三 別れの覚悟

白幹ノ通しろもとのとおり〉は常に人に満ちている。車道では車と辻馬車が行き交い、馬の息遣いが聞こえてくる。無数の靴音に紛れて聞こえる己の軍靴の音を聞きながら高久たかひさは無帽で歩いていた。

 髪と耳を撫でるように吹き抜ける風は日ごとに冷たくなっていく。時折、どこからが漂う甘い香りが秋の深まりを感じさせた。

 この国の秋に色はない。それでも、白が淡くせゆくわずかな変化に秋を感じる。同時に風の冷たさ、甘い香りが秋を告げる。

 行き交う人の服装もこの時期は実に様々だ。

 自分はこれから先も〈白幹ノ国しろもとのくに〉の移り変わる季節と共に年を重ねていく。ただすのいない、この国で年を重ねていくのだ。

 ずっと、生まれ育った村には帰ることはないと思っていた。そんなことはない。それでも、帰らないことが、高久にとっての弔いだった。

 身勝手だと思われてもいい。単に覚悟がなかったのだ。こういうものは十年経とうと、覚悟が決まることはない。この先、年を重ねても同じだろう。

 村を出る前に、そして〈白幹ノ国〉に移り住んでからも、時折、自分達がいなくなった後のことを話した。十年だな、と高久が言うと、糺は無言で頷いて微笑んだ。

 ――兄さん。その時は、お互い、迎えに行こうね。

 その言葉の意味するところは明白だった。

(私もお前も……駄目なところばかり似てしまった)

 かぁん、と軍靴の音が響く。

 我に返ると、人波の向こうに薄い色の空が見えた。金色の光の孕む淡い空の色だ。かなたに見える分厚い雲は光をその身に閉じ込めているように見えた。

 冷たい風を和らげるような珈琲コーヒーの香りが漂う。美味しそうな甘い匂いと香ばしい匂い、かすかにわらの匂いが交じる通りに人の営みを感じ取る。

 主要な道が交差する十字路の手前で立ち止まると、高久は車道に視線を移した。十字路の真ん中には時計と時刻を告げる時計台兼物見台がある。その上に車道の手信号を務める軍人が二人立っており、笛と旗で車と辻馬車に向けて進路方向を合図していた。

 笛の音と共に進め、と手の指示があるや、人が動き出した。

 先を進むにつれて、糺の亡くなった場所に近づいていく。

 ――ペトリコールだ。

 糺の声は今も消えない。記憶は薄れることなく、鮮明になる。視界の端で記憶が見える。そんな自分を糺はどう思うだろうか。

 思い出と共に脳裏に満ちる記憶を振り払いながら高久は歩を早めた。



 仕立屋〈いちのえ〉の前で立ち止まった高久はすぐに開けることなく扉を見ていた。歴史を重ねた白い扉は所々、塗料が剥げて下地の色が見えている。同じ白である為に遠目から見ると目立たないが、近くで見ると味わい深いものがある。

 糺はこの扉の前に立つと、緊張の面持ちを見せていた。好いた人にはいつでも格好良い姿を見せたいのだと、身だしなみを確認させられた。

 十二年前のあの日もそうだった。世奈せなと〈縁ノ結えんのむすび〉を決めた糺と共に仕立屋〈いちのえ〉を訪れた時のことだ。

 扉の前で糺の白い軍装を確認している時のことだった。

「兄さん。〈縁ノ結〉に賛成してくれて、ありがとう」

 そう言って笑んだ糺は、覚悟を決めた顔をしていた。

 糺は世奈と何度も話をしただろう。それでも、並大抵の覚悟ではなかった筈だ。先に死んだ者の記憶を奪う神のことわりのある村に生まれた人間と人生を共にする。長い年を重ねても、神は否応なしに記憶を奪う。双子が同時に亡くなる例はほぼ、ない。神の呪いは否応なしに双子と産まれたものに降りかかる。

 残された者の気持ちを思えば、あまりにも酷な決断かもしれない。

 ――それでも、私は世奈とこの先の人生を共に生きたいんだ。

 例え、記憶が消えたとしても、残せるものは確かにあるのだと、糺は言った。

「兄さん。自分が先に死のうなんて、考えないでよ」

 糺の震えた声に視線を下げると、俯いたままの糺の、自分とよく似た目元が見えた。

「安心しろ。それだけは、絶対にない。だから賛成したんだ」

 ぱっと顔を上げた糺は驚きに目を開くと、泣きそうに顔を歪めた。

「……うん」

「ここで泣くな。今から世奈さんと〈縁ノ結〉の〈結之書むすびのしょ〉を書くのだろう」

 糺は何度も頷きながら答えた。

「そうだね。不格好な字で残せないね」

 風が耳朶じだを撫でるように通り抜ける。冷たい風が糺の記憶をさらい、高久は過去から今に引き戻された。

 あの時は嬉しい報告の為のおとないだった。今は違う。糺が愛した女性に酷なことを告げなければならない。

 ――嫌だ、私を置いて行かないで。糺!

