25.ハルカさん



 うつぼ君の背中が見えなくなったころ、ハル子さんはようやく立ち上がり、土管どかん屋への帰路を辿たどった。その脚で自室にまで戻り、辺りを一応確認してから、部屋のすぐ横にある非常階段への扉を開いた。


 びお、と風がハル子さんの鼓膜こまくを突き抜く。自身の黒髪で一瞬視界は覆い尽くされた。


「――すごいこと」


 非常階段は急勾配で下っている。こんなところから、よく歌枕うたまくらさんは夜中に上ってきて、しかも帰っていったものだと、ハル子さんは呆れながら感心した。かんかんとうるさい鉄の板を踏み続けていると、やがて階段は二手に分かれた。右手に折れて地上で終るものと、更に直線で続き地下まで下るものとの二つだ。ハル子さんは迷わず地下に下るほうを選び、薄暗い空間へと身を沈めて行った。


 それは、縦に下る階段付きトンネルのようなものだ。びた手摺てすりを頼りに、一歩一歩確かめながら下りてゆく。それがしばらく続くと、やがて唐突に階段は終り、眼の前に大きな鉄の扉が現れた。銹化しゅうかいちじるしい。赤茶色の浮いた扉は、なぜか把手とっての部分だけ綺麗にみがき上げられていた。人の手が入っている証明である。


 ハル子さんはふところから小壜こびんを取り出した。真鍮しんちゅうの蓋と、青い硝子ガラス球が埋め込まれた真鍮しんちゅうの飾りをいただいた水色の香水壜である。それはハル子さんの掌にすっぽりと納まるサイズで、見た目にも涼しげだった。

 ハル子さんは、やおらびんの蓋を把手とっての下に開いていた穴に差し込んだ。それを右に回すと、しっかりとした手応えがある。180度回した途端がちゃり、と小気味よい音が響き、ぎぎぃと扉は彼方あちら側にすべった。



 闇の中から、じっとりとした湿気と冷気が流れ出る。膚肌はだを這い上がるもののため、一瞬にして鳥肌が立った。それをこらえて、一歩踏み出る。じゃり、と砂とモルタルがれる嫌な音がした。



 ハル子さんの持つ香水壜の中からは、何やら薄青い光がもれ出ている。びんの中身が発光しているのだ。中に入っているのは香水ではない。小さな個体が擦れあっては、しゃらしゃら音を立てている。その極々微量ではあるが、それでも何とか用を成す光源を頼りに、目指す左翼側への扉を探した。


 地下の空間は莫迦ばかのように広い。石造りのアーチ型をした天井は不必要なほど高かった。それがハル子さんの下ってきたトンネルの距離と、これから上らねばならない距離を示している。うんざりしながら、ちらと横に眼をやった。


「うわあ!」


 ハル子さんはらしくもなく大声を上げて腰を抜かしそうになった。


「何もそんなに驚かれなくてもよいでしょうが」


 そこにいたのは、眼玉をぎょろりと大きく見開き、顔中に白いひげたくわえた、背の低い老人であった。


「何をしているんですか先生、こんなところで」

「何をしていると云われても……ここは以前は私の権利場だったのだからなぁ」


 云われて見やると、老人の背後にはハル子さんの目指す扉ではない、別の扉があった。先程ハル子さんが使用した扉とは異なり、ドワーフが使用するかのような小さい扉である。


「ああ――〈庭〉に行ってらっしゃったんですか」

「そうだ。見納めになぁ」


 老人は薄闇の中でもそうと明瞭はっきり知れるほど、にんまり笑ってみせる。ハル子さんはまだどくどくと脈打つ胸を抑えて、大きく溜息を吐いた。


「これが〈庭〉に続く扉なのですね。はじめて見たわ」

「そうか?」

「実は、この地下に下るのもはじめてなんです。暗くてせまくてじめじめしたところって苦手で」

「そうか。儂みたいな人間だと逆に心が休まる。しかしまあ、ハルカさんのように若い方には、やはり広々と開けた世界が似合いだ」



 ――ハルカさん、と老人は云った。

 間違えている。その事実が胸に重かった。



 老人はすっと指を持ち上げる。枯れ木に皮が張りついたような指先で指し示す先に、もう一枚の鉄扉があった。


「ほれ。あちらがあなたに相応ふさわしい世界ですよ、ハルカさん。迷いませんようにね。あれが左翼側への扉です」

「ありがとうございます」


 あえて訂正せずに頭を下げ、ハル子さんはその場を後にしようとしたが、一寸思いとどまって、そっと、ふり返ってみた。老人は、じっと闇の中を見つめている。ハル子さんが下ってくるまで、ずっと闇の底、一人で過ごしていたに違いない。


