n番目のバニー③

 幸せな日々というのは総じて長くは続かないもので、あくる日、僕は君に見つかってしまった。蟻と戯れる日のことだった。うっかり携帯を取り落としてしまったのが原因だ。君は見られたことにひどく驚いたようで、真っ黒な目から涙をこぼしたまま、その場から逃げ去ってしまった。

 鞄を置いたままにしていたので、僕はもちろん追いかけた。君の家の場所はしっていたので、君が逃げ去ろうとする方向は容易に想像できた。裏門から外に出て、住宅街を駆けていく。夕暮れの時間帯で人通りも多くはない。背を丸め、よれたスーツに着られた男や、キリキリと締め付けるビニール袋の重みに赤く膨らんだ手の男。小学生が鈍色のランドセルを引きずる光景。僕らの姿はその日常に容易に溶け込んで、青春の一風景のようだ。

 君は足が速いので、追いつくまでには至らなかったが、僕もあきらめるわけにはいかず、息が切れるのも我慢した。脇腹の痛みはきっと気のせいだし、君の鞄をこそ大切にしなくてはならない。しばらく走って、ようやく君も観念したようだった。何より、ただうっかり見られて、その場を逃げ去ってしまえば済むと考えていたのだろう。僕がまだここにいることの理由がわからないようだった。

 僕は鞄を差し出した。君の髪は乱れ、額には汗がにじんでいた。

 君があまりにもおびえた顔をするので、僕はそれが悲しくなった。対照的に、この蕩けるような熱にうなされた時間を、永遠にしてしまいたかった。

 君がいつまでも鞄を手に取ろうとしないので、僕から歩み寄った。深く入れ込むことはしたくなかった──ただ見ているだけで十分だったのに、僕と君との距離が縮まって、君が現実になって、僕と君とを隔てていた細い細い糸が切れるのを感じた。

 君の眼の色は元のきれいな薄茶色に戻っていた。白目はその名にふさわしい色をしていて、透き通って美しかった。

 気づくと、君は倒れていた。僕の手には君のすらっとした首の柔らかさが染みついていて、君は苦しげな顔のままだった。瞼は落ちることをやめて、美しい瞳が渇いていくのを悟った。現実が追いつかず、僕はぼうっと立ち尽くしていた。カラスがカーと鳴いた。だから何だというのだろう。君の鞄を拾い上げる。あまりにも軽くて、中身は空っぽのようだった。教科書も筆箱も、水筒も弁当箱も、僕が届けようとしていたものは何一つ届いていなかった。

 再び目を落とすと、君は六人に増えていた。姿かたちは一様で何一つ変わらない。まぎれもなく君だった。夕陽が落ちてあたりを暗く染め始めていた。頭も、視界も、もやがかかったように、現実と非現実の境目を曖昧にしていく。明日の天気のことを考えている時間が、案外幸せなものだったのだと気づいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る