 二度と、身を引き裂かれるような思いを味わわせるようなことはしたくなかった。それなのに。

 背後で人の行き交う足音を聞きながら、高久は〈いちのえ〉の扉を開けた。

 来客を告げる鈴の音が重々しく響く。店内には仕立屋の主以外、人の気配はない。鈴の音に気づいた世奈は顔を上げて高久を見るや、みるみるうちに驚いた表情に変わった。

「高久さん! お怪我は大丈夫なのですか?」

 真っ先に自分の身を案じた世奈に高久は頷いた。

「はい。問題ありません。それよりも、今、お時間をいただけますでしょうか」

 世奈はしばらくの間、呆けたように高久を見つめていた。そうして静かに頷いた。



 紅茶の香が店内に満ちる。

 世奈と向かい合わせに座った高久は用意された紅茶を飲んだ。

 机の上には箱に入ったチョコレートが置かれていた。お店を閉めた世奈は、丁度、休憩しようとしていたところだったの、と言いながら紅茶と箱に入ったチョコレートを用意して机の上に並べたのだ。

「このチョコレート、美味しいのよ。紅茶の茶葉が入っているの」

「ありがとうございます。いただきます」

 高久は箱の端のチョコレートを取ると、口に含んだ。噛むと、ぱり、とチョコレートの外側が割れて、中から鼻に抜ける香りと共に柔らかな甘さが口の中に広がった。

「美味しいです」

 すると、世奈は、ふふ、と小さな声を上げて笑った。

「ああ、いえ。ごめんなさい。糺はね、チョコレートの箱を出すと、必ず、真ん中から取るのよ」

 高久は世奈の笑顔に目を丸くした。その時、箱の真ん中からチョコレートを取った糺の姿を思い出してしまい、高久は思わず、口の端を上げて笑んだ。

「そういえば、そうでした。家でも真ん中から取っていました」

「高久さんは端から?」

「ええ。意図していなかったのですが、おそらく、好きな味がそこに集中していたんですよ」

「あ、ああ!」

 世奈は目を開いて頷いた。

「父がいつも土産に買って来るチョコレートの箱の真ん中が苺味だったんです。苺は糺の好物でしょう?」

 それを聞いて世奈は目を細めた。

「そう……。だからいつも真ん中だったのね。じゃあ、あなたも?」

「はい。端には柚子が入っていたので。それが癖になっているんでしょうね。同じ味が入っている箱の時も糺は真ん中、私は端から取っていました」

 懐かしそうな表情を浮かべた世奈は箱の真ん中のチョコレートを取ると、一口で口に含んだ。

 ぱり、とチョコレートの割れる音がする。

 チョコレートを堪能した世奈は美味しい、と微笑んだ。

「……高久さん。お茶の時間に付き合ってくださって、ありがとうございます」

 世奈は姿勢を正すと、高久を見た。琥珀色の目には凛とした強い意志が宿っていた。

「いえ。こちらこそ、ありがとうございます。とても美味しいチョコレートでした」

「でしょう。このチョコレートはね、〈白銀はくぎん地区〉の裏路地に最近、出来た〈つきふね〉という場所のチョコレートなの」

 高久は驚いた表情を世奈に向けた。思わず、驚いた表情をしてしまったが、世奈は高久の表情を受け入れて、微笑んだ。

「高久さん。私、やっと、新しいお店に行けるようになったの」

 そう言った世奈は晴れやかな顔をしていた。

「……今度、行ってみます」

 高久は世奈の言葉を痛い位に理解している。世奈は、十年もの間、糺と行ったお店以外を訪うことはなかったのだ。そんな世奈が、ようやく新しいお店に入った。世奈は少しずつ、前に進んでいこうとしているのだ。

 世奈の覚悟に向けて高久は深々と頭を下げた。長いこと、頭を下げてから、高久は顔を上げた。

「世奈さん。本日は澄人すみとさんのことで確認したいことと報告したいことがあり、訪れました」

「はい」

「二日前に澄人さんはここを訪れましたか?」

 世奈は頷いてから答えた。

「ええ。いらっしゃいました。高久さんの、血に染まった軍装を預けていかれました」

「その際、澄人さんの軍装は預かりませんでしたか?」

「いいえ。高久さんのだけです」

 それを聞いた高久は胸に痛みと、諦めにも似た感情が満ちるのを感じていた。

日ノ裏ひのうら〉で〈あらぶるかみ〉から逃げた時、高久は澄人に抱え上げられた。その時、澄人の純白の軍装を染める己の血を、高久は確かにこの目で見た。澄人が着替えた様子はない。それが意味する所を高久はよく知っている。

