第13話 コーギー室長のお悩み解決 ~描ける少女と黒猫の約束~

「―――今日は朝なんだね」


 相談帖に記録を取っていた時、真鍮のドアベルが軽やかな音を響かせた。

 ふわりと吹き込んだ空気と一緒に嗅いだ覚えのある臭いを鼻に感じ、僕は自分の口元が綻ぶのを感じた。


「おや、ここに自分の意思で三度もやってきたのは君が初めてだよ。みち、制服姿の君もとても素敵だね」


「そうなの? だったら光栄だな」


 出会った時とは違う、晴れやかな笑顔を浮かべたセーラー服姿の少女は、前回彼女が座った椅子の横に真っ直ぐ歩いてきて立ち止まった。どうぞと僕が座るように促すも、しかし笑顔のままで首を横に振る。


 椅子の横に立つ彼女の細い足に、椅子から伸びた薄い影が生き物の形となって寄り添った。

 勿論、当の彼女は気付いていない。


「今日はどうしたのかな」


 相談帖を閉じながら、にこにこと嬉しそうに笑う少女に問いかければ、「わかってる癖に」と少し頬を膨らませて言われてしまう。

 確かに彼女が訪れた理由は理解していたが、それでも『ここ』にわざわざ報告にやってきてくれた人間は初めてだったので、実のところ驚いていた。


 だからこそ、たった今まで『先客』と話し記録を取っていたのだから。


 何しろここは夢の世界。夢の砦。

 誰しもが思い描き、そして滅多に辿り着くことの出来無い狭間の空間なのだから。


 ……ああ僕は、自身で思うより彼女を気に入っているのかもしれないな。


「今日はお礼をね、言いに来たの」


「お礼?」


「そう」


 懐かしい人に似た魂の気配を持つ少女は、すっと背筋を伸ばし、大人びた仕草で僕に向かって綺麗に礼を取った。肩で切りそろえられた彼女の髪が下がり、朝日にさらされまるで鋼のように輝いている。

 黒い髪が見事な黒銀に染まる瞬間を、この目にしたのはかつて共に過ごした少女と別れて以来だろう。

 僕は同じ光を放つ少女の眩しさに目を細めた。


「……私の悩みを解決してくれてありがとう。コーギー室長。……昨日ね、池村先生が私のところに謝りに来てくれたんだ。とんでもないことして悪かったって。理由も話してくれた。おかげで、私また描けるようになったんだよ」


 僕に頭を下げたまま、凜とした声で彼女が言った。

 古い室内に響いた声は、さながら聖者が集う鐘の音のように澄んでいる。


「礼には及ばない。それが僕の仕事だからね。ただ……依頼人がその言葉を聞いたら、きっと大いに喜ぶだろう」


「依頼人?」


「ああ……さあ、もう結構だよ君。残された時間は少ないが、彼女と別れの挨拶を交わすといい」


 僕の合図に次いで、少女、五十嵐みちの足下にあった影がするすると上に伸び、朝の白い光の中で黒くはっきりとした存在を象っていく。

 みちはその光景を驚きの表情でじっと見つめていたが、やがて浮き上がった『彼』の存在を目にして大きな瞳に涙の雫を煌めかせた。


「う、そ……」


 驚愕よりも感動の色が濃い声が彼女の唇から漏れる。

 真白い朝日が当たる絨毯の上、セーラー服を着た清楚な少女の前には一匹のしなやかな黒猫が出現していた。


「にゃあん」


「ヤト……っ!」


 少女が黒猫に向かって手を伸ばす。

 そこには恐れなど無く、ただ懐かしさと深い愛情が見て取れた。


 彼の名はヤト。

 五十嵐みちが今よりもっと幼い頃に共に過ごして居た友人であり、家族だ。

 元々野良であった彼は、みちの元に迎えられた時には既に病に冒されていた。

 しかしそれでも、彼女は母親の反対を押し切り彼と時を過ごし、その最後を看取ったのである。

言うべくもないことだ。


 我々動物は、大抵が飼い主とされる人間よりも先に人生の終わりを迎える。

 けれど決して、飼い主達(彼ら)の事を忘れるわけではない。

 人と同じように感情を持つ私達は、大切にしてくれた友人、そして家族の思い出を胸に抱いたまま、次の転生で巡り会う夢の旅に出るのだ。


 五十嵐みちの猫、五十嵐ヤトもそういった存在のひとつ。


 ただ彼の場合は自らの死後、飼い主が抱えてしまった問題を見過ごす事が出来ず、生まれ変わりが遅れるのと引き換えにこの狭間の世界、下界の夢の世界へと降り立ち私に依頼した。


