27.覚悟
彼女の小さな胸の中で、心臓が早鐘のように駆ける。真実、彼女はハナブサにメールを出した憶えなどなかった。いや、決して彼にだけは知られてはならなかったのだ。知られたくなかった。現実の自分を認知されたくなかった。生きているのだとすら、感じて欲しくなかったほどなのに……!
では、一体誰が彼にお見合いのことを知らせたのだろう。
松ぼっくりちゃんは走りながら大きな絶望感に襲われた。つまりそれは自分が何も知らされていなかったと云うことだ。誰かが自分の名を
いつも自分は、肝心なことから
松ぼっくりちゃんは
『春夏冬国』の長男は高學三年生だそう。……この意味、わかるよね?
H。
松ぼっくりちゃんは悲鳴を飲み込み、小さく溜息を吐いた。
全てに合点がいった。
(将来の夢はなんですか)
ふと、記憶の底からその言葉が浮上し、その時になって松ぼっくりちゃんは、はじめて自分がまだオオイヌノフグリを手にしていたことに気付いた。
「――……やだ」
胸の中で、
物語を書いてゆきたい。作家になれるものならばなりたい。それは本心だった。しかしそれは同時に忌避し続けてきた夢でもあった。沢山の物語。夢。
松ぼっくりちゃんの底には相反する願いがたゆたっている。それは普段
幼いころ本が好きになったのは、同年代の子供達とは一切言葉が通じなかったから。そして作家を志したのは、自分の手が届くところにある、この本と云う存在が商売になりうると聞いたから。
画用紙を切り取り、色鉛筆で色彩を
そんな心に一抹の恐怖を吹き込んだのは、その本を形成する「紙」が、樹木を殺して作られるという事実だった。
物語を紡ぐたび、どうしようもなく祖父の残した言葉が心に浮かぶ。若くして死んだ母方の祖父は、樹木を――特に桜を――特別なものだと云っていたそうだ。松ぼっくりちゃんも植物を愛している。だから、考えれば考えるほど身動きが取れなくなった。大量に樹を切って本を生産するのが作家と云う職業ならば、それを
ディスプレイが生々しく光る。
実際の行動には移さず、夢をただの夢として語り、放置しておく限りならば樹木を殺すこともない。その夢を、全く見も知らぬ他人と語り合うことができる。それが匿名で実現するのは、このパソコンの中だけだった。
(彼が――ハナブサ)
彼は、とあるホームページ上で知り合った、いわゆる文章仲間とも呼ぶべき「同士」だった。ただの文字のやり取りの中、特に彼に近しいものを感じた。書いた物語を添付ファイルで送ったこともある。とても楽しく読めたと云う感想をくれた。
その時、つい書いてしまったのだ。「作家になりたい」と。
あれは本心ではあったけれど、本心の一部でしかなかった。松ぼっくりちゃんの真実は、それと相反するものとが一つになって初めて本物だったのに。
まだ、恐れが胸の内に残っている。
でも、ただ一つわかること。それは、他者の思惑は結局自分の心には何の関係もないと云うことだ。
(覚悟を――)
覚悟を決めなければならないと云うことだった。
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