四 神に抗う

「やっと来たか馬鹿者」

 屋敷に到着するなり、晴彦はるひこの案内で客間に通された高久たかひさは声の主を見下ろした。畳の上に肩肘をつきながら寝そべる男、志々目しのめ鏡一郎きょういちろうは気怠そうに高久を見上げていた。かかとまである長い髪は畳の上で蜘蛛の糸のような模様を作り、その真ん中にある鏡一郎は獲物を捉えんばかりの蜘蛛のように見えた。

 客間に案内した晴彦は高久の座布団を用意すると、襖を背に座布団の上に姿勢正しく正座した。

 さっさと座れ、という鏡一郎の声で高久は座布団に正座した。姿勢正しく座る高久を前に鏡一郎は嫌な顔を隠さなかった。客人を前にしても今の体勢を変えず、あろうことがため息をついた。いつも通りの変わらぬ鏡一郎を前に高久はどこか落ち着いた心持ちだった。

「いつから……分かっていたのですか?」

 鏡一郎はゆっくりと体を起こし、正座をした。白い刺繍を施した白い着流しに長い髪が這うようにまとわりつく。鏡一郎はただ、高久を見つめていた。

 高久はその先を口にするのを躊躇った。だが、もう違和は弾けてしまった。完全に弾けたわけではない。軽く弾けた違和が小さく開いた穴から静かに流れているだけだ。静かに、緩やかに流れゆく違和感は足元を濡らしていく。

「いつから……あの人が雪村ゆきむら澄人すみと……違う。羽坂はざか澄人すみとではないと気付いていたのですか?」

「貴様が澄人を連れてここに訪れた時からだ」

 目を大きく開いた鏡一郎を思い出した高久は、途端に鏡一郎の言動全てに納得させられてしまった。

「だから、あなたは、あれは本当に雪村澄人なのか、と聞いたのですね」

 鏡一郎は口の端をあげて不敵に笑んだ。

「そうだ。貴様があれを連れて来た時は流石の僕も驚いた」

 鼻を鳴らした鏡一郎は、天板の上に手を這わせると、こん、と指を上げて、爪先で天板を叩いた。

「――

 その時、素っ頓狂な声が襖の奥から聞こえてきた。賑やかな声が重なるようにして聞こえ、やがて静かになったのを見計らって鏡一郎は襖に向かって声をかけた。

「晴彦。幸間こうまと、やたらうるさい乙顔おとがおをここに連れて来い」

「はい」

 即座に晴彦の背後の襖が開けられる。

 そこには狼狽した様子の乙顔と、その後ろに姿勢正しく座る幸間がいた。乙顔は詰襟シャツとスラックス、サスペンダーを着用しており、幸間は三つ揃いのスーツを着用していた。

「あ、わ、ごめんなさい! 聞いちゃった!」

 弁明することなく素直に謝った乙顔に高久は苦笑してしまった。乙顔を前にすると不思議と緊張がほどけるような心持ちだった。

「馬鹿者! こそこそするくらいなら堂々と聞け」

 鏡一郎に怒られて乙顔は首をすくめた。

「ごめんなさいぃ……」

 小さく丸くなった乙顔に鏡一郎も苦笑している。不意に苦笑している鏡一郎と目が合い、高久と鏡一郎は互いに、気まずそうに、苦笑しあった。

「……乙顔。幸間。聞くなら座布団を持ってこっちで聞け。僕はこそこそされるのが一番、嫌いなんだ。高久。貴様はどうだ?」

「聞いていただいても構いません。ですが、未成年である晴彦さんは外していただけますか?」

「はい」

 晴彦は気を悪くする様子もなく、いつもの通りに淡々と答えた。高久が乙顔に視線を移すと、乙顔は緊張した面持ちで背筋を伸ばしていた。

「乙顔さん。今からする話は、口外してはならない話です。絶対に誰にも言わないことを約束することは出来ますか?」

 乙顔はしばらく放心したように黙っていたが、やがて、首を振った。

「ううん。やっぱり聞かないことにする。……僕は、人を見捨てられないから、高久軍曹の約束を守れないと思う。いざとなったら、話しちゃうかもしれない。だから外に出ているよ。この近辺なら散歩してもいいよね?」