 たとえ再び相まみえる事ができなくとも、彼女の大事を解決してやりたいと。


 僕達動物は生きている。

 そして感情を持っている。


 大切にしてくれた人間を、大切にしたいと思い、それ故に幸せであってほしいと願うのだ。

 短命であるからこそ、先に逝ってしまう事で悲しみを感じさせるからこそ、僕達は神の御遣いにすらなれるのである。


「ヤトだ……! まさか、また会えるなんて……ずっと、会いたかった……!」


 みちがヤトの身体を抱き締める。

 それを見て、ほんの少しだけ、僕の胸が懐旧の情に駆られた。しかしそっと心底に押し戻し、目の前の報われた黒猫の為の言葉を紡ぐ。


「元々、君の悩みについての依頼をしてきたのは彼なんだよ、みち」


「ヤトが……?」


 少女は涙に濡れた顔を上げて、胸に抱き締めている黒猫をまじまじと見つめた。

 黒猫は、再びにゃあんと一声鳴いてから、次に僕の方に振り向き、満月の瞳で許可を訴えてくる。


「構わないよ。それについては私が許しを得ている。さあ、話すといい」


 僕が答えると、黒猫ヤトはこくりと頷き、再び愛しい飼い主に向き直った。


「……泣くなよみち。俺、お前が笑ってるとこが好きなんだ。お前が、笑顔で俺を描いてくれてるところが一番大好きなんだよ。たとえ俺がいなくとも、みちが笑ってくれてたら、そしたら俺は嬉しいんだ」


「あ、あ? え、ヤト……っ!? ヤトが、しゃべっ……」


 突然人の言葉を話し出した飼い猫に、みちは大きな瞳をぱちぱちさせて驚いた。

 しかし、胸に抱き締めたままの彼を離しはしない。その光景に、僕の笑みがより深さを増した。


「へへ。すげーだろ? 今なら俺、みちと話が出来るんだ。昔はさ、俺がヒトの言葉を話せなくても、みちはよく俺に話しかけてくれたよな。あれ、実はすっげえ嬉しかったんだぜ? 初めて会った時も、俺に「迷子なの?」って言ってくれたよな、みち」


「お、おぼえてたの……?」


「そりゃおぼえてたさ。だって野良猫の俺に迷子って……ははっ、あれは面白かったなぁ」


 戸惑っていたみちは、黒猫のふった話題にぱっと表情を輝かせ、それは嬉しそうな顔をした。

 見ていれば分かる。彼女も、彼と同じく出会った時をずっと覚えていたのだと。


 そんな飼い主の反応に、ヤトはつんと尖った鼻先を上に向け、得意げにしていた。


「俺ちゃーんと覚えてるぜ。みちが俺に言ってくれた話も、言葉も、ぜーんぶ。それに……俺の最後の時も、ずっと傍にいてくれたこと、ちゃんとわかってた。ありがとうな、みち。俺の事拾ってくれて。俺と……一緒にいてくれて」


