27.覚悟



 彼女の小さな胸の中で、心臓が早鐘のように駆ける。真実、彼女はハナブサにメールを出した憶えなどなかった。いや、決して彼にだけは知られてはならなかったのだ。知られたくなかった。現実の自分を認知されたくなかった。生きているのだとすら、感じて欲しくなかったほどなのに……!


 では、一体誰が彼にお見合いのことを知らせたのだろう。


 松ぼっくりちゃんは走りながら大きな絶望感に襲われた。つまりそれは自分が何も知らされていなかったと云うことだ。誰かが自分の名をかたって、勝手にハナブサを〈見合い〉に呼んだということだ。


 いつも自分は、肝心なことから爪弾つまはじきになっている。


 松ぼっくりちゃんは土管どかん屋まで走って戻り、自分に与えられていた左翼二棟最奥の部屋に駆け込んだ。気を静めようと思った次の瞬間、ちゃぶ台に乗せていたノート型パソコンが点滅しているのに気付く。メールが届いているらしい。周囲には自分が書き散らした原稿やらメモが散乱していた。




  『春夏冬国』の長男は高學三年生だそう。……この意味、わかるよね?

                             H。



 松ぼっくりちゃんは悲鳴を飲み込み、小さく溜息を吐いた。

 全てに合点がいった。


(将来の夢はなんですか)


 ふと、記憶の底からその言葉が浮上し、その時になって松ぼっくりちゃんは、はじめて自分がまだオオイヌノフグリを手にしていたことに気付いた。


「――……やだ」


 胸の中で、茫漠ぼうようとしていた何かが、少しずつ、まるでN極とS極に引かれてでもいるかのように、明確に分離してゆく。


 物語を書いてゆきたい。作家になれるものならばなりたい。それは本心だった。しかしそれは同時に忌避し続けてきた夢でもあった。沢山の物語。夢。激昂げっこう。それから――恐れ。


 松ぼっくりちゃんの底には相反する願いがたゆたっている。それは普段茫洋゛うようとした人格を形作っているのに、意識の表層に顔を出したその心は矛盾だらけで、どう考えても複数存在としか思えぬほどのものなのだ。


 幼いころ本が好きになったのは、同年代の子供達とは一切言葉が通じなかったから。そして作家を志したのは、自分の手が届くところにある、この本と云う存在が商売になりうると聞いたから。


 画用紙を切り取り、色鉛筆で色彩をほどこして表紙を作った。危ないからとステープラーの使用すらゆるされなかったころは、仕方なしにセロファン・テープで何枚かの紙をくっつけて本を作った。その作業の全てがどうしようもなく楽しかった。


 そんな心に一抹の恐怖を吹き込んだのは、その本を形成する「紙」が、樹木を殺して作られるという事実だった。


 物語を紡ぐたび、どうしようもなく祖父の残した言葉が心に浮かぶ。若くして死んだ母方の祖父は、樹木を――特に桜を――特別なものだと云っていたそうだ。松ぼっくりちゃんも植物を愛している。だから、考えれば考えるほど身動きが取れなくなった。大量に樹を切って本を生産するのが作家と云う職業ならば、それをこころざすことが愛する樹木達に対する背信になる。本邦は世界最大の書籍消費国である。これこそ、この島国が抱え込む最大の矛盾であり、松ぼっくりちゃんの抱える矛盾なのだった。


 ディスプレイが生々しく光る。


 実際の行動には移さず、夢をただの夢として語り、放置しておく限りならば樹木を殺すこともない。その夢を、全く見も知らぬ他人と語り合うことができる。それが匿名で実現するのは、このパソコンの中だけだった。


(彼が――ハナブサ)


 彼は、とあるホームページ上で知り合った、いわゆる文章仲間とも呼ぶべき「同士」だった。ただの文字のやり取りの中、特に彼に近しいものを感じた。書いた物語を添付ファイルで送ったこともある。とても楽しく読めたと云う感想をくれた。


 その時、つい書いてしまったのだ。「作家になりたい」と。


 あれは本心ではあったけれど、本心の一部でしかなかった。松ぼっくりちゃんの真実は、それと相反するものとが一つになって初めて本物だったのに。

 まだ、恐れが胸の内に残っている。

 でも、ただ一つわかること。それは、他者の思惑は結局自分の心には何の関係もないと云うことだ。


(覚悟を――)



 覚悟を決めなければならないと云うことだった。




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