 高久は鏡一郎と顔を見合わせた。乙顔は何とも言えない顔をして、畳の上に突っ伏した。

「高久軍曹。ごめんね。僕を信頼して、聞いてくれたんでしょ」

「はい。ずるい問いかけになってしまいましたが、あなたを信じました」

 乙顔は顔を上げた。

「……僕ね、昨日、電話で高久軍曹から姉さんのことを聞いた時、泣いちゃったじゃない」

「はい」

 高久はその時の様子を思い出していた。伊織いおりの伝言を告げるなり、乙顔はもう村に帰れない、と泣き喚き、幸間に宥められるまで泣き止まなかったのだ。

「あの後、一晩、考えたんだ。僕はどうしたら良かったんだろうって。うまいこと言えないんだけど、僕の思う良いことって、本当に良いことには繋がらないことの方が多かったのかもしれない。僕の思う良いことは、目の前の人を助けられるかで、それが本人にとって良いことなのか、考えていなかった。それによって周囲がどういう気持ちになるのかも、考えたことがなかった」

 ゆっくりと手をついて起き上がった乙顔は、うつむきながら言った。

「その時に、思ったんだ。自分のやってしまったことで、これから先、誰にも信用してもらえないんだろうなって。だからさ、高久軍曹が聞いてくれたの、嬉しかったんだ。だからね、僕は僕なりの誠意を見せるよ。高久軍曹。ありがとう」

 乙顔は慌てて正座し直すと、畳に手をついて、深々と頭を下げた。


 **

 引き戸の閉まる音がして、覚束おぼつかない足取りとしっかりとした足取りが遠のいていった。二人の足音が遠のく間、高久は縁側を眺めていた。

 色濃い縁側は艶々としていて、鏡のように庭園を映す。

「安心しろ。この辺一帯は安全だ」

 高久は縁側から鏡一郎に視線を移した。

「僕が言うんだ。間違いない」

 風が室内を通り抜ける。鏡一郎は目を細めて満足そうに笑んでいた。

「……乙顔も随分と考えるようになったのですね」

 幸間がぽつり、と声を落とした。即座に反応したのは鏡一郎だった。

「どうだろうな。幸間。貴様が何度言っても駄目だったのだろう? そんな人間がすぐに変わると思うか?」

 鏡一郎の言葉に幸間は苦笑した。

「……ええ。すぐには変わらないでしょう。それでもね、見捨てられない人なんですよ」

 高久と鏡一郎は互いに顔を見合わせて、笑んだ。

「分かる。僕は乙顔が嫌いではない。むしろ、見ていて楽しい」

 鏡一郎の気持ちは分かる気がした。たが、高久は答えなかった。

 乙顔の言葉に嘘はない。乙顔は乙顔なりに誠実であろうとしている。村に戻れる日が来るまでの間、乙顔は姉の言葉を何度も反芻するのだろう。

 乙顔の姉、伊織は決して冷たい人間ではない。乙顔が本当の意味で罪を償った時、伊織は乙顔を呼び戻すつもりでいる。

 だからこそ、軍人である自分がここで何かを言うのは伊織の気持ちを無下にすることになる。いくら心根が優しかろうと、罪を犯したことに変わりはない。優しさで許されることではないのだ。

