伍.四日目(四月五日(水))

28.『魂の聲』



 軽い物音がした。音がしたと同時にハル子さんのははっきりめている。後に続くのは完全な静寂。眼がなれた薄闇の中、見上げる天井の輪郭がなぜか動悸を早める。嫌な予感がした。蒲団ふとんの中で一回転して腹這はらばい状態になり、頭上に位置する床の間に置かれた、デジタル時計の蛍光グリーンの数字を読む。午前三時二十五分。まだ陽が昇るには随分と早い時刻だ。


 視界に垂れ下がる髪をげつつ寝床ねどこからい出した。卓子の上に置いていたサテンの白いリボンをつかみ、手早く髪をうなじで一まとめにする。寝乱れた浴衣をまといなおし、上からピンク・モヘアの毛糸で編んだカーディガンを羽織はおろうと、肩に掛けたところで動きは止まった。



「――そうか。そうだったんだ」



 ぽつりと言葉が零ちると同時に、じわじわと実感が湧きあがる。交感神経が冴え渡る。四肢に鳥肌が立つ。


 何らかの予感めいたものがあったのだろうか。いや、そもここ数日の間、なんとも云えぬ違和感はあったのだ。それが一体何に由来するものなのか明白にならぬままでいたが、今の物音で、はっきりと悟った。



 を与えられている彼が、? 



 なぜそんな簡単なことに思い至らなかったのか!

 ハル子さんは、ハル子さんらしからぬ、ぎりりとした眼で一旦は着込んだカーディガンの袖から腕を引き抜いた。翌日にまとう予定でいた、青い小花柄を散らしたクリィム色のスモッグと、鼠色のサブリナ・パンツに身を包む。己の迂闊と失態に歯噛はがみする。侮辱ぶじょくを与えられた怒りが湧き上がった。さっきの物音は、恐らく空耳ではなかったのだ。音を発した主であろうと予測される者の顔を思い、腸が煮えくり返る思いを味わう。


 ふすまをすらりと引いた。



「うひゃあ!」



 その頓狂とんきょうな叫びごえを上げて万歳よろしくかかげられた腕と共に尻餅をついたのは、当のハル子さんであった。


「――ハル子」


 ふすまの真ン前に立ち尽くしていた人物は、平然とした顔でハル子さんを見下ろしている。ハル子さんはしたたかに打ち付けたはずの腰の痛みも忘れ、茫然ぼうぜんと彼の顔を凝視した。


「うつぼ君。あなた、ずっとここにいたの?」


 こくり、とうつぼ君は首を縦にふった。


 ハル子さんはと音立てる心の臓をなだめつつ、ようよう立ち上がった。今の衝撃で先程までの怒りは沈静化している。何より物音の主が予測された人物とは異なっていたことが重要だ。


「こんな夜中に、一体どうしたの?」

「ハル子こそ、何故こんな時刻に服を着込んでいるんだ?」


 一瞬ハル子さんは舌打ちしたい衝動にられたが、逆にふわりと笑んで見せた。


「そう云うあなただって」


 うつぼ君は、そこで初めて微笑んだ。何処どこ自嘲じちょうの色に満ちた笑みとも見えたが、それに関しては、あえて口をつぐむ。うつぼ君が着ていたのは黒色のジーンパンツと黒のタートルネックセーターだ。バスケットシューズと思しきスニーカーも真ッ黒――いや、少々赤いラインが入っているか――と云う、正しく闇に紛れるための衣装。


「外に出る気なのね?」

「ハル子。僕は一つ気付いたよ」


 つぶやき、うつぼ君は腕を組んだ。己の身体を抱いたのか。


「何に?」

「『魂音族こんいんぞく』のこと」


 伏せた彼の眼の奥に、冷たく沈黙したものが浮かぶ。


「なぜ『魂音族』を『魂音族』と呼ぶのかにさ――そのことを一寸ちょっと考えれば、これほど明白で確実なネーミングはないよ。魂の音――つまり、他人には聞き取れない『たましいこえ』を聞き取りあうからこそ『魂音族』と云うんだ。聲で、『魂音族』は半身を見つけ出すんだ……そうだろう?」




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