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紅は園生に植えても隠れなし①

 いくつもの靴音が絶え間なく後ろを通り過ぎていく。

 集団に伝播していく緊張、その中でかすかに聞こえる親しげな囁き。各校の部員たちが遠ざかっていった後も人工的な甘さと爽やかさが入り混じった制汗剤の残り香はすぐには消えず、応援席の上段に座った平原ひらはらせいは小さく咳をする。

 新人戦二日目、午前から午後をまたいで予定されているのは個人戦女子シングルスの予選だ。


 大会中に昼休みは設けられていない。早い時点で予選を勝ち抜ければ長い休憩が取れるが、下手に残ると休みなく午前午後の日程を戦わねばならなかった。

 シングルスでは一次予選リーグを首位通過した選手が決勝トーナメントに進出できる。同組に正藍寺しょうらんじの選手がいればその時点で二位以下での通過が濃厚になり、予選の試合数が倍増するというわけだ。

 とはいえ、二次予選までで出場権を勝ち取れなかった選手にもまだチャンスは残されている。中学で敗者復活戦と呼ばれた試合は高校では代表決定戦と名前を変え、最終日の決勝トーナメントと並行して残り数枠を争う決定戦が行われるのだった。

 例のごとくシングルス予選を免除されている平原は午前中は特にすることもなく、午後三時頃から開始されるダブルス決勝トーナメントに備えて体を休めていた。


 見たい試合があるでもない。これが初めてというわけでもないのに、平原は大会期間中にぽっかりと空いた時間のやり過ごし方をまだ知らなかった。

 退屈を飲み込み丸い座席に背中を沿わせた平原は、やがて聞き慣れた明るい声が降ってくるのを聞いた。


「やっほーセイちゃん、隣空いてる?」


 すっかり忘れていた。男子も女子も出払った今の応援席に座っているのはシード選手だけではない。二次予選の開始を前に、一次予選を勝ち抜いた選手がフロアから戻ってきていたのだ。ビニール袋片手に紫がかったピンクのジャージを着込んだ井浦いうらは早くもほどいた髪を肩に下ろしていた。


「……見てわからない? 好きなところに座れば」

「そうじゃなくて! 昨日の今日で隣に座ってもいいかって聞いてるんだよねあたしは!」


 憤慨しながら背もたれをひょいと乗り越え、井浦はやや行儀の悪いやりかたで座席に収まる。結局人の答えを聞かないのだから聞くだけ無意味ではないか、と思いつつ、平原は黙って前を向いた。

 誰とでも円滑に会話をするのが自分の使命だとでも思っているのか、井浦はとかく周囲の空気に敏感だ。呼吸するような自然さで相手を笑わせ空気を和ませる徹底ぶりには平原も賞賛の念を禁じ得ないのだが、残念ながら井浦は平原の前でその責任感を発揮するつもりはないようだった。

 サンドイッチとフルーツヨーグルトを座席に並べた井浦はいかにもコンビニで買ってきましたという組み合わせの昼食を黙々と口に運んでいる。


 井浦はすでにダブルスでの県大会出場を決めており、午後の代表決定戦に出る必要はない。試合がないのだからそこまで急いで食事をとる必要もないように思われるのだが、井浦は見た目に似合わず食べるのが早い。

 てきぱきと主食を片付けデザートに移った井浦は、透明なスプーンにパイナップルを乗せたところで思い出したようにフロアへと目を転じた。


「あ、ユラだ。若山わかやますずと当たっちゃったか、微妙なとこだなあ……ところでセイちゃんは今どこの試合見てるの」

「特にどれも。若山さん、二次予選に回ってたの?」


 あれあれ、と井浦に指さされ、平原はようやく件のコートを見つけた。角度が悪く得点板はよく見えないものの、プレーを見る限り二人にそこまで大きな実力差は感じられない。


「一次で同じブロックだったんだよね。それであたしが一位通過だから、たぶん若山さんが二位。たしかに前より強かったけど、やっぱあの人異質は苦手みたい。ルコちゃんもそうだけど、田宮東の子は意外性のある相手だと急に受け身になるし」