 幸間と鏡一郎も高久の考えていることを察しているのだろう。互いに深く追求することなく、会話はすぐに切り替わった。

「さて、高久。貴様、澄人の正体が分かったのだろう?」

「――はい。あれは……私の村の産土神です」

「なっ」

 驚きに声を上げたのは幸間だった。目は大きく開かれ、瞳孔が揺れている。

「私達の村のもう一対の産土神、雲外鏡うんがいきょう。〈鏡ノ径かがみのこみち〉です」

 幸間は震える手で口を覆った。顔はみるみるうちに色を無くし、青ざめていった。

「志々目先生は、どうして分かったのですか?」

 鏡一郎は片眉を上げた。そうして腕を組んだ鏡一郎は深く、息を吐いた。

「貴様、薄々気付いているだろうが、僕は〈しゅ〉と〈じゅ〉を持っていないんだ」

 高久は少し、目を開いたが、驚いたのではない。これまでの鏡一郎の言動を振り返って納得したのだ。

「だから分かったのですね」

「そうだ。幸間。貴様にも言っておく。これは他言無用だ」

 幸間は戸惑いながらも頷いた。

「え、ええ。勿論です……」

 言葉を濁した幸間は、それ以上のことを言わなかった。

「気を遣わなくていい。とはいえ、幸間。貴様、〈祝〉と〈呪〉のない人間は初めてか?」

「……はい。そういう人もいるというのは聞いていましたが、お会いしたのはあなたが初めてです」

「だろうな」

 鏡一郎は切れ長の目を庭園に移した。緑深き庭園に落ちる影は黒々としている。時折、風に揺れる葉が僅かに影を動かした。

「〈祝〉と〈呪〉を持たないということは、神の祝いも呪いも与えられないということだ。つまり、何の庇護もないということだ。一見して気軽に見えるだろうが、どちらもないからこそ厄介でもある」

 鏡一郎は庭園から目を逸らして座卓の天板の上に手を這わせた。開いた手の指はすらりとして長い。その長い指の爪先が音楽を奏でるように天板を叩いた。

「大抵は〈祝〉と〈呪〉を持たないことに気付かずに生きる。だが、気付いてしまえば厄介だ。いいか。祝い呪いの影響を受けないということは、ありとあらゆる神の〈祝〉と〈呪〉の氏子に向けられた余波を受けないということだ。だが」

 言葉を切った鏡一郎は忌々しい、と言わんばかりに口を歪めた。

「……余波を受けないと言っても万能じゃない。だからこそ厄介だと言っているんだ。気付かれたら僕はあの神に何をされるか分からない。神なんぞ関わらないのが一番だ。だが、気付いてしまったら後は必死だ。弾くのに苦労にしたぞ」

 こん、と天板を叩く音が聞こえる。

 まさか、これは、癖ではなく。

 高久の心を読み取ったように鏡一郎は笑んだ。

「そうだ。これは僕の力だ。あらゆる神の気配を読み取り、弾く」

「読み取り、弾く……。まさか〈日ノ裏ひのうら〉でのことも……」

 鏡一郎が何故、タイミングよく現れ、〈忘れ神〉を容赦なく跳ね飛ばせたのか、分かった。鏡一郎は高久が気付いたことに嬉しそうに笑んだ。こういう笑みをすると途端に少年のような親しみやすい笑みに変わる。

 高久は深く息を吐いた。

「……澄人に鏡を向けたのは、それが理由ですか?」

 羽坂はざかと澄人の家で鏡一郎は澄人から鏡を借りた。鏡を返したその時に澄人が怯えるような素振りを見せたのが忘れられなかった。

「鏡は真を映すという。あれは賭けだった。だが、弾かれた。……その時に思った。この神は厄介だ、と。貴様らが気付く素振りが全く、見えない。その上、僕もあれが本当に神なのか、判断に迷った」

 本当に、神なのか。そこは高久も未だに迷い、揺れているところだった。だが、戸籍謄本には一年前に行方不明とある。

「……恐らくは。ですが、それにしては澄人さんそのものなんです。……正直言えば、判断がつかない、というのが今の答えです」

「だから僕なのか」

 高久は頷いた。

「――はい。あなたしか頼れる人がいませんでした」

 鏡一郎は微笑むと切れ長の目を細めた。そうして腕を組み、右手で自分の顎をなでた。

「……なるほど。これは強力だ。僕の所に来て正解だったな」

 そうして表情を消した鏡一郎はゆっくりと腕組みをほどいた。

「高久よ。最初に言っておくが、このままだと狂人が出るぞ。僕の言っている意味は分かっているな?」

 狂人、というただならぬ言葉の意図を高久は理解している。

「はい。ですから、記憶の空白の件も含め、あなたに頼りたいのです」

「分かっているなら話が早い。まずは貴様の村の産土神の情報を僕に教えろ」

 鏡一郎はため息をつくとゆるゆると手を広げ、そうして柏手をした。

 乾いた音は、どこかで聞いたことがある。しかし、微妙に違う。

 あの柏手が包みこむような音ならば、鏡一郎の柏手は目が覚めるような軽やかさだ。弾く、と言った意味が分かる。

 鏡一郎の目がその先を促している。高久は躊躇いながらも口を開いた。

「……私の村は、かつて、ふたはしらで一つの神様でした。二つ柱でひとつ。そのひとはしらがなくなるということは、祝い呪いの前提が崩れることを意味しています。つまり、私の村の産土神は、少なくとも二百年前までは〈呪〉しか存在しなかったということです」

