二 消えた記憶
朝の光が淡く満ちる。父の書斎だった部屋で
まるで写真のような鉛筆画だった。白黒写真と言われても分からないだろう。令人の画力の高さに感嘆しながらも、高久は糺の絵が入った写真立ての背後に並ぶ写真を見た。
村にいる時に撮った最後の家族写真、〈
こうして写真を眺めると、自分と糺は父に似たのだと思う。今や高久は叔父に似ていると言われるようになったから面白いものだ。表情の造作か、性格なのか、糺は叔父に似ていると言われたことはない。
どの写真も糺は豪快に、そして楽しそうに笑っている。今にも兄さん、と声をあげそうな糺の写真の前に、高久は
「糺。今までありがとう」
**
忙しない軍靴の音が行き交う中を、高久は歩いていた。
総司令部に入った時から慌ただしく動く軍人の姿があちこちに見える。その中には包帯を巻いた軍人の姿も多々、見受けられた。
〈
廊下に出てからもすれ違う軍人の姿は絶えず、書類を抱えながら慌てた様子で足早に歩いている。あちこちで忙しなく動く軍靴の音を聞きながら、高久は一度、立ち止まった。廊下に設けられた窓からは〈
日の光を浴びて浩々と輝く姿を前に高久は
――この名前では探せません。
あの後、口止めをしてから、冬目を総司令部に向かわせた。冬目は
そして今、高久は、もう一つの確信を得る為に執務室に向かっている途中だった。
〈白山〉から目を逸らした高久は教官室に向かって歩き出した。
**
「何かあった」
誰でもなく淡々と問うと、部下である
「あの、名簿が合わないんです」
それは先程、冬目とやり取りした戦歴の件と似通っていた。
「合わない?」
「はい。ここ近年の入学者の数が合わないんです。何度も確認しているのですが、どうしても空いている時期があるんです。妙に時期がずれているといいますが……」
小西は当惑しているようだった。
「その時期は?」
「それが……どうしても突き止められないんです」
ぞわり、と鳥肌が立つ。
可笑しいのに、突き止められない。
妙に時期がずれている。
(やはり……)
間も置かずに軍靴を鳴らず音が聞こえ、開いた扉から女性の声が飛んできた。
「失礼します! 高久軍曹が戻ったとお聞きしました!」
高久が振り返ると、参謀本部総務課の
「宮生中尉」
宮生はどこか焦っている様子だった。目の前の高久に気付くと口早に言った。
「すいません。高久軍曹。今、よろしいでしょうか?」
「分かりました。小西さん。その間に、合わないと思われるところをまとめてください。後で私も確認しよう」
「はい」
小西は
「合わない?」
小西の話を聞いていた宮生が眉をひそめた。その様子から総務課も同様のことが起きていることは察せられた。
「宮生中尉。もしかしてそちらも何か合わない所があるのではないでしょうか?」
高久に問われて宮生は顔をあげた。一瞬、答えに躊躇う表情を見せたが、その場の状況を見て判断した宮生は答えた。
「実は、参謀本部、総務課と会計課……いえ、おそらくですが、参謀本部中が混乱しています」
「混乱ですか?」
「はい。どうしても、合わないんです」
合わないんです――と宮生は何度も繰り返した。
「何が、合わないのですか?」
高久が問うと宮生は迷うことなく答えた。
「会計の金額です。何回計算しても、合わないんです。特に、年月が合いません。とある時期の記憶だけが、ぽっかりとなくなっているような違和感があるんです」
「違和感……」
高久は澄人と居た時に常に感じていた違和を思い出した。突き止めようとすれば阻まれる妙な感覚だけが残っている。
「はい。ただ、それが何であるのか、分からない。いえ……突き止められないと言った方が正しいのかもしれません」
「それはいつからか、分かりますか?」
宮生は空いている手で指折り数え始めた。だが、一、二、三、と来たところで宮生の指は止まってしまった。自分の指を凝視したまま、固まっている。これは冬目の時と同じだった。
まるで見えない何かに阻まれているような妙な感覚が国中を包んでいるかのようだった。
