一輪咲いても梅は梅④
「
「……そうね。あたしももう行くわ」
だからこれはほとんど気休めのようなものだ。両耳の上でサイドの髪を丁寧に留めた鞠佳は
すでに仕事を終えた井浦はくつろいだ様子で顔に風を送っていたが、鞠佳が戻って来るのを見るとうちわでぱしぱしとこちらの肩を叩いてくる。
「行ってらっしゃいマリちゃん。楽しんでね」
「鞠佳ちゃん、頑張ってくださいね!」
何か言葉を返そうとした鞠佳は、不意に視線を感じて顔を左側に向ける。決勝リーグに勝ち残った五校が総当たりの試合を次々に消化している女子側のフロアには荷物と人とが密集していたが、鞠佳はその中から視線の主を探し出すことに成功した。
白や赤の幾何学模様があしらわれた濃いオレンジのユニフォーム。
双方のベンチを見比べた双子はコーチの言葉に頷く浜崎とチームメイトに送り出されようとしている鞠佳の姿を捉え、二人がシングルスで当たるのだと理解するなりぱっと顔を輝かせた。
あの双子の考えていることくらい鞠佳にもわかる。元チームメイト同士の試合を見たくてたまらないのだろうが、残念ながらあちらはあちらでダブルスの真っ最中のようだ。むっつりと頬を膨らませて卓球台に戻っていった双子は往生際悪くベンチを振り仰いだ。紗良は花ノ谷の、由良は正藍寺の側を向いて片手を高く掲げる。
「鞠佳ちゃん、あれって……」
素直に海玲さんとあたしの双方を応援できるのだから、あいつらは少なくともあたしなんかよりよほど物事を割り切って考えているのだと思っていた。
口元にこびりついた苦笑がなかなか消えてくれない。コートに向かって歩き出した鞠佳は台の支柱にタオルをかけ、ラケットのグリップを握った。互いに一礼するまでのわずかな間に浜崎とほんの一瞬視線が交錯して、鞠佳は咄嗟に下を向く。
じわりと目が熱を帯びるのを感じる。何球かの練習を終え四方に礼をした鞠佳は、余計な間を入れることなくサーブの構えに入った。
すぐに試合に入ることで強制的に気持ちを切り替える。鞠佳には、自分の感情を抑える手段がこれしか思いつかなかったのだ。
三つの星が描かれた白い試合球。投げ上げたボールの底を切るように左から右へと振り抜いた右腕に、力を入れて振り回すたび熱さにも似た鈍い痛みが走る。三日間延々と試合ばかりしているのだから腕が重いのも当然だ。
緩いドライブを弾くように切った鞠佳は、次の打球に対応するため体をニュートラルな状態に戻す。浜崎がぐっと体を捻ってフォアハンドを振る。右へと大きくステップを踏んだ鞠佳の足元でシューズの底が鳴った。
弧線を描くように右腕を振り切り、短い溜めから軽々と放たれたドライブを返球した鞠佳はまた台の中央近くへと立ち戻る。延々と続くラリーに、首筋のあたりで短い髪がはためいた。
来たボールをひたすら返し続ける。豊富な運動量が要求されるカットマンの試合は必然的に長くなり、肉体的にも精神的にも相手の消耗が大きくなるとされている。
とはいえ鞠佳のプレーは相手を悩ませるには素直すぎるのだし、浜崎は昔からカットマンを苦にしないタイプのプレーヤーであった。なにせ園部には
県でもトップクラスの強さを誇る浜崎、キャプテンシーと確かな実力で部を牽引する井浦、控え目だが面倒見がよく確実に自分の仕事をこなす小野寺。
三者三様の個性を持った最上級生はチームの中心であり続け、当時の園部中は輝かしい成績を残した。そんな先輩たちが引退した直後、鞠佳の目には新しいチームが残酷なほど様変わりして見えた。
去年の出来事は思い出すだけでも億劫だ。新たに園部の部長を任されて、どうしようもなく足りない自分の能力に歯噛みして、毎日無我夢中で駆け回って、最後は見る影もなく敗北した。
順位になど興味なさげな部員たちの態度に、それを見てさらに激昂するOBの言葉に打ちのめされ、鞠佳はひどく空虚な気持ちに浸っていた。結局使命感に駆られていたのは自分だけなのだと気付いてしまったからだ。
同級生の中でも温度差は激しかった。鞠佳の愛した園部というチームを、頼もしかった先輩たちを、すべての部員が同じ真剣さで慕っているわけではなかった。
そんな連中は鞠佳が何を言ったところで耳を貸すはずもない。どれだけ必死になったところで最初から無駄だったのだ。けれど鞠佳は、由良と紗良までが自分の言うことを聞き入れてくれないとは思ってもみなかった。
あの双子の態度はたしかに過激だった。それもそうだと、仕方がなかったと今なら思える。鞠佳は園部の連覇を途絶えさせまいとするあまり由良と紗良に無理を言った。二人にしか通じないことで笑ってばかりの、いつもぴたりと寄り添っている騒々しい双子。
鞠佳はそんな二人からダブルスで戦う機会を取り上げようとしたのだ。団体戦でのシングルス起用について持ちかけると二人は血相を変え、いつになく余裕のない様子で鞠佳を攻撃した。
――マリカちゃんの馬鹿、なんでそんなこと言うの? 二人で組めないならユラ部活辞めるからね。
――サラも! もうやだ、今の部活全然楽しくない。
マリカちゃんはこれでいいの、と聞かれて、どう答えたらいいかもわからなかった。部長になってから、部活が楽しいなどと思ったことは一度もない。
シングルスでの起用を断られた鞠佳は二人が自分に歯向かっているのだとしか考えられなくなっていた。追いつめられて、目の前のことしか見えなくなって、仲間を思いやる気持ちなどとうに失っていて、ただただ誰もが自分の敵だと思っていた。
今にして思えばひどい被害妄想だ。中学ではダブルスの試合は団体戦にしかない。あの双子は単に、二人で試合がしたかっただけなのに。少なくともあの二人は、ずっと鞠佳の味方だったはずなのに。
懸命にボールに追いつき、美しいフォームで重たいラケットを振りながら、鞠佳はぼんやりと過去に思いを馳せていた。自分の大好きだった園部というチーム、誰より強かった先輩たち。
不思議なことに、ばらばらになってしまったあの時のレギュラーは全員このフロアに揃っている。今まさに試合をしている鞠佳と浜崎が、二人にサインを出した由良と紗良がいて、花ノ谷のジャージを着た井浦がいて、そして美園と対戦する田宮二高のベンチには試合を終えた小野寺が座っている。なぜか愉快な気持ちになって、鞠佳は口元に笑みを浮かべてスイングする。
この試合が始まる前のこと。ちらりと目が合った時、浜崎はたしかに笑っていた。幸せそうに、懐かしそうに、どこか安心したように。その表情は鞠佳のものとそっくり同じで、だから急いで目をそらした。
鞠佳にはそれだけで十分だった。浜崎が真っ先に園部というチームから離れてしまったことを完全に許せるとは思わない。けれど、大好きな先輩が今でも同じ気持ちでいてくれるというだけで、心の中に重く凝り固まっていた疑念が少しずつ氷塊していくようだった。
後ろで一部始終を見ていた井浦や小野寺はどんな顔をしていたのだろうか。自分の目で確かめられなかったのが少し惜しいけれど、もしかしたら誰もが笑っていたのかもしれない。そうであれば嬉しい。
今いる場所がどこであれ、自分は園部が好きで、特別で――きっと、みんなもそうなのだ。楽観的な確信に満たされて、鞠佳は次の打球に意識を集中する。
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