡潔に話す。

 そこから話は一輝へと向かった。


「紹介するね。私の使い魔になってくれた一輝さん」


 雫が一輝の前に体を引いて促すと、一輝は少し照れくさそうに頭を下げた。


「臥龍岡一輝です。お目汚し失礼します」


 澪は一輝を見つめ、驚きと喜びと、どこか疑い混じりの表情を交互に浮かべた。

 やがて、目元が緩み、声を震わせながら言った。


「あなたが……? 本当に、あの子の手足を治してくれたんですね?」

「はい。まあ、雫さんにはお世話になってますから」


 クロスルビアという世界から召喚してもらった恩がある。

 それを考えれば、手足の一本や二本治すことなど容易いことだろう。

 一輝は軽く頭を下げた。


「臥龍岡一輝さん。あなたにお願いがあるんです」


 澪が一輝の顔を見つめる。

 声はか細いが、真剣だった。


「どうか、娘たちの面倒を見て貰えないでしょうか……?」

「お母さん!? 何言ってるの!」


 雫が一輝と澪の間に割ってい入るように声を荒らげる。

 しかし、澪はお構いなしに話を進めて行く。


「臥龍岡一輝さん。私はもう長くありません。同情を誘うようで卑怯だとは思いますが、どうか私のお願いを聞いて貰えないでしょうか」


 澪の唇が震え、目には涙が溜まり、真摯な訴えであった。

 確かに、一輝ならば三人の面倒を見ることは可能かもしれない。

 だが、大事な愛娘を赤の他人である一輝に任せていいわけがないだろう。

 一輝は分別のある大人として答えた。


「星乃さん。流石にそのお願いは聞けませんよ。確かに私は彼女の使い魔ではありますが保護者にはなれません」

「そこをなんとか……。お金なら私が死んだ時の保険から出してもいいですから」

「お母さん! なんてこと言うの! やめてよ……」


 雫は我慢できなかった。

 一輝に懇願している姿も、生きるのを諦めている様子も、雫には受け入れられなかった。

 涙が溢れ出し、止まらない雫は懸命に袖で拭うが決壊したダムのように涙は止まらない。


「星乃さん……」


 今更ながら一輝はどのようにしてガンの治療に持って行こうかと非常に頭を悩ませる。

 最初は気楽な気持ちで来たのに、今はかなり気まずい。

 さくっと魔法でガンを治して撤退すべきかと悩んでいると頭の中に、ふわりと、しかしはっきりとした声が響いた。


〈待つニャ! ご主人様!〉


 言葉は音声ではなく、直接脳内へ届く。

 驚きで一輝は動きを止める。


〈ど、どうした!? オモチ〉


 オモチがベッドの脇の椅子にちょこんと座り、スマホの画面を夢中で見つめていた。

 目は真剣そのものだが、可愛らしいしぐさは変わらない。


〈ここで治すのは——良くないニャ〉


 またもや、直接届く言葉。

 今度は一輝の心に、ほんの少しだけ重みを持って押し寄せる。


〈どういうことだ? 治した方がよくないか? というか、この空気に耐えられそうにない〉


 オモチはスマホを脇に置き、じっと一輝を見上げる。


〈きっと、ご主人様なら治せるニャ。だが、それをしたら雫達は一生、俺我が輩たちに頼るようになるかもしれないニャ! 今は人助けに思えても、長い目で見れば彼女たちの自立を奪うことになりかねないニャ!〉


 一輝の胸に、何か冷たいものが落ちるような感覚があった。

 オモチの声はけして強圧的ではない。

 だが、その言葉には、彼が幾星霜を共に過ごしてきた相棒としての観察と、慎重さがにじんでいた。


〈お、おう。いつになく真剣だな……〉


 一輝が半ば冗談のように訊ねると、オモチは得意げに尻尾を振った。


〈我が輩はこう見えて色々と学んだニャ。ご主人様が力で全部片付けてしまうタイプだってこともニャ!〉

〈うるさいわ。それで、この状況をどうするんだ?〉


 一輝の声はいつになく真剣だった。

 オモチはスマホに手を伸ばし、画面の海をもう一度滑らせるようにして、小さく息を吐いた。


〈ここは我が輩に任せるニャ!!!〉


 そう言うと、オモチは椅子から飛び降りた。

 病室の一同は沈黙の中で、次の瞬間を待つ。


「ご主人様のご主人様! 残念だけどご主人様の力じゃ病気は治せないニャ!」


 オモチは雫に向かって残酷な事実を告げる。


「え……? で、でも、まだ試してないだけで」

「試すまでもないニャ。さっきスマホで調べたけど、ステージ4のガンは広範囲に広がっていることを差すと書いてあったニャ。ご主人様は治すことは出来てもガンを取り除くことは出来ないニャ」