「じゃあ、北沢さんにもチャンスはあるんじゃない」


 うむー、と思慮深く唸った井浦が一口大にカットされたフルーツをぱくつく。若山と北沢由良ゆらの試合はラリー戦の様相を呈していた。力強いドライブを素直に返球していた由良は、若山がコースを変えたところで自分も対応を変える。

 ボールが弾んですぐのところでラケットを出し、一瞬面に当てるだけのブロックで勢いを殺す。長いラリーの最中に短いボールを落とされて、台から離れていた若山が大きく前に踏み出した一歩は間に合わない。

 1ゲームずつを取り合って3ゲーム目、6-6――審判が横にした得点板には拮抗したスコアが並んでいる。額を拭った由良は得点を喜ぶこともなく相手のサーブに備えていた。

 巻幡まきはた静井しずいのペアに続いて春の総体で準優勝に輝いた双子のペアは、一年同士ながら県大会でも準優勝を飾った。この新人戦でも北沢姉妹が決勝まで上がってくるだろう、というのが大方の予想だった。


 ダブルスで抜群の相性を誇る北沢姉妹だが、シングルスでは由良のほうが一歩先を行っている。この二人は個々を見ると奇妙な選手で、バックに粒高を使う紗良さらのほうがトリッキーなプレーを見せるのかと思いきやそうではない。

 異質ラバーを使う紗良は割合堅実な戦い方に徹し、両面裏ソフトというオーソドックスなラバーを貼った由良のほうが相手の予想を外したプレーをするのだ。北沢姉妹と戦う時にはまずこのギャップを頭に入れておかねばならない。

 若山のサーブを低いツッツキで返す由良は傍目にも調子がよさそうだ。ヨーグルトの容器を袋にしまった井浦は、そういえばさあ、と何気ない調子で平原に話を振った。


「さっきダブルスの組み合わせ表見てきたんだけど、セイちゃんたち厳しいとこ引いてたよね。見た?」

「見た。一回戦が正藍寺で二回戦は北沢さんたちとでしょ」


 さらりと答えた平原は、それきり一向に返事をしない井浦を訝るようにちらりと横に目線をやる。と、形のよい眉を歪ませた井浦が大仰に肩をすくめた。


「さらっとしすぎ。もうちょっとなんかあるでしょ、うわっくじ運最悪、とか思わないんだ」

「別に。決勝で当たるか一回戦で当たるかの差だから」

「前にスミちゃんもそんなこと言ってたな~! 八倶坂やくさかのそのさあ、『一番強い相手と戦えれば満足』みたいな謎の勇猛さはなんなの? セイちゃんイズム?」

「わたしの性格と後輩の考えには何の関係も――」

「そう? わたしも井浦さんの言ってることはよくわかるけど」


 涼やかな声だった。応援席と通路を隔てる柵に両腕を乗せ、何食わぬ顔で話に割り込んできた人物は、音もなく階段を降りると二人のほど近くの座席に腰を下ろす。

 インディゴと水色、チームカラーを随所にあしらったハイネックのジャージ。二列分の段差から巻幡まきはたゆいを見下ろして、井浦はにこりと上品な笑顔を見せた。


「正藍寺の方が何のご用ですか? 一次予選も終わったんだし、話し相手には困ってないはずですよね」

「ご心配なく、お喋りしに来たわけじゃありませんから。平原さんに用事があって」

「あ、今お前は邪魔だからよそに行ってろっておっしゃいました?」

「そこまで言ったつもりはないんだけど。でも、少し静かにしてもらえると助かります」


 この二人を放っておいたら永遠に遠回しな口論を続けかねないと判断して、平原はぐいと井浦の袖を引いた。たびたび無神経な言動を窘められる側の平原が井浦を制するのだから普段とはまったく逆の構図だ。


「で、結局何の用なの。巻幡さんの後輩がどうしてるか聞きに来たわけじゃないでしょ」


 皮肉を言ったつもりはない。早く本題に入るよう促すと、巻幡はからからと笑った。


「林さんのこと? それならきっと、わたしよりあなたたちのほうが詳しいはず