「宮生中尉。先に用件をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
宮生は我に返ったように指から目を離して頷いた。
「……そうですね。こちらに来たのは、高久軍曹に確認したいことがあるからです」
高久は即座に自分の席に案内した。机の背にある窓の外から見える空は清々しいまでに晴れ渡っている。空高い景色はどこまでも広がり、〈白幹ノ国〉を白く淡く見せている。
高久は近くの椅子を引き寄せようとしたが、宮生に断られた。
「すぐに戻らないといけないので大丈夫です。机の上に書類を広げてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「お忙しい所を申し訳ございません。澄人少尉に提出して頂いた書類に不備があったものですから」
宮生は高久の机の上に半券と申請書類を並べ始めた。
「不備ですか?」
高久は半券と申請書類を見た。〈
書類には澄人の文字で名前が書いてあり、半券の裏には高久の名と共に澄人の名前が書かれている。一見すると何も問題が無いように見えた。
「何か問題が……?」
「処理出来ないんです」
処理できない、という言葉に高久は怪訝な顔を書類と半券に向けた。
「その為、高久軍曹に確認する必要がありました。澄人少尉にも確認したかったのですが、いらっしゃらないのでこちらに」
高久はもう一度、半券を見た。やはりどこにも不備はない。
「半券も名前も間違いはない筈ですが……」
宮生は俯き、しばらく思案していたがぽつり、と零した。
「……少なくとも、この名前ではないのです」
そう言って宮生が指したのは、澄人の名前だった。高久は冬目の言葉を思い出していた。冬目もまた、同じことを言ったのだ。
――少なくとも、分かることはひとつです。この名前では探せません。
**
高久は〈教育総監棟〉と〈
嘘ではないが、高久の目的は澄人の
四階の隅にある戸籍謄本室の扉は開いており、人の声がひっきりなしに聞こえてくる。高久は戸籍謄本室の中に入った。全員が照合や確認などで書類から目を離さない為に高久が入って来たことに気付く者はいなかった。
天井まである備え付けの本棚が幾つも並んだ部屋は整然としていた。棚の中には紐で閉じられた細長い箱が隙間なく背表紙を揃えて並んでいる。
高久は〈ゆ〉の棚の前で立ち止まり、書類箱の下にある真鍮の、名字を記した紙が入れられているラベルプレートを見た。
中には綴じられていない戸籍謄本がそのまま入っている。高久は戸籍謄本をまとめてつかむと、手早くめくり、中身を確認した。
だが、本来あるべき場所に澄人の戸籍謄本だけがない。
それを見た時、高久は無意識の内に深く、息を吐いていた。
(少なくとも……生きている)
冬目の〈
戸籍謄本の紙を捲っていた高久は、とある所で手を止めた。
顔の無い女性の写真があったからだ。雪村家に〈のっぺらぼう〉の一族が嫁いだ話は聞いたことがない。高久はすぐさま、名前を確認した。
――雪村
その写真の中の女性は確かに顔が無かった。白い髪と生気のない白い肌は着物の鮮烈な赤色と相まって一層、白く見えた。前髪が眉の下で切り揃えられている為に記されている年齢よりもはるかに幼く見える。
その人は雪村澄人の、亡くなった母であった。
高久は写真を前に体中が総毛立っていた。高久は澄人の母の顔を見たことはない。それでも、澄人と生き写しであることは羽坂から聞いていた。
(澄人の顔に繋がるものなら、母親の顔さえ無くなるのか……)
澄人の母親の戸籍謄本を見た高久は雷に打たれたような衝撃を受けた。そこには責任者として
(やはり)
高久は戸籍謄本を書類箱の中に入れると紐を結んでから棚に戻した。
(やはり、そうか……)
基本、戸籍謄本は常に変動する。澄人の母が
雪村家はかつて、大将を五人も輩出した名家であり、谷屋家は代々、部下であった。本来ならば谷屋
本来ならば、縁談は流れたまま、