「先生。まだ表に出られないのですか?」

「うん? うん……」


 応えも、何やら酷く茫としている。


「次のが決まってしまったら、今までのようには、いかなくなるやも知れない。新しい第一利権者は、セイテイ君がゆるしてくれたようには、ここに立ち入ることを赦してくれんかも知れない。もう二度とここに立ち入るなと云われてしまうかも知れない。だから、少しでも惜しみたいんだよ。あの〈庭〉は、欲云々うんぬんを抜きにして、ただ美しく心地好い場所だった。ハルカさんも、あそこを愛していたでしょう?」


 先生から漂い出ているのは、軽やかな愁嘆しゅうたんとでも呼ぶべきものだろうか。ハル子さんは地下空間の奥にあるアーチ型の列柱に視線を向けた。柱の奥には更に広い空間が広がり、そこでは中世欧羅巴ヨーロッパ黴臭かびくささと、地下のひやりとした湿気がい交ぜになって、呪いのようにとどこおっている。



 その主体の正体は、闇だ。



「先生」

「うん?」

「――奥の、に逢いましたか」


 先生はすでに闇に眼が慣れているのだろう。ハル子さんの視線の先を追い、彼女が何を見ているのかを瞬時に悟ったらしく、ちらりと視線を向け、すぅと息を呑んだ。


「いや、逢わん。――逢いに行ったところで、所詮しょせん儂はあの男の眼鏡に適わんらしいからな。こえをかけたって、こっちを向きゃせん」


 闇を吐き出しているのは――男だ。


「――身のほどを知らない男です」


 ハル子さんが呟くと、先生は首を横にふった。


「いや。わかっとるんだ、あの男は。何もかもを。あなたも彼を憎んじゃあ、いけない。仕方なかったのです」


 ハル子さんは答えなかった。先程と同じく香水壜の蓋で扉を開け、二度とふり返らず表へと出た。不愉快であることを否めなかった。


 やはり急勾配の上り階段を這うようにして上がりきり、右翼側と丁度鏡合わせにしたような扉を開けて左翼内に入った。目指す部屋は左翼側参棟さんむねの一番階段に近い部屋だ。とことこと進み、部屋の前へ立つなり、がらりとふすまを開けた。


 部屋の中央にいた二人が驚いて顔を上げる。中にいたのは、歌枕うたまくらさんと鬼打木おにうちぎさんだった。ちなみにここは歌枕さんの部屋である。


「どうしたんだよ、ハル子ちゃん」


 腰を浮かせかけた鬼打木おにうちぎさんに、ハル子さんはぼうとした視線を投げた。


「あなたに用はないのよ鬼打木おにうちぎさん。しばらく外に出ていてくれないかしら」

「……随分な物云いだな」


 鼻白はなじろんだ鬼打木さんだったが、ハル子さんもさらりと「与えられた役目を果す意思のない人、私嫌いよ」と云ってやった。それで鬼打木さんも返す言葉を失ったらしい。黙って静かに部屋の外へ出て行った。そうして、室内には歌枕さんとハル子さんの二人だけになった。

 しばし沈黙が落ちる。嫌な間合いが二人の合間で充満し、歌枕さんが口を開く前に、ハル子さんは急いで「頼みたいことがあるのだけど」と投げるように云った。


「……なんですか」

「貴女、メールの使い方知っているわね」


 今度は歌枕さんが返す言葉を失った。


「――ハル子さま」

「もうそこのところは、わかっているの。隠さなくてもいいわ。そんな必要もないしね。ただ、やりかたを教えてちょうだい。お願い」




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