ユメミール人のわずかな日々⑤

 しばらくとりとめのない話が続いた後、男は初めて腕時計を確認した。彼はひと仕事を終えたような満足げな表情をしていた。

 気づけば、僕はまた仕事場に戻っていた。机の上には次の仕事の指示が置かれており、半ば望んでいたかのような、親しみ深い仕事に傾倒する日々に戻ってきていった。僕の手にはよれたチケットがあった。夢を見る権利を行使するためのチケットで、労働に急かされ、休息すらまともに摂れなくなった現代社会では貴重な貴重なチケットだ。ひたすら順番を待つしかなく、いくら待っていたとしても、なかなか自分の番が訪れることはない。何にも代えがたい「睡眠」を得るためのチケットだ。

 僕のチケットには「権利行使済み」のハンコが押されていた。ヨレたスーツで職場に戻ってきた僕を、皆がうらやましそうに見ていた。いつのまにか、僕の順番はやってきていて、そして、何よりも望んでいた「睡眠」が、気づかぬ間に終わっていたようだ。

 僕は机の上に置かれた指示の内容を読んだ。何度も何度も繰り返した意義があるのかもわからない仕事だった。ただ、先ほどまで見ていたような、意味の分からないものではなかった。何事も仕事ととらえるようになってしまっていた。次を急かしてしまったり、目的がないと落ち着かなかったり。何事もない無目的な日々がただ淡々と続いていくことに耐えられなくなっていた。それが気づき。草原の小屋、どこまで行くのかもわからないドライブ。ゆとりとして欲していたはずの日々は、非日常に染まっている。体が順応してしまっているのだ、仕事に追われ続ける日々に。あるいは定期的に処方される薬に、そういう作用があるのかもしれない。誰かの所為にすることもできたが、誰かの所為にしても意味がないことは分かっていた。ほんのわずかな間、一時的に気持ちを紛らわすことができたとしても、結局仕事を続ける他なく、仕事をしている内に些細なことに置き換わってしまうのだ。

 公私の私があまりにも希薄になって、むず痒さこそ感じるようになった。どのような存在だったか、何をすればいいのか、何をしたかったのか、何を求めていたのか。

 何もかもを見失ってしまって、僕は僕の居場所を錯覚した。

 チケットの裏面には、次の「睡眠」のための申し込み方法が記載されていた。今この時は、僕はここに記入すべき意志を持っていなかった。ただ、またすぐに忘れてしまうだろう。あこがれは何処からか湧いてきて、空白を埋めるように強いるのだ。

 だから念のため、使用済みのチケットは破棄せずに持っておく。明日以降の、それはきっと連続しているようで端切れの悪い会話のように薄っぺらな連続体の自身の、有意義な意思決定を尊重するために。さぁ、仕事に戻ろう。

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