「そ、そんな……! じゃあ、どうしたら……」

「ご主人様のご主人様。まだ手はあるニャ」

「ほ、ホント!?」

「ご主人様のご主人様が最初に言っていたはずニャ。霊薬を取ってくれば治せるって」

「あ……。で、でも、霊薬は希少だから入手するのは難しいかも」


 そう言いながら雫は一輝の顔を見る。

 彼女の瞳はどこか淡い期待を抱いていた。

 恐らく、雫は一輝がいるならばと考えているのだろう。


「ご主人様のご主人様! 考えていることはお見通しニャ! ご主人様の力があれば霊薬なんて簡単に手に入ると思っているニャ!」

「え! ど、どうして、それを!」

「目を見れば丸分かりニャ! それでいいのかニャ! 何もかもご主人様に任せても! 自分で考えず、他人任せで! ご主人様のご主人様はそんな人生でいいのかニャ!?」

「で、でも……! 私は……!」


 雫は胸元で拳をぎゅっと握りしめた。

 心のどこかで、一輝ならどうにかしてくれる。

 そう思っていた自分を否定された気がして、言葉が続かない。


「雫……」


 一輝は複雑な顔をして彼女の名を呼ぶ。


「ご主人様!」


 オモチは一輝に向き直り、声を荒らげた。


「我が輩は長い間、ご主人様と一緒に戦ってきたニャ! 力に甘えた奴は、最後には必ず堕落するニャ! それを何度も見てきたニャ!」

「……」


 一輝は拳を握り、視線を落とす。

 確かに、オモチの言うとおりだった。

 クロスルビアで戦っていた頃も、自分の力に縋る者は多かった。

 そして、結末は決まって惨めな破滅だった。


「雫」


 一輝は顔を上げ、真剣な眼差しで少女を見据えた。


「俺に頼りたい気持ちは分かる。でもな……俺がいなくなったらどうする? その時、君たちはまた絶望に沈むんだぞ」

「い、なくなる……?」


 雫の唇が震える。


「俺は召喚獣だ。いつかは契約が解ける時が来るかもしれない。その時のために……君たちは、自分の足で立って、自分の手で掴む力を持たなきゃいけないんだ」

「……っ!」


 雫の目に、熱い涙が浮かんだ。

 母を救いたい。姉を支えたい。妹を守りたい。


 その願いのために、どれだけ辛くても踏ん張ってきた。

 だけど、心の底では強すぎる存在に甘えてしまいたい気持ちがあった。


「霊薬は、君たちが掴み取るんだ。俺はそのサポートをする。もちろん、全力でな」


 一輝の声は重く、けれど温かかった。


「……私が……掴み取る……」


 雫は両目から大粒の涙を零しながらも、力強く頷いた。


「分かりました。一輝さん……オモチちゃん……。私、逃げません。お母さんを、私の力で救います!」

「それでいいニャ!」


 オモチがにやりと牙を覗かせて笑った。

 病室に静かな決意の空気が満ちる。

 澪はそんな三人を見守り、力なく微笑んだ。


「雫……」

「お母さん。私、頑張るから! だから、お母さんも諦めないで!」

「……わかったわ。もう少しだけお母さんも頑張ってみるね」


 雫は母の手を握りしめ、声を震わせながらも誓った。


「待っててね、お母さん。必ず霊薬を手に入れて、治してみせるから!」

「雫、私も手伝うわ」

「お姉ちゃん。ありがとう。頼りにしてるね!」

「お姉ちゃん! 私も、私も頑張る!」

「うん。望海も一緒に頑張ろうね!」

「うん!」


 病室に響く三姉妹の声は、どこかぎこちなくも力強い。

 重苦しい空気を押しのけるように、未来へ向けた希望の響きが広がっていく。


 オモチはベッド脇でちょこんと座り、小さく尻尾を揺らしていた。


「……いい家族ニャ。見てると胸が温かくなるニャ」

「どういう立場だよ……。全く」


 その声はいつもの軽口ではなく、ほんのり柔らかかった。

 一輝は窓の外へ視線を向けてから、家族の輪に目を戻す。

 手を取り合い、涙を拭い合い、必死に励まし合う三人の姿に、思わず口元が緩む。


 かつて異世界で、血と戦いの中にあった日々を思えば、あまりにも小さく、あまりにも尊い光景だった。


 オモチがちらりと見上げる。


「ご主人様。少しだけ、幸せを分けてもらった気分ニャ」

「だな。この家族を守るってのも、悪くないかもな」


 二人の声は小さく、三姉妹には届かない。

 けれど、その言葉には確かな決意が込められていた。

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