第五話

運営チームが「公式イベント」としての追走劇を宣言する数分前。

カイトは、中立都市「ラセツ」の喧騒から外れた、古びた宿屋の地下室に身を潜めていた。

石壁に囲まれた薄暗い部屋。カイトはベッドに腰を下ろし、震える手でメニュー画面を見つめていた。ステータスバーの横には、先ほどまではなかった【指名手配:Priority A】という不吉なアイコンが明滅している。

「潜伏……って言っても、この影がある限り、隠れるなんて不可能に近いよな」

足元を見る。14本の影は、この狭い地下室の中でも勝手に動き回り、壁や天井を這いずっている。ある影は棚の上の小瓶を弄び、ある影は退屈そうに羽を動かしている。

『そう悲観するなよ、主。俺たちが影の中に引っ込んでりゃ、外見上はただのレベル1の雑魚プレイヤーだ。……まぁ、あの“天使様”が許可すりゃの話だがな』

ベリアルの声が、右足元の影から響く。

『ベリアル、あなたと一緒にしないでください。私は主様の安全を第一に考えています。……主様、今のうちに「影の重なり(シャドウ・スタック)」を練習しましょう。14柱の存在を一本の細い影に凝縮するのです。そうすれば、プレイヤーの目もシステムの監視も欺けます』

セラフィエルが諭すように言う。カイトは彼女の指示に従い、意識を集中させた。14の異なる意思が自分の精神に流れ込んでくる感覚。それは、脳を14分割して同時に別々の計算をさせられるような、強烈な負荷(プレッシャー)だった。

「ぐっ……、あ、ああ……!」

『こら、そこのマモン! 勝手に主の空腹度(ハンガー)ゲージを盗み食いするんじゃない! 集中が乱れるでしょう!』

『ケチ臭いこと言うなよセラフィエル。この主、緊張のせいでカロリー消費が激しいんだぜ? 俺が半分持ってってやってんだよ』

脳内で響く喧嘩。カイトの額から汗が流れる。

必死に14の影を一点に手繰り寄せる。どろりとした黒い粘土をこねるように、時計の文字盤だった影が徐々に重なり合い、やがて一本の、ごく普通の少年の影へと収束していった。

「はぁ……はぁ……。できた、のか?」

『完璧です。これで視覚的な異常は消えました。……ですが、主様。お急ぎください。先ほどからシステムの通信ログが異常に跳ね上がっています。運営が何かを“仕掛けた”ようです』

セラフィエルの警告と同時に、カイトの視界に強制割り込みのシステムウィンドウが展開された。

【全ワールド緊急告知:『観測者の追走(バウンティ・ハント)』開始】

対象:プレイヤー『カイト』

内容:対象の影に宿る「14の断片」を回収せよ。

報酬:伝説級(レジェンダリー)装備、特別称号、および1,000,000G。

※本イベントは全陣営(天使・悪魔・中立)が参加可能です。

「……冗談だろ」

カイトの顔から血の気が引く。

100万ゴールド。それはこのゲームを一年やり込んでも届かないような大金だ。そして「伝説級装備」の文字。

ドスン、ドスン。

宿屋の階上から、慌ただしい足音が聞こえてきた。

「おい! 掲示板見たか!? あの14本の影の奴、この街にいるらしいぞ!」

「100万Gだ! 捕まえれば一気にトッププレイヤーだぞ!」

「隅々まで探せ! 隠れる場所なんてこの街にはねえ!」

2026年の最新AIを搭載したNPC店主の「いらっしゃいませ」という声が、怒号にかき消される。

「見つかるのは時間の問題だ……。セラフィエル、ベリアル。僕たちはこれからどうすればいい?」

カイトが小声で問いかけると、影の中で14人の笑い声が重なった。それは不敵で、清廉で、狂気に満ちた合唱。

『決まってんだろ、主。追いかけてくる奴ら全員、絶望させてやるのさ』

『逃げるのではありません。これは“導き”です。主様、この混沌とした街そのものを、あなたの最初の“領地”として書き換えてしまいましょう』

カイトは立ち上がり、安物のフードを深く被った。

一本に重なった影が、獲物を狙う獣のように、一瞬だけ鋭く蠢いた。

「……僕の道を行くって言ったんだ。賞金稼ぎだろうが運営だろうが、邪魔はさせない」

地下室の扉を蹴り開け、カイトは光の射す地上――プレイヤーたちが飢えた狼のように待ち構える戦場へと踏み出した。

これが、後に「ラセツの惨劇」あるいは「観測者の進撃」と呼ばれる伝説の、本当の始まりだった。

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