文責(文章生成AIに対する持論)
先に言っておくが、私は文章生成AIの存在に強く反対する立場である。この回は文章生成AIについて語ったものであるが、私自身は文章生成AIを使ったことがない。未使用の状態、エアプだ。一度も食べたことのない食べ物、たとえばクサヤとかシュールストレミングとか、そういうものについて『あんなものは食べ物じゃない』と語るようなものである。事前に一度くらい触ってから書こうかと思いはしたが、やめた。一度も触れないでいる己が誇らしかろう、という薄っぺらいプライドがあったことと、万一面白いと感じてしまったらどうしよう、という懸念があったことは素直に認めておく。
夏休みの終わり頃。毎年この時期になると、宿題が終わっていない子供たちが額を集めて、
「あのワーク全部終わった?」
「無理無理。もう答え写す」
などと言い合うのがお約束である。
そこに今年はAIが絡んできたのだった。
「作文さ、AIに書かせたらやっぱバレるかな」
「この間バレて摘発されたやつ、うちの学校にいたよ」
「え、なんでバレたん? AIチェッカーとか使ってるってこと?」
「いや、先生が『お前にこんな作文が書けるわけないだろ』って言いながら連れていった」
「えー。え、先生、そういうのってわかるもんなの?」
そりゃわかるよ、と私。
「初見だったら無理だけど、普段見てる子の作文ならね。絶対に選ばない語彙とか言い回しとか、だいたいわかるもんだよ」
「マジかー。じゃあ駄目か」
「そんなもんに頼るなって話さ。自分で書け、自分で」
「でもさー」
「ていうかアレだね、こんな作文書けるわけないだろ、でAI使ったのバレるの、けっこう屈辱的じゃない?」
「でも実際書けないもん」
「書かないからだろ。これ逆にさ、夏の間にお前らがめちゃくちゃ頑張って、自力で素晴らしい作文書いて提出してさ、先生に逆襲できるんじゃない?」
「……どういうこと?」
「あー、なるほどね!」と話を聞いていたもう一人が先に頷いた。「先生に『AI使っただろ!』って言わせて、『いいえ自力です!』って証明して『残念でしたー』ってやるってことか」
「そうそう」
「それが成功したら、次から先生が追及しにくくなって、AIが使いやすくなるな!」
「ん? ……んー、うん、確かに、そうなるね」
そこまでは考えていなかった。だが確かにそうなるだろう。「いいねぇやるか」と乗り気な一方に対し、もう一方は「それができないから困ってるんだろー」と机に突っ伏す。
「ま、何にせよ自力で頑張りな。AIはテストの場に持ち込めないんだから」
そう言って私は話を終わらせた。どうか君たちが、自分の頭で何かを創り出せる人間になってくれますように、と願いながら。
きっとこの先、文章生成AIを使用する人は増えていくだろう。すでに私の職場にも、メールの文面をAIに生成してもらっている人はいる。ただ私は絶対にそうしないと断言する。時代がどれだけ進もうと、その波に取り残されようと、老害と忌み嫌われることになろうと、絶対に、だ。ロアルド・ダール氏の『あなたに似た人』を構成する一篇を思い出す。あの話の語り手のように困窮していて、サイン一つで楽になれるとわかっていようと。
毛嫌いするのには明確な理由が二つある。
一つは「文責」だ。この単語を知ったのはずいぶん前のことだが、そのときからずっと好きで、これからもずっと愛していきたい言葉の一つである。
さて、こちらは、私自身の弱さに起因していると思ってくれてよい。文責、すなわち書いた文章に対する責任は、AIが書いた場合は誰が持つのだろうか? 無論、完成品を監修して手直してGOサインを出すのは人間だろうから、最後に確認した人物が文責を担うことになるのだろう。だが私は、それができない私のことを容易に想像できる。ビジネスメールにしたってそうだ。仮にAIの書いたメールが原因でトラブルが発生したとしたら、口先では「申し訳ありません」と言いながら、内心では「でもそれ私が書いたんじゃないんだよなぁ、AIが書いた文章であって、確かに最終確認はしたけど、でもさぁ……」とぐちぐち思うに違いないのである。そして頭を下げきれない。まるで秘書がやったと言って逃げる政治家のようで、言葉を選ばずに言うなら非常にダサい。
また、この「文責を担えない」「謝罪できない」ということは、反対のことも意味している。つまり喜べないということだ。仮にAIが作成して私が監修した文章が世間の評価を得たとして、その功績は誰のものになるのだろう? 少なくとも私は確実に「でもこれ私が書いたんじゃないんだよなぁ」と考えて、心から喜ぶ、ということはできないに違いない。
だから私は自分でメールを打つ。どれだけ言いにくくてしんどい案件だろうと、自分の頭で表現を考えて試行錯誤する。そして、万一誤解させてしまったときにきちんと謝れるように――正しく伝わったときに心から喜べるように――責任を負う。かっこつけて自分に酔っているのだと捉えてくれて構わない。酔わなければ仕事などできないだろう?
もう一つの理由はもっと単純で、「楽しいから」だ。文章を書くのが楽しい。苦しみながら言葉を選び、悩みながら物語を考えるのが好きだからだ。この、苦しみを伴う一連の営みを愛しているからだ。好きなことをどうして誰かにやらせなければならない? チートツールを使ってやる対人戦ゲームがつまらないのと同じだ(けれどあらゆるゲームからチーターがいなくならないのと同じことが起きるのだろう、とは思っている)。
後者の理由のほうが私にとっては重要で、この気持ちがある限り文章生成AIに頼る日は来ないだろう。そういうわけで、たいへん申し訳ないが、文章生成AIたちよ、君たちは私には必要のない技術だ。どうか文章を書くのが苦手で嫌いだという人の役に立ってあげてくれ。
もちろん、文章生成以外のAIにはお世話になることもあるだろう、というか、おそらく知らないうちにお世話になってしまっているのではないだろうか。今や何がAIで何がAIでないか、どこにAIが使われているのか、見分けるのも一苦労だ。けれど創作物に関しては、文章だけでなく音楽や絵も含め、人が責任を持って作り上げた作品たちを愛したい。宿題の作文も、どれだけ下手でも自力で書き上げたものを愛そう。
創作とはAIではなく愛だ、なんて陳腐な言い回しで締めるのはこの上なくダサいが、これが人間の限界ということで。
(2025/08/31)
ある塾講師の述懐 井ノ下功 @inosita-kou
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