文体の味わい
文体を味わうのが好きだ。好きな文体をもぎゅもぎゅと咀嚼しているときが何よりも幸せな時間だ。今回はその文体について、実在の作家さんや研究者さんのお名前を出しながら話していくことにする。
職業柄、私はテストやら教材やらでいろんな方の文章を読むことになる。おおよそ二千字からどんなに多くても五千字以内のほんの一部分ずつ。動画の切り抜きのようなものだと感じている。それは長い本編から切り抜かれた、最も面白い、あるいはためになる一部分。
さて、そういう切り抜きには必ず引用元が記載されている。誰の何という作品なのか、最後にはっきりと書かれているのだが、時折、それを見なくともだいたいの予想を立てられることがある。私は別段、一人の作家さんの全作品を制覇せねばいられないような
ついこの間も、なんだか知っている味だな、と思ったら、小川洋子先生の作品だった。小川洋子先生の文体には、手作りのパウンドケーキのような味わいがある。どっしりと重たくて、ナッツやドライフルーツがこれでもかというほど入っていて、あんまり甘くない、素朴なパウンドケーキ。あんまり甘くない、というのがポイントである。甘くないどころか、隠し味のスパイスがぴりっと舌を焼くときすらあって、そこまで含めて癖になるのだ。合わせるのは紅茶でもコーヒーでも緑茶でも、何ら問題なく受け入れてくれる。それぐらい懐が深い。急いで食べると喉に詰まるだろうから、じっくりゆっくり味わうのがいい文体だと思う。
宮部みゆき先生の文体はクレープのように思われる。包むものと包み方によって、手軽なおやつにも豪華なデザートにも、朝ご飯にもディナーにもなりうる幅の広さ。そして何をどう包んでも消えることのないもっちりとした歯ごたえ。思い出す度にどうしても食べたくなる味である。
石田衣良先生の文体は、地元民しか知らないハンバーガーショップのハンバーガーといった風情だ。チェーン店ではない。昼間は学生で賑わい、夜は酒も出してくれる、そういうお店。おそらく、店内のBGMや、調度品のセンスが非常に良いと思う。
森見登美彦先生は駄菓子屋のような香りがする。駄菓子の味は駄菓子にしか出せないと思う。スーパーのお菓子とはまた少し違うし、手作りでは決して再現できない。そういう味だ。べたべたする甘塩っぱいシート状のあれとか、口の中の水分を全部持っていくざくざくした美味しい棒とか、小さなカップに入ったヨーグルト風の何かとか、あたり付きの小さな風船ガムとか。わくわくする気持ちがいっぱいに詰まった色とりどりの駄菓子たちを、満足いくまでいっぺんに食べ尽くしたような、そういう読後感を味わえる。――その一方で、駄菓子屋の奥の壁の薄暗がりには、不気味なお面やらお札やらが掛けられていたりするのである。私はこの方の文体が最高に好きだ。
ジョージ・オーウェル氏やロアルド・ダール氏の作品は、ウィスキーボンボンを彷彿とさせる。対象年齢が上がるほどに酒の度数も上がっていくような感じだが、児童向けであっても一瞬喉を焼かれる感覚があって、それが堪らなく心地よい(慣れない内はトラウマになったりもするけれど)。運転前には摂取厳禁である。特に大人向けの作品は、読み終えたあとにゆっくりと酔いに浸る時間が必要だ。
物語文に比べると確かに、説明文のほうは味気ないと思われるかもしれない。特に生徒らにとっては。けれど説明文には説明文の味わいがあるのである。それはご飯やパンといった主食の味である。河合隼雄先生の文章は食べやすいバタール。外山滋比古先生は健康的な五穀米。日高敏隆先生は炊きたての白米。カチコチのフランスパンのような文体もあれば、子ども向けにハムや卵を挟んだサンドイッチもあるし、玄米もあればおかゆもある。いずれにせよ、噛めば噛むほど味が出てくるような、物語文に負けず劣らずの味わい深い文章ばかりなのである。そして、確かに歯ごたえはあるかもしれないが、物語文よりずっとのみ込みやすい文章ばかりなのである。
文体の味わいを伝えられるほどの指導力を持ち合わせていないことが、ひどく悔やまれる。こんなにも面白くて、美味しくて、楽しいのに。
同時に、私自身の文体がひどく薄味であることを思って、悔しくなる。味わい深さを出すには、まだまだ修業が足りないようだ。
(2025/05/19)
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