「ヤト、ヤト、私だよ、それ言いたいの、私の方だよっ。ヤトが居てくれたから、私寂しくなかった。お母さんが仕事でいなくても、一人じゃないって思えたの……!」


 自分を抱き締め泣きながら顔を寄せる少女に、ヤトはごろごろ喉を鳴らしながらそれは嬉しそうに、幸せそうに瞳を糸のようにして頬ずりをする。

 猫特有のふくふくとした彼の口元は、彼の機嫌を現わすように笑みの形を深めていた。

 桜色の肉球がついた手が、みちの頭を優しくぽんぽん叩いている。

 そうしながら、ヤトは黒く艶やかな顔を僕に向けた。


「……ありがとよ室長。まさか、みちとこうして話ができると思わなかった。これって禁止されてる筈だよな? 大丈夫なのか?」


 今はもう気の優しくなった元野良猫が、そんな事を言ってくれる。


 昔はその日暮らしで他者を気にする余裕など無かっただろうに、きっと彼女と過ごしたおかげで身体同様丸くなったのだろう。

 今の彼の姿は、亡くなる直前ではなく恐らく一番元気な頃、彼女と楽しく過ごしていた一番幸福だった頃のものであろう。

 黒猫の毛並みは飼い主の黒髪同様美しく朝日に輝いていた。


「かまわないさ。私は少々上と繋がりがあってね。気にするな」


「そうか」


我が上司である犬のサラブレッド殿にはまたお小言を喰らうだろうが、些細な事だ。

何より、こんなにも幸福な光景が見えるのなら、喜んで引き受けよう。


僕がそう答えれば、黒猫は満足げに頷き、それからそっと愛しい飼い主から身を離した。

束の間、彼の顔に名残惜しさが浮かんだが、ぱっと笑顔でそれが掻き消える。


「ヤト?」


「みち。俺そろそろ時間なんだ。ここは夢の世界だからな。お前も起きないと、学校遅刻しちまうぞ」


「お別れってこと……?」


「ああ。元々、俺はもういないやつだからな。こうしてみちに会えたのがレイガイなんだ。でも嬉しかった。こうしてみちと話せて。俺、みちに会えてしあわせだ。しあわせ、だったよ」


小さな猫の手が少女の肩をぽんと押す。


それが合図だと悟ったみちは彼を抱いていた腕を緩め、愛しい黒猫を離した。


きっと彼女は知っているのだ。彼を引き留めてはいけないことを。

だからこそ、黒猫は彼女のその親愛に答えたのだろう。


「……私も。ヤトといられて幸せだったよ。もっといっぱい、色んな事してあげたかったけど、何もできなくてごめんね」


「何いってんだ。十分だよ。まったく、みちのそのちょっと自信ないとこは変わんねえなあ。俺なんて自分のことめちゃ格好良い黒猫だって思ってるぜ? だってみちが描いてくれた俺のギジンカ、すっげえイケメンなんだろ?」


「え、あ……あはははっ。ほんとだ。ほんとだね。だってヤト格好良いもん」


「みちも綺麗になったんだから自信もて! っとになー、俺がニンゲンだったら、番にしたいくらいだぜ」


「や、ヤト!」


黒猫の軽口に、少女は顔を赤らめて声を上げた。

もしも彼がヒトであったなら、きっとこういう関係になっていただろうと思わせるやりとりは、見ていてなんとも微笑ましいものだった。


「あはは! なんかすっげえ気分いいぜ。なあ室長、木天蓼酒はあるか? 帰りの道中、一杯やりながら行きたくってよ」


 飼い主の少女に合わせてか、二本足で腰に手を当てて黒猫が僕に尋ねる。

 それを見て、みちは目をまん丸くして、吃驚した顔をしていた。


「え、ヤトってお酒飲むの!?」


「そーだぜ。俺、これでも呑兵衛なんだぜみち。つっても、猫の世界の酒だけどな」


「えええ~」


 飼い猫の意外な面を見たみちは、ふふんと得意げな黒猫にくすくす笑った。

 僕は言われたとおり、キッチン下に保管してあった秘蔵の木天蓼酒を取り出し、気の良い黒猫に手渡してやった。

 小さめの酒瓶が、黒く艶やかな猫の胸に抱かれる。


「何から何まで、ありがとよ室長。……ああ、いいなあ。いつかみちと酒が飲みたいなぁ。出来たら今度は、みちみたいな人間になりたいよ。そんで、今度こそ俺がみちを守ってやるんだ」


「ヤト……」


 黒猫の足下に、光が無数の粒となって道を創っていく。


 ひとりでに開いた扉の向こう、夢の世界の遙か彼方へと伸びていくそれは、まるで人の世界に姿を現わす星の河の如く煌めいている。


 黒猫の黒い足が、一歩、一歩と光の河を踏んでいく。


「じゃあなみち。元気に暮らせよ。で、また俺の事、描いてくれよな。約束だぞ!」


「うん……っうん! ヤト!」


 愛しい飼い主が自分の名を呼ぶのを聞いてから、黒猫は笑顔で僕達に背を向けた。


「迷子の迷子の子猫ちゃん……あなたの……♪ おうちはみちのいえ……♪」


 本来の依頼人であった黒猫はそう鼻歌を歌いながら、琥珀色の木天蓼酒を手に、上機嫌で光の河を歩み空へと登っていく。

 軽やかな足取りは別れの辛さを感じさせず、飼い主への心遣いが見て取れた。


 楽しげに、踊りながら還っていく彼の歌声が、僕達の耳に薄く遠くなっていく。


 夢の世界に浮かんだ朝日が、背に羽を生やした黒猫の陽気な影を、湖の湖面に浮かび上がらせていた。

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コーギー室長のお悩み相談帖 國樹田 樹 @kunikida_ituki

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