 鏡一郎は得心したように目を閉じた。

「……呪いしか与えぬ神か」

「ええ。……そこで二百年前、とある人が村の外に祀られていた雲外鏡うんがいきょうを産土神とした。……〈一ツ鏡ひとつかがみ〉、〈ついの鏡〉、〈うつし鏡〉……様々な名称で呼ばれ語られる〈鏡ノ径〉の元は〈境ノ神さかいのかみ〉です」

 途端、鏡一郎は目を開いた。幸間も気付いたのだろう。大きく開かれた目には驚愕の色が浮かんでいる。

「まさか……

 驚きを隠せない鏡一郎の声に向かって高久は頷いた。

「はい。村を囲むことで〈呪〉が村の中だけで完結するようにしたのです」

 ――生きよ生きよ

   君よ生きよ

   今ぞ願いの火を灯せ……。

 あの歌が聞こえる。長らく歌い継がれてきたこの歌は、村人の祈りだった。

 二度と戻らないことで祝いとなる。村人の祈りのめられた歌だったのだ。

 鏡一郎は額に手を当てると、深い、深い、息を吐いた。

「貴様の村はとんでもないな……。神に抗ったのか。……なら、貴様の村の産土神が双子を逃がすことを黙認しているというのは、嘘だな?」

「はい。実際は〈鏡ノ径〉によって力を封じていると言った方がいいかもしれません。二百年前に〈鏡ノ径〉と……おそらくは、約束を交わした者がいます」

 鏡一郎は興奮の為に息が荒くなっていた。

「そうか……。高久。〈鏡ノ径〉は〈わすかみ〉か!」

「はい」

「だから〈鏡ノ径〉という神らしからぬ名か! 全く、貴様の村は名前の分からぬ神とよく……いや、雲外鏡だからこそ出来たことか。あれは妖怪でもあり、神でもある。鏡は真実を映す神具でもある。真を映し、暴き出すもの。同時に跳ね返す力もある。場所によって道祖伸どうそしんは石ではなく鏡を納めた祠を指すともいうが、貴様の村は鏡だったのだな」

「そうです。鏡は病と悪しきものを跳ね返す力を持つ。ですから私の村では道祖伸と言えば鏡になるのです。〈鏡ノ径〉そのものが私達の村の砦でもあるのです。ただ、従来の道祖神と形が違うので気付く人は少ないのですが……」

 ふふ、と笑い声が漏れる。鏡一郎は楽しそうに声を上げて笑い始めた。

「……とんでもない話だ。神に抗った村か」

 神に抗う。その言葉を聞いた時、高久は胸の内で苦笑した。

(抗えたならどんなに良かったことだろう)

 祝い呪いは氏子のみ。この言葉は揺らぐことはない。

「志々目先生。とうに気付いておられると思いますが、雲外鏡は人の善悪を持ち得ぬ神です。故に〈鏡ノ径〉にまつわる話は善悪なき神のたわむれです。戯れというには……少々、危険な神ではありますが」

 鏡一郎は手を叩いた。

「そうだ。僕はそこが聞きたかった。人に望んだ姿を見せるという善悪なき雲外鏡の与える祝いはおそらく、双子に呪いが及ばないようにすることだ。ならば、与えられる呪いは何になる?」

 ――なればこそ、後残りのない約束を。

「――寿命を全う出来なかった双子は、ひとつになります」

 声が音をさらい、静けさが満ちる。呼吸の音ひとつしない室内で幸間は震えていた。

「ま、さか」

 静けさをゆっくりと裂くような声だった。その鏡一郎の声は珍しく震えている。

「死んだ双子の記憶はこの世においてなかったことになります。残された双子の記憶以外、誰にも残りません。記憶だけではない。――写真にも、です」

 幸間は震える手を持ち上げて、顔を覆った。

「――な、んてこと、を……!」

「貴様は……」

 続く言葉を鏡一郎は飲み込んだ。そしてそのまま何も言わなかった。何を言ったとしても、言葉は意味を成さないことを鏡一郎が一番に分かっているからだった。鏡一郎は息を吐き切ると、高久を睨むように見た。