だが、一度、破談になった縁談の恨みがあったのだろう。希世が亡くなると雪村家は娘の亡骸と共に戸籍も谷屋家から取り上げたのだ。
雪村希世の戸籍謄本には谷屋家から戸籍を外した事の詳細が細かに記されていた。潰れる程に書かれた細かな字からは当時の様子がありありと伝わってくる。当時は相当に揉めたのだろう。谷屋家が最後まで抗議した様子が書かれているが、それでも希世の遺骨が戻ってくることはなかった。
雪村家と谷屋家の力関係は今も変わっていない。だからこそ、澄人は谷屋から雪村へと姓を変えることが出来たのだ。
そして、それは雪村の姓も同様に。
高久は向かったのは〈は〉の棚だった。
ラベルプレートの名字を確認しながら歩き、目的の名字を見つけた高久は息を吐いた。
(もし……あの時の羽坂の言葉を真に受けるならば)
それは、どこかの店で珍しく酔っぱらった羽坂が言った言葉。それを高久は酔っぱらいの戯言として真に受けなかったのだ。
――なあ。高久。俺は澄人を引き取ろうと思う。
あれは〈
「引き取るって……〈
だが羽坂は首を振った。高久はまさか、と言わんばかりに慌てて詰め寄った。
「まさか、〈
だが、羽坂はあり得ないと言わんばかりに一蹴した。
「馬鹿を言うな。……〈
酒が進んでしまったのだろう。高久は〈家籍〉に至らなかった自分の思考に苦笑しつつ、酔いを
〈家籍〉は親子関係を結ぶ〈縁ノ子〉と、異性、同性の婚姻を結ぶ〈縁ノ結〉と違い、家族関係を結ぶ為の籍である。互いに親族含む縁を断ち切り、新しい家族を作る制度だ。その為、互いのどちらか他の相手と〈縁ノ結〉をしても〈家籍〉があるので遺産相続や家督を継がせることが可能になる。一生、家族と同等の権利を有することが出来るのだ。
「……そこまでやるか。澄人はあくまで生徒で、今はお前の上官だ」
それでも、高久は心のどこかで分かっていた筈だった。羽坂と澄人の関係は、恋人ではないが、親子でも、兄弟でも、友人でもない。
この関係を表すに適切な言葉を高久は知らなかった。それでも、羽坂と澄人の間には切れない
羽坂はカウンター席に突っ伏しながら高久に答えた。
「俺はな……あの人に幸せになってもらいたいんだ」
カウンター席に突っ伏した羽坂の表情は見えない。ただ、その言葉に祈りのようなものを感じながらもそのまま眠りこけた羽坂を前に高久は真に受けなかったのだ。
澄人が谷屋から雪村に姓を変えたのはその後のことだったからだ。
高久は書類箱を手に取った。紐を
親兄弟の顔より何度も見て来た顔の、その次をめくった時、高久は思わず目を閉じていた。
顔の無い写真。それは澄人であることを示すものだった。
(羽坂……お前は……)
覚悟を決めた高久は目を開け、戸籍謄本を見た。そこに記入されていた名前は確かにこうあった。
――羽坂澄人。
羽坂はあの後、本当に澄人と家族になることを選び、〈家籍〉を結んだのだ。
続く文字を見た時、高久は頭が真っ白になった。体が打ち震えるような心臓の音が一層、手の震えを激しくした。
――羽坂澄人、二十歳、〈
澄人の年齢は今、二十一だ。謄本に記されている年齢から見ると一年前に行方不明になっている。
(ならば、あの澄人は……)
そして、その下には羽坂と澄人の〈家籍〉を見届けたことを示す証人としての自分の名前が記されていた。
「二年前……」
記されていた年は二年前のものだった。だが、その記憶は高久の中から消えていた。存在していないのではない。明らかに消えているのだ。
〈白山ノ戦〉の記憶も――消えている。
――私は、もう、追いかけることが、できない。
別れ際の澄人の言葉を、声を思い出す。あの声は、切望だ。澄人の切なる祈りの声。それは羽坂に対する祈りの声だった。
(澄人……)
戦争で行方不明になった軍人のその後を高久は嫌でも知っている。生存率は遙かに低く、
もしかしたら、澄人はもう――。
消えた記憶を当てもなく探しながら高久はしばらくの間、立ち尽くしていた。
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