喫茶「ブラックホール」③
電気は通っているだろうか。水道は。どう通したのだろう。そこが逃げ道になるだろうか。ネズミの一匹でもいれば、彼に伝言を頼むことができたのに。棚に狭しと並べられたアンティークなカップは、飾られた当時の時代を注ぎ入れて、古めかしいにおいがする。何に使うのかもわからないネジマキにも意味はあるはずだ。天井からつられているのは、人口の観葉植物だけ。他には何もない。息遣いはどこからも漏れ出ることなく、僕の肺の中に入って、出てきたばかりの空気が、居心地悪そうに雲に交じって消えていく。
足元に置いてあったカゴを覗き見ると、香木が放り込まれていた。探してみると、香炉も見つかった。ここの主人はいい趣味をしている。マッチで火をともしてみる。眠っていた雰囲気が目を覚まして、永い眠りから覚めたばかりの体を無理に動かしている。ゆらゆらと空気が揺れて、空を撫でるさまは幻想的だ。
しばし、揺らいだ。
カラコロンと音がした。この喫茶店に歩み入るものがあった。
白いぶわぶわとした厚着を身にまとった彼は、重力の重苦しさにあえぎながら、扉の合間を縫って体をねじ込もうとしていた。僕は当然助けに入った。彼の服をつかんで、喫茶店の中に引きずり込んだ。扉のスケールよりも大きな彼の存在は、無理にでも押し通さなくては喫茶店の中に入ることはできなかった。向こう側から誰か押してくれれば、よほど楽に事を成すことができたろうに。この喫茶店を傷つけることがないように注意して、なおかつ最大限の力を出した。
わっ、と二人して転んだ。アンティ―クたちは微動だにしなかった。滑稽に踊り狂っているのは僕たち二人だけ。喫茶店の床に転がって、埃がいくらか舞い上がった。それもすぐに落ち着いて、喫茶店の中は静かだ。
「やれやれ」と宣いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。僕もつられるようにたちあがった。彼の纏う宇宙服が、この喫茶店の大切な装飾を脅かしはしないかとひやひやして、彼が立ち上がるまでのほんのわずかな時間を見守って過ごした。
宇宙服のヘルメット越しに、ようやく彼の顔が覗いた。別れた時と変わらぬ姿のままで、異なる時の流れの中で生きてきたような感覚があった。再会するのは、数えて十年も久しくなるが、彼の姿は、僕が彼を最後に見た瞬間から、まったく変わっていない状態でそこにあった。彼も僕を見止めたようだった。柔らかな笑みを口元にたえて、手を差し伸べた。
「やぁ、久しぶり。約束通り、迎えに来てくれたんだね」
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