26.『ハナブサ・ナル』
*
「
名を呼ばれて、珸瑶瑁先生はついと顔を持ち上げた。そこにいたのは――、
「
歌枕さんは、にこ、と微笑んだ。
「珸瑶瑁先生は、どちらかにおいでに?」
「はい。お約束をしていますので」
事実、珸瑶瑁先生には松ぼっくりちゃんとの待ち合わせと云う約束があった。今、珸瑶瑁先生と歌枕さんがいるのは
「珸瑶瑁先生は、何故この〈お見合い〉にいらっしゃったのですか?」
「――と、仰いますと?」
「何か、お考えをお持ちでいらっしゃいますでしょう」
珸瑶瑁先生の薄水色した
「さあ」
歌枕さんは目蓋を伏せ、一歩珸瑶瑁先生に近付いた。
「わたくしも、云われるまで気付きませんでした。本当にそっくりですね」
つ、と持ち上げられた歌枕さんの指は、すいと珸瑶瑁先生の睛を指した。珸瑶瑁先生の睛が、それまでとは異なった意味で細められる。
「先生は、あの方の幸福を望んでいる。ただそれだけに過ぎないのでしょう?」
「それが貴女に何か関係あるとでも?」
「あの方も、珸瑶瑁先生の幸福だけを願っているとしたら?」
「私は今でも十二分に幸福ですよ」
二人の間に沈黙が落ちる。突然玄関が暗くなった。珸瑶瑁先生の顔面に浮かぶ、微細な表情の影が生々しいほど明らかになり、歌枕さんは息を呑む。突然の暗転は、どうやら太陽に雲が掛かったせいらしい。しかしすぐに先程までの明るさが蘇えり、二人の顔もまた、
歌枕さんは、溜息を
「絆と云うのは――おそらく眼に見えるものではないのでしょうね」
「
「その言葉を聞かされるのは、ここにきてから二度目です」
*
松ぼっくりちゃんは、静かにオオイヌノフグリを指先で摘み取っていた。青と白の花は、彼女の小指の爪先ぐらいの大きさしかない。オオイヌノフグリの形は、
母が野に咲くオオイヌノフグリを摘み、「これが小さなあなたの花よ」と云ったこと。それが、人生最初の記憶だった。しかし母も父もそのことを信じてはくれない。なぜなら、母が松ぼっくりちゃんにオオイヌノフグリを摘んで見せたのは、松ぼっくりちゃんがまだ一つにもならない時分のことだったからだ。
物語を書き出した動機は、信じてもらえない、聞いてもらえない言葉を吐き出すためだった。それはまた、話してはならないことでもあった。沈黙は
松ぼっくりちゃんは、
「こんにちは」
背後から優しい
それは、
困惑した松ぼっくりちゃんは、どうふるまって良いのか判断がつかず、唇を引き結ぶ。そんな松ぼっくりちゃんをしばし見つめてから、立破さんは黙って松ぼっくりちゃんの隣に腰を下ろした。二人の間には、ほんの少しだけ間が開いていたが、松ぼっくりちゃんにとってすれば、それは物の数に入らない。緊張が泡のように生まれ、松ぼっくりちゃんはそっと地面に手を触れた。
「松ぼっくりちゃんは、お話を書くって云ってたね」
「――はい」
「どんな話を書くのかな?」
「色々、です」
立破さんは苦笑した。
「そんなに硬くならなくたっていいじゃないか。お互い全く知らぬ仲ではないのに」
「――え」
「きっとオレは、今ここにいる他の候補の誰よりも、君の心を理解しているよ」
驚いて顔を上げた松ぼっくりちゃんに、立破さんは真剣な眼差しを注いでいた。
「オレは『ナル』だよ。『ハナブサ・ナル』だ」
松ぼっくりちゃんは形相を変えて立ち上がった。
「どうして……」
「どうしてって、君がオレにメールをくれたんじゃないか。〈お見合い〉がまにまに王國であると。君がそうだったんだね? だからオレにメールを――」
「知らない。私はハナブサにメールなんか出してない!」
松ぼっくりちゃんは甲高く叫び、全力で駆け出した。背後から呼び止める立破さんの
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