「……良いんだな?」

「ああ。頼む」

 迷いのない高久を前に鏡一郎が唇を震わせている。浮かんだ思いをかき消すかのような動作で鏡一郎は立ち上がった。

 そして足音を立てて縁側に出ると、しばらくの間、音を立てながら準備をしているようだった。陶器のぶつかり合う音が聞こえたかと思えば、次に本が崩れ落ちたような音が聞こえてきた。

 どすどすと縁側を歩く音が聞こえる。

 戻って来た鏡一郎は座卓の上に原稿用紙と万年筆を置くと、言葉もなく出て行ってしまった。

 その間、高久と幸間は無言だった。鏡一郎の立てる音を聞きながら、高久は庭園に視線を移した。

 緑濃き庭園に落ちる影は色濃くなっている。不思議なものだ。〈白幹ノ国しろもとのくに〉にいながら、白に浸食されることのない緑が青々とした姿を見せている。

 鏡一郎が次に戻って来たときは、音もなかった。その理由は手にあるトレーで分かった。鏡一郎はトレーを座卓の上に置いた。トレーには珈琲コーヒーと山盛りの、白い紙に包まれたボンボンショコラが乗っていた。

 高久は膝で軽く立ち上がり腰を浮かすと、トレーから珈琲を取り、それぞれの前に置いた。最後に山盛りのボンボンショコラを座卓の真ん中に置くと、鏡一郎は自分の席に、どかり、と座ってからトレーを隣に置いた。

「晴彦が珈琲をれておいてくれた。冷めているが、まあ、良い。晴彦の淹れる珈琲は美味しいからな。僕ではここまで美味しいのは淹れられん。冷めた美味しい珈琲と熱々の不味い珈琲なら冷めた珈琲を選ぶ」

 そうして鏡一郎は白い紙に包まれたボンボンショコラを手にした。

「中身はキャラメルクリームだ。〈銀河之果ぎんがのはテ〉のショコラだ」

 包み紙をくと、まん丸の大きなチョコレートが現れた。鏡一郎はそれを一口で食べると咀嚼した。ぱり、とした音がこちらまで聞こえる。

「うん。やはりここのキャラメルクリームは美味しい。こっくりとしていて甘いが、くどくない。おい。幸間。ほうけるな。始めるぞ」

 幸間は憔悴しきった顔を上げると、何も言わずに頷いた。そんな幸間をしばらく見つめていた鏡一郎は、ぽつり、と言った。

「……高久。これが終わったら僕の頼みを聞いてもらうからな」

 鏡一郎に言われて高久は答えに詰まった。そんな高久の様子を見逃さなかった鏡一郎が演説を始めるように言葉を紡ぐ。

「貴様には僕の小説の音読をしてもらう」

「おんどく?」

 呆けていた幸間の目が我に返ったように焦点を結ぶ。鏡一郎はニタリ、と笑んだ。

「そうだ。音読だ。丸ごと一冊、読んでもらう」

 高久は苦々しい表情を隠さなかった。

「しかし、何故……」

 幸間は戸惑っている様子だった。それもそうだろう。緊迫した場面で聞いて欲しい頼みが音読なのだから、幸間は困ったような表情を浮かべて高久をちら、と見た。

「志々目先生。分かりましたから早く」

 先に進みましょう、という高久の願いも虚しく、鏡一郎は嬉しそうに言った。

「こいつは、声が、とても、良い」

 一言一句、噛みしめるように言った鏡一郎に高久は呆れんばかりの目を向けた。

 それもそうだ。鏡一郎にとっては良い出来事なのだろうが、高久にとってはとても疲れた出来事だ。あの日、音読を変わった自分を恨みたい。

「幸間。小説が世に出る前に検問があるのは知っているか?」

「はい」

「発禁本と定められると特定の文章を目の前で同性の軍人が音読する。そして音読した文章にたいしていくつかの質問をされるんだ。人によってはあまりの羞恥に耐えられず、泣き出す者もいるそうだよ」

