「星月夜」と「眠るジプシー女」
九月ソナタ
「星月夜」と「眠るジプシー女」
ニューヨーク近代美術館・501号室。
灰色の大きな壁に、ゴッホの「星月夜」が掛けられている。
少し離れた右側には、アンリ・ルソーの「眠るジプシー女」
ふたつの絵画は、日が落ち、来館者が途絶えた夜になると、そっと息を吹き返す。
これは、互いを知らぬまま隣り合ってきた二枚の絵が、初めて言葉を交わした夜の物語。
*
どこからか声がして、「眠るジプシー女」に描かれたライオンの耳がぴくりと動いた。
「こっちへおいでよ、砂漠のライオンさん」
隣の「星月夜」を見ると、青い空はうねり、白い渦が夜をかき混ぜ、星々は花火のように瞬いている。
ジプシーの砂漠には星がひとつもない。だから。ライオンにとって「星月夜」は、夢の向こう側の世界のように見えた。
「だれだ?」
ライオンは低く唸るように問う。
「わたしたちよ」
十数個の星が一斉に答えた。
「あなたはいつもジプシーを見つめているわね。いつも無視されているのに」
「彼女は眠っているだけだ。俺は、そばで見守っているんだ」
「でも、あなたは時々、ちらりとこちらを見るでしょう。来てみない?」
「そっちには、行かないよ。こっちには、ジプシーがいるんだから」
「そうよね。どうせ、こっちに来たって、すぐ帰ることになるでしょうけどね」
と、少し離れたところで、青白い星がつぶやいた。
「一人が好きなあなたが、こんな騒がしい空に長居するわけないもの」
「そんなことない……」
そう言いながら、ライオンは一歩、また一歩と近づいていく。
「早く来て。こっちはひまわりの香りが漂っているわよ」
「ひまわりって、どんな匂いなんだ?」
渦巻く夜空から、ひときわ大きな白い星が光の手をのばす。
「さあ、いらっしゃい。ここはにぎやかで、楽しいわよ」
「じゃ、行ってみるか。ちょっとだけ」
ライオンが「星月夜」の世界へ足を踏み入れると、星たちはきゃっきゃと喜び声を上げた。
「まあ」
白い星のそばの糸杉が風に揺れながら言う。
「ライオンさん、砂漠の匂いがするのね」
「砂が悪いか」
ライオンがむすっと言うと、星たちはびくりと震え、光をこぼした。
「悪いなんて言ってないわよ」
星たちは互いに目くばせをした。余計なことは言ってはダメよ。ライオンはこわいのだから。
「ねえ、教えて。どうしてジプシーは眠ったままなの?」
小さな星たちがくるくる回りながら問う。
「知らない」
やっぱり動物は荒っぽい、と星たちは思い、すこしだけ招待したことを後悔した。
「でも、ただじっとそばにいてあげることって、案外むずかしいのよ。みんななら、できる?」
と小さなめの星が、小さな声で言った。
「もしかすると」
黄色い三日月が、そっと口を挟んだ。
「あなた、さみしいのでしょう。ジプシーが目を覚ますのを待っているんじゃありませんか?」
「そんなことわからんけど、そうかもしれない」
ライオンは首を垂れ、低くつぶやいた。
「ライオンさんがそんな弱気なことを言うなんて意外ね。正直な方だわ。もっと勇ましい冒険話が聞けると思っていたのに」
でも、すこし期待外れみたいね。
星たちは神妙な顔になった。
「ライオンさん、もう戻った方がいいわ」
糸杉が静かに告げた。
ライオンはきらめく夜空を見上げた。
「帰る」
ライオンが自分のキャンバスに戻り、眠るジプシーのそばへ体を横たえたとき、彼女の口元がかすかに動いたような気がした。
「ライオンさん」
微かな声が聞こえた気がした。
「ジプシー、俺を呼んだのか?」
しかし彼女の瞳は閉じたまま。月明かりに照らされた頬は、いつも通り静かで穏やかだった。
「なんだ、まだ寝てるのか」
そうつぶやいた瞬間、ジプシーがそっと目を開いた。
「戻ってきたのね」
「当たり前だろ。ここが、俺の住む砂漠だから」
「わたし、夢を見ていたの」
「どんな夢だ?」
「青い空……うねる雲……星が踊る夜よ」
ライオンは息を呑んだ。
「それは……」
「あなたが行ってきた景色でしょう?」
ジプシーはゆっくりと目を開ききった。その瞳には、「星月夜」の輝きが宿っているようだった。
「そうだ。俺は、ただ……」
「ありがとう。戻ってきてくれて」
ジプシーが微笑んだ。
「わたしは口下手なマンドリン弾き。夜は眠ってばかりだから、あなたをさみしがらせてしまっていたのね。星たちとおしゃべり、してみたかったのでしょう?」
「……うん。友だちがほしかったんだ」
ライオンは顔を赤くした。
「仲良くなれた?」
「いや。みんな、俺をこわがってる」
「あなたのたてがみはこわいけど、心はとてもやさしい。わたし、知ってる。だって、一度だってわたしを傷つけたことないもの」
「いやぁ……そんなふうに言われると照れるな。やさしい言葉に、慣れてないんだ」
ジプシーはふっと柔らかく笑った。
「あなたが帰ってきたとわかった時、とても嬉しかったの。なのに、嬉しいって言えなくて、また寝たふりなんかしてしまったわ。それが、わたしなのだけれど」
ライオンは何も言わず、ただ彼女を見つめ、俺達の似ているところを一つ見つけたと思った。
「ライオンさん。また行ってきてもいいのよ。でも、戻ってきてね」
「ああ、わかった」
ジプシーの唇に、小さな笑みが浮かんだ。
501号室の窓から、朝の光がそっと差し込む。
美術館の警備員の靴音が、廊下から近づいてくる。
コツ、コツ、コツ。
ライオンは一瞬だけ、「星月夜」の方を振り返った。
星たちは今は黙っているが、夜になればきっとまた話し始めるだろう。
でも、俺はもう行かない。
ここにいるのさ。
そして、今夜はジプシー女が目覚めたら、マンドリンを弾いてもらおう。
俺だって、歌えるんだぜ。
了
「星月夜」と「眠るジプシー女」 九月ソナタ @sepstar
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