ビニールハウス②
未知の世界にわくわくしながら、バケツに残った水をこぼさないように気をつけた。水は残り少ないけれど、祖母からの合図がないのを見る限り、特に注ぎ足す必要はないようだ。ずいぶん軽くなったので、行きとは歩くリズムが違っていて酔いそうだった。土は変わらず柔らかいままで、それはあえて自分でまだ誰も踏んでいないところを踏み締めるからだ。
祖母は珍しくぼくを待っていて、ぼくがビニールハウスの入り口に立つと、重たい南京錠を外して、がらがらと戸を引いた。土ぼこりが少し舞って、それは我先にと逃げ出していくようだった。中には何もない。からっぽのビニールハウスだ。ビニールハウスの中が見えないのではなくて、何もないから見えるはずもなかったのだ。からっぽからっぽ。重たい南京錠を端に避けて、祖母はぐつぐつと中に踏み入っていく。
ぼくはしばらくあっけにとられていたけれど、祖母に置いてかれまいとおそるおそる足を踏み出す。むわっと嫌な空気がぼくにまとわりついて、この中の空気は果たしていつからここに閉じ込められていたのだろうと思った。ぼくは、このビニールハウスの戸が開いているのを初めてみたのだ。ぼくが遊びに来ている日以外には、あるいはぼくが寝静まっている朝早くには、祖母がここで畑仕事をしていたのかもしれない。ただそんな思いもほどけて消えるくらいに、長い時間の呪いのようなものを肌でひりひりと感じている。後ずさる気持ちとは裏腹に、体は前に歩み出ようとする。冷たく心地よい外の空気がぼくの背を寸前まで引いていた。ただぼくはもうその手を放してしまって、真っ暗なビニールハウスの中へと吸い込まれていく。
土と、いくらかの転がった農作業の道具と、ちりちりに使い古されたタオルと、干された大根。さび付いたハサミは誰のものだろうか。バケツの水がみるみる濁っていく。祖母の言葉で我に返った。祖母はこちらにこいと手招きしていた。妙に寒くて、バケツを地面に置いた。祖母の様子は普段と変わらない。何もないところを指さす祖母を見据えて、一歩一歩を大切に歩く。
ここにあるのが見えるだろう、と祖母は言った。
何も見えないぼくは、どれのこと? と問うた。
実際、そこには何もないように思われた。祖母はさも何かを持ち上げるようなしぐさをしているが、それはお正月にテレビで見たパントマイムみたいに、いや、それをお父さんが真似た時みたいに滑稽で、不格好なものだった。ぼくには到底冗談にしか思えなかったが、祖母の顔はいかにも真剣そのものだった。
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