「世奈さん」

「はい」

「私は、村に帰ります」

 世奈は驚いた様子で目を開いた。そうして目を閉じた世奈は、ゆっくりと頷いた。

「……決めたのね」

 世奈の声は静かだった。戸惑いも悲しみもない。ただ、静かな声だった。

「はい。あなたには先に伝えておきたかったものですから」

 世奈は微笑んだまま頷いた。

「やっと……糺に会いに行ってくれるのね」

 世奈を前に高久は揺らいでいた。それでも、もう進まねばならないのだ。

「いいのですか? 私が糺に会えば、もう……」

「いいの」

 それで、いいの――と世奈は目線を落として薬指の指輪に触れた。

「糺との思い出は消えない。ずっと、私の中に残るから、いいの」

 世奈が指輪を愛おしそうに撫でながら笑む。

「それにね、高久さん。糺のことは年を重ねてもいつまでも一区切りにはならないと思う」

 雲が動いたのか、店内が、ふっと、淡い光に満ちる。柔らかな光の中で世奈は糺と居る時と同じ表情を浮かべていた。

「十年経った今も、朝起きると、隣に糺がいないことを寂しく思うの」

 でもね――と世奈は続けた。

「それでも少しずつ、忘れていくの。思い出す時間が短くなっていく」

 高久は思わず、膝の上に置いた手を握りしめた。

 少しずつ。少しずつ悲しみは薄らいでいく。鮮明になる記憶がある一方で、思い出す時間は少しずつ、短くなっていった。

「……でも、いなくなってしまった悲しみはずっと、癒えないまま。……もしも、もしもよ、もう一度、糺に会えるなら私は……一目で良い。その姿を見たい……」

 世奈は目を閉じた。それは祈りのような姿にも見えた。

「糺を思い出す時はいつも、あの白い軍装なの。白い御旗みはたを手に……私に向かって微笑んだあの人の姿をありありと思い出せる……」

 旗が、ひらめく。真ん中の太い白銀しろがね色の線。まほら生誕の証である白い幹を模した旗は晴天の下、鮮烈に光り輝いている。国の御旗を手に糺は笑んでいる。

白天ノ子はくてんのこ〉となった糺を高久は誇らしく思い、同時に不安を覚えてもいた。前線を行く〈白天ノ子〉の生還率を思えば、不安に思わない訳がない。

 それでも、糺は、生きると言った。生きて、年を重ね、兄さんと共に死んで村に帰ると――糺は言ったのだ。

 世奈がそうっと目を開ける。

「高久さん。私のことは気にしないでください。この日が来ることは〈縁ノ結〉をする前に糺とよく、話し合いました。……だから、覚悟は出来ています。それに……私にはあの絵があります」

 力強く言いきった世奈の目の奥に強い光が見える。高久は深々と頭を下げた。

「今まで、糺と共に生きてくださり、ありがとうございました」

「こちらこそ、糺の思い出を振り返る時間をくださり、ありがとうございました」

 高久はしばらくの間、頭を下げたまま、店内に満ちる光の強さを、足元から見つめていた。


 見送りの為に店の外で世奈が頭を下げている。高久は世奈に軽く頭を下げると、背を向けて歩き始めた。〈いちのえ〉のショーウインドーから世奈が店に戻った姿が見える。世奈は机の前まで歩くと、机の上に手をついた。途端、世奈の体は力が抜けたように、そのまま崩れ落ちた。

 ここで立ち止まったら動けなくなる。高久は崩れ落ちた世奈の姿を振り切って歩き続けた。網膜に焼き付いた世奈の姿が脳裏に満ちる。

(これでいい)

 もう二度と戻れぬ記憶も思い出も――年を重ねても薄まることがないのなら、とうに覚悟を決めるべきだったのだ。

 それでも、この年月は自分にとって必要だった。

 ――兄さん。

 自分と違い、よく笑う糺の顔を鮮明に思い出せる。世奈を紹介した糺の嬉しそうな顔も、世奈を愛おしそうに見つめる顔も、死にゆくのに笑んでいた最期の顔もよく覚えている。

 双子の片割れと揶揄されるが、片割れではない。二人でひとつの双子ではなかった。

 自分と糺は別の人間で、兄と妹で、理解ある友人で、家族だ。

「ごめん。糺」

 返らぬ答えと分かっていながら落とした言葉を、糺ならなんと返しただろう。分かっているくせに、と笑いながら並んで歩くだろうか。

 いや、違うな、と高久は胸の内で苦笑した。

 答えはとうに分かっているのだ。双子でありながら、当然のように自分と糺は別の人間だ。考えも、見据える先も、何もかも違う、顔が同じであるだけの別の人間。それでも、肝心な所だけは嫌になる程に、全く同じだった。

 糺にごめんと言われたら、自分が返す答えは決まっている。それは同時に糺の答えでもあった。

 それでも容易に割り切ることの出来ぬ、縋るような思いを抱えながら、高久は自分がやるべきことの為に目的地に向かい、歩を早めた。

 遠くで豆大福が出来上がったという朗らかな声と同時に聞こえた、かそけし喇叭らっぱの音が尾を引くように消えていった。

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