26.『ハナブサ・ナル』


          *


珸瑶瑁ごようまい先生」


 名を呼ばれて、珸瑶瑁先生はついと顔を持ち上げた。そこにいたのは――、


歌枕うたまくらさん?」


 歌枕さんは、にこ、と微笑んだ。


「珸瑶瑁先生は、どちらかにおいでに?」

「はい。お約束をしていますので」


 事実、珸瑶瑁先生には松ぼっくりちゃんとの待ち合わせと云う約束があった。今、珸瑶瑁先生と歌枕さんがいるのは土管どかん屋の玄関である。昼過ぎた玄関は南東向きのため、一日のうち最も明るい時刻を迎えていた。明る過ぎる空間は全ての印象を薄弱にし、二人は互いの顔をはっきり見とめていると感じられない。


「珸瑶瑁先生は、何故この〈お見合い〉にいらっしゃったのですか?」

「――と、仰いますと?」

「何か、お考えをお持ちでいらっしゃいますでしょう」


 珸瑶瑁先生の薄水色したひとみが、ふわりと柔らかく細められる。


「さあ」


 歌枕さんは目蓋を伏せ、一歩珸瑶瑁先生に近付いた。


「わたくしも、云われるまで気付きませんでした。


 つ、と持ち上げられた歌枕さんの指は、すいと珸瑶瑁先生の睛を指した。珸瑶瑁先生の睛が、それまでとは異なった意味で細められる。


「先生は、の幸福を望んでいる。ただそれだけに過ぎないのでしょう?」

「それが貴女に何か関係あるとでも?」

「あの方も、珸瑶瑁先生の幸福だけを願っているとしたら?」

「私は今でも十二分に幸福ですよ」


 二人の間に沈黙が落ちる。突然玄関が暗くなった。珸瑶瑁先生の顔面に浮かぶ、微細な表情の影が生々しいほど明らかになり、歌枕さんは息を呑む。突然の暗転は、どうやら太陽に雲が掛かったせいらしい。しかしすぐに先程までの明るさが蘇えり、二人の顔もまた、曖昧あいまいさを取り戻した。


 歌枕さんは、溜息をいた。


「絆と云うのは――おそらく眼に見えるものではないのでしょうね」


 歌枕うたまくらさんのつぶやきに、珸瑶瑁先生は眼を丸くし、ついで「ふふ」と笑った。


珸瑶瑁ごようまい先生?」

「その言葉を聞かされるのは、ここにきてから二度目です」


          *


 松ぼっくりちゃんは、静かにオオイヌノフグリを指先で摘み取っていた。青と白の花は、彼女の小指の爪先ぐらいの大きさしかない。オオイヌノフグリの形は、瑠璃唐草ネモフィラによく似ている。英名ベイビー・ブルー・アイズの瑠璃唐草は、松ぼっくりちゃんの誕生花だった。


 母が野に咲くオオイヌノフグリを摘み、「これが小さなあなたの花よ」と云ったこと。それが、人生最初の記憶だった。しかし母も父もそのことを信じてはくれない。なぜなら、母が松ぼっくりちゃんにオオイヌノフグリを摘んで見せたのは、松ぼっくりちゃんがまだ一つにもならない時分のことだったからだ。


 物語を書き出した動機は、信じてもらえない、聞いてもらえない言葉を吐き出すためだった。それはまた、話してはならないことでもあった。沈黙はよどみとなり、それが行き場を求めて紙の上に踊り出たと云うのが本当のところだったのだろう。


 松ぼっくりちゃんは、しあわせな心地で人を待つ。


 珸瑶瑁ごようまい先生は、そんな彼女の本音を好きだと云ってくれた。それが本当に嬉しかった。松ぼっくりちゃんは、本当は気付いていたのだ。書くだけでは満たされない思いに。書いたものを実際に読んでもらうことで、やっと人間は個人として世界と繋がる。その作業を押し込め続けていた彼女は、これまでずっとえてきたのだ。


「こんにちは」


 背後から優しいこえがかけられた。待ち焦がれていた松ぼっくりちゃんは、極上の笑みを浮かべてふり返る。しかし、それは即座に凍りついた。そこに現れたのは、待ち受けていた珸瑶瑁ごようまい先生ではなかったのだ。


 それは、立破りっぱさんだった。


 困惑した松ぼっくりちゃんは、どうふるまって良いのか判断がつかず、唇を引き結ぶ。そんな松ぼっくりちゃんをしばし見つめてから、立破さんは黙って松ぼっくりちゃんの隣に腰を下ろした。二人の間には、ほんの少しだけ間が開いていたが、松ぼっくりちゃんにとってすれば、それは物の数に入らない。緊張が泡のように生まれ、松ぼっくりちゃんはそっと地面に手を触れた。


「松ぼっくりちゃんは、お話を書くって云ってたね」

「――はい」

「どんな話を書くのかな?」

「色々、です」


 立破さんは苦笑した。


「そんなに硬くならなくたっていいじゃないか。お互い全く知らぬ仲ではないのに」

「――え」

「きっとオレは、今ここにいる他の候補の誰よりも、君の心を理解しているよ」


 驚いて顔を上げた松ぼっくりちゃんに、立破さんは真剣な眼差しを注いでいた。


「オレは『ナル』だよ。『ハナブサ・ナル』だ」


 松ぼっくりちゃんは形相を変えて立ち上がった。


「どうして……」

「どうしてって、君がオレにメールをくれたんじゃないか。〈お見合い〉がまにまに王國であると。君がそうだったんだね? だからオレにメールを――」

「知らない。私はハナブサにメールなんか出してない!」


 松ぼっくりちゃんは甲高く叫び、全力で駆け出した。背後から呼び止める立破さんのこえを無視して駆ける。ともかく逃げることしか脳裏になかった。




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