「はあ……」

「僕は逆だ。自分の作品を読んでもらうのが好きなんだ」

 そう言って満面の笑みを浮かべた鏡一郎はよく回る口で話し始めた。

「僕はね、人に自分の作品を読んでもらうのが好きだ。声が良いなら尚更だ。だから、わざと発禁本に指定されるように書くんだ」

 幸間は困惑した表情を浮かべて高久に救いを求めた。高久は鏡一郎を睨んだまま、語気を強めた。

「もういいだろう」

「高久に読んでもらえたのは、たまたまとしか言いようがない。その時は確実に修正されたかを確認する為に、変更した文章を読んでもらう予定だったのだが、都合が合わなかったのだろうな。代わりに高久が来たんだ。――最高だったよ。高久の声は僕の理想だ。よく通る声。肌を撫でるような低い声。こいつに読んでもらいたい! そう思った僕はわざと発禁本になるようにした。高久に読ませないと変えないと我儘を言ったんだ。なにせ、僕は有名な小説家だからね。編集者も僕の我儘を通さざるを得ない。計画は成功したよ! おかげで僕の、世に出す小説を全部、読んでもらえることになったんだ!」

 全部――と聞いて幸間は驚きを隠せないようだった。それはそうだろう。鏡一郎の作品によっては辞書程の分厚い小説を読まされることになる。

「僕は一層、言葉を磨いたよ。一言一句いちごんいっくを研ぎ澄まし――片言隻句へんげんせきくも疎かにしない。高久の声で僕の物語を聞く為に、言葉を研ぎ続けた。おかげで僕の物語は僕の思う以上の姿となって世の中に出た。充分に楽しませてもらったよ。軍人は嫌いだが、高久は好きだ」

 鏡一郎は高久に笑みを向けた。対して高久は眼光鋭い視線を鏡一郎に向けている。

 高久は鏡一郎の本の音読をさせられた日々を思い出した。実はもう一人、鏡一郎が声を気に入っている軍人が居たのだが、「あいつは描写にいちいち文句を言う。編集者を思い出すから嫌だ」と音読から外された為、全て高久が担当することになったのだ。それが羽坂だ。

 おかげで辞書に劣らぬ厚みのある本を読まされることになった。

 鏡一郎の物語は言葉のひとつひとつだけではない。内容も清廉せいれんとして美しいが、それは音読せずに読むから良いのであって、音読するとなるとまた、別である。

 楽しそうな作者の目の前で本を読む。おざなりに読むと抗議の声が入る。逐一、鏡一郎の確認が入るのだ。

 あの時のことを思い出すと高久は一気に疲労感が襲うのを感じた。五日だ。丸五日を費やしてようやく読み終えた。あれ程疲れる軍務も相当、ない。

 そのおかげで軍人嫌いの鏡一郎の協力を仰げるようになったのだから、結果的には良かったと言えるかもしれない。

 唖然としていた幸間はやがて、はっ、と気づいたように我に返ると、声を上げて笑い出した。

 高久は幸間の様子を見て、ああ、そうか、と得意気に笑んでいる鏡一郎を見た。幸間をしっかりとさせる為にこの話をしたのだ。高久は思わず苦笑した。ようやく笑いの止まった幸間が納得したように頷いた。

「そうでしたか。軍人嫌いで有名なあなたが、この方を気に入っている訳が分かりました。確かに、声がとても良いです」

 高久は何とも言えない表情を浮かべた。

「そのおかげで、何冊かの本を音読させられています」

 わざと嫌そうに言ったが、鏡一郎は意に介していないようで満足そうに笑んでいる。きざったらしい笑みではない、少年のような笑みだ。

「……はぁ。分かりました。その代わり、全年齢の本以外は読みません」

「分かっている。貴様の声が聞けなくなるのは嫌だからな」

 いつの間にか緊張のけた雰囲気の中で、鏡一郎は声を低めた。

「じゃあ始めるぞ。相手は善悪なき神だ。……慎重に行くぞ」

 高久は鏡一郎と幸間に向けて深々と頭を下げた。

 鏡一郎はゆっくりと手を広げた。白い着物が、ゆら、と光る。透かし見える模様は蛇の目だ。

「いいか。神に抗うんだ。貴様ら、腹をくくれよ」

 ぱぁん、と軽やかに響く柏手の音は波紋が広がるように部屋に満ちた。

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