第3話
「――おい」と呼ばれた。
この声は恋敵である……。
俺は頬をぱしぱし、と叩かれ、目が覚める……
白い光が俺の視界を埋め目を開けるのが厳しかったが、なんとか手で覆いながらゆっくりと目を開ける――。
手だが、手ではなく。
指がないそれは、羽だ。
黒い羽。飛ぶことはできないけれど、海の中を自由自在に動くことができる――海の中であれば、飛ぶことができる。
――そうだ、そうだった、今の俺はペンギンなのだった……
忘れるところだった。
意識は半ば飛んでいたのかもしれない……
過去の記憶に引っ張り込まれて。
過去と今の差に、頭の中がぼーっとしてしまう。
しっかりしろ――俺。
過去から戻ってきたのであれば、そこには理由があるはずだ。
今に集中するべきだ。
今を生きることに、全神経を集中させるべきなのだ。
――ペンギンの体。
慣れていないからこそ、短い時間で色々と試し、感覚を掴むしかない。
できるだけ、人に見つからないように……。
見つかれば、最悪、駆除されてしまうのだから――重く捉えるべきだ。
この状況を、楽観視してはいけない。
とりあえず、狭い通路を抜けた先だ……ここから先は人がいる。
話し声が聞こえているから、そこに『いる』ことは確実だ。
どこに誰がいるのか分からないよりは、声で存在を知らせてくれている分、楽である。
声がする方を注意していればいい……と言いながらも、音もなく近くを通られたら気づきようもないのだが……。
音だけを意識しているのも危ないな――心の準備はしておかなければ。
「さて、音を頼りに人を避けて、どこか、部屋に入れればいいんだけどな……そう上手くことが運ぶわけもないか。客室に入って、利用者のカバンを漁って、使えそうなものを奪っていくことを計画していたんだが――」
「それでいいんじゃないか? 反対はしないぞ? ちょうど、そこに半開きの扉があるし」
え、と恋敵が俺の視線を追う。
そこには……誘われているのでは? と思うような半開きの扉があり――まあ、罠ではないだろう。単純に閉め忘れただけである……たぶん。
ここから先は、運も重要になってくるだろう。
俺と恋敵は人の目を避けながら(幸い、誰もいない)、さささ、と移動して扉の隙間から部屋の中へ入る。
――部屋の中は無人だ。となるとカバンは――と思ったが、目的のカバンはきちんと置いてあった。
カバンを置いたまま半開きにして無人だなんて、不用心な利用者である。
たとえ近くの大広間でやっているイベントに顔を出しているとしても――こうして俺たちが侵入するように、誰かがこっそりと入っていてもおかしくはないのだから……。
でもまあ、貴重品は持ち運んでいるのか。
だから置いてあるのは盗まれてもいいようなものである。
それとも数分もしない内に戻ってくるつもりかもしれない。
トイレとか?
だとしたら、あまりのんびりもしていられない――怠けるのは、やるべきことをしてからだ。
「とりあえずカバンを開けるか。今のところ、発見したのはこれだけだし――」
「そうだね……開けるのはいいけど、気を付けろよ。荒らした形跡が残るのは仕方ないけど、できることなら荒らさない方がいいんだから」
分かってる、と呟き、恋敵がカバンを逆さまに――
重力に従って、中の荷物が全て床に落下する。
耳を塞ぐほどではないが、顔をしかめてしまうほどには不快な音が響いた。
やはり、貴重品はなかった。
俺たちみたいな『盗人』への対策はしていたようだ。
カバンの中に入っていたのは盗んだところで使い道がないものばかりだった。
俺たちはこの結果に喜ぶことはできなかった。
散らばった荷物をじっと見つめているだけで――。
「ま、そりゃそうだよな。部屋に鍵をかけなかったのは、盗まれたところで痛手にはならないものしか置いていなかったから、だよな――」
おかしいとは思っていたのだ……俺も恋敵も。
入ってくださいと言わんばかりの隙間である。
その上で不在であれば、貴重品はないも同然だ。
手薄ゆえに、実入りがないことを証明していたのではないか……。
「…………」
しかし、気になるな……そこまで徹底していて、なぜ半開きだった?
意図して開いていた……? 普通、閉めていくだろうし……開いたまま出る方が難しいだろう。心理的に閉めてしまうものではないか?
閉めたはずなのに「閉めたっけ?」と不安になってしまうものだし――だからもしかして。
あえて、半開きに……?
入ってくださいと言わんばかりの隙間は、だから、入らせるためだったとすれば?
そうでなければ。
一切、なんの意図もなく、偶然だった――だからこそ。
帰宅は唐突なのだ。
この部屋の利用者は、本当にただ、トイレにいっているだけで――
「……おい、バツ、足音が聞こえないか?」
「しかもこっちに近づいてきてる……やばいっ、どうする!?」
どうすればいい!?
しかし、そうは言ってもどうすることもできない……詰んでいる。
もう、足音は扉の前。
隠れはできるが逃げることはできない――――
あとは、利用者が俺たちを、視界に入れないことを祈るだけだ。
扉が開く。
荷物を見て男性かと思っていたが、持ち主は女性だったようだ。
鼻歌混じりに笑顔で部屋に入ってきた女性は、隠れ切れていなかった俺たちを見て、笑顔が固まった。
やがて歪む――、
彼女の顔が崩れていく。
ただのペンギンだけど、不意打ちで見てしまえば驚きと同時に恐怖もあるだろう――女性の叫び声が響き渡る。
その叫び声が合図だ。
俺と恋敵は、なんの打ち合わせもしていなかったが、次にするべき行動をしっかりと理解していた。そして、一致する。
全速力で駆け抜ける。
ペンギンなのに飛べるかも、と思えるような疾走感であった。まあ、飛べなかったけれど――俺と恋敵は女性の股の下を駆け抜けていく。
しかしその奥。女性の後ろには男性もいて……ああ、カバンの持ち主はこっちか――もしかしたら部屋の主もこの人なのかもしれない。
先に入ってきたのが女性だった、というだけで……
――女性の叫びに男性も慌てていたが、俺たちを見つけ、やるべきことに焦点が合ったようだ。
冷静になるのが早過ぎる……! 女性を守る意思が、彼の動揺を消してくれたのか……男の本能だった。
男性が狙いを俺たちに定め、追ってくる。
でも、ちょっと待て。確かに俺たちは部屋の中に入り、カバンを漁ったが、しかしなにも盗んでいない。
犯罪は犯していないはずなのに――。
ペンギンなのだから人間の法律は関係ないとも言えるけど、中身は人間だから、そういうわけにもいかないのか?
――ともかくだ、追われる理由はないはずなのに……。
ペンギンだから、駆除されることもあるだろうけど、だけど、たかがペンギンのためにこうもしつこく追ってくるか?
大人が廊下を全速力で走るほどに、ペンギンに魅力があるとは思えない。
どうして――
男性からすれば、なにか損をしている……しそうな展開だから、か?
必死になって追いかけてくる理由は、一体……?
恋敵を見る。
並走していた相棒は――その体に、なにかを引っ掛けていた。
よく見る。
それは、布、紐――
あ、女性用の、下着……?
「…………恋敵、それ、なんだよ……っ」
「今はそれどころじゃねえだろ!! 逃げるぞ、おれの体に巻き付いているもんがなんなのかってそんなのどうでもいいだろ!!」
どうでもよくはない。
重要だ。
――それのせいだよ!!
俺たちが追いかけられているのは――追いかけてくる側の損を、俺たちが作ってしまっているからだ。
…………絡みついてしまっているから離れないのだろうけど……、本当に? もしかして恋敵、離したくないだけなのではないか……?
男ってそういうものだ。見つけたそれを反射的に掴んでしまって、結果、絡まってしまったのかもしれない。
離したくても離せないなら、この損を引き剥がすのは難しい。
「――待ちやがれ、クソ鳥共ォ!!」
鬼のような形相で追いかけてくる男。
女性には見せられない顔である。
「……はぁ、はぁっ、――ッ」
体力の限界が近づいてきた。このままだと当然、追いつかれる。追いつかれるよりも早く、俺の足が限界を迎えるだろう――だから。
並走する恋敵に、横から突進する……賭けだ。
横に転がった恋敵から、絡まった下着が解けてくれれば…………頼む!
「うごっ!?」
と恋敵の声。
床をバウンド、そして壁に叩きつけられた彼の体から、下着がぽろっと落ちる――勝った!
下着を奪われるという損がなくなれば、男は追いかけてはこないはずだ!
身軽になった恋敵の首根っこを掴んで、走らせる……距離を取れ。
追いかけてきていた男の反応は……?
後方で、下着を拾った男がきた道を引き返していく。一般客なのでさすがに手間をかけて駆除までしようとは思わなかったらしい……
命拾いをしたな……。
ともかく、これで一難は去ったわけだ。
「す、すとっぷ、だ……」
俺と恋敵、二人で地面に手をついてぜえはあと息を整える。
心臓の音が激しい、足もガクガクと震えていて……。
このまま大の字で寝転びたいところだ。
鳥だからって、鳥の字になるわけではなく。
早く移動した方がいいことは分かっているが、それでも休憩をしたい欲求が勝って……この場から動けなかった。
恋敵もまだ立ち上がれないらしい。
「もう、大丈夫、なのかよ……?」
「だ、だろうね、下着を落としたんだから、さらに追ってくることはないだろうし……」
う、やばい、疲れと共に眠気までやってきた……
このまま目を瞑れば眠れるぞ?
ここで寝てしまえば、人間に見つかる……、今度は逃げられない……。
分かっていても、意識はどんどんと、遠ざかる。
「恋がた、き……」
遠くなっていく意識を引っ張り戻してくれたのは、不意に聞こえた声だった。幼い声――である。
目を開けて見てみれば、天井の照明を遮る位置に、いた――少女だ。
小さな、女の子……。
彼女の不安そうな顔が目の前にあった。
俺を心配している……? のではない。
俺に、助けを求めているような顔とも言えた。
……頼りにならないことは分かっているけど、他に頼れる人がいないから、仕方なく俺に助けを求めている……?
これに賭けるしかない、と覚悟を決めた目でもある。
――まったく。
ペンギンの俺を、そんな目で見るんじゃないよ……。
小学生くらいだろう。幼稚園児ではないはずだ。
……ペンギンに頼る小学生か……。
そんなの、初めて聞いたぞ。
相当、切羽詰まっているってことか。
俺は戻ってきた疲労により、薄れていく意識の中で少女を見て思う。
口に出していたみたいだけど。
「……そんな目で見るなよ、助けたくなっちまうじゃねえかよ――」
ペンギンが喋ったことに、少女は目を丸くさせて――でも。
ふ、っと、安心したように、優しく微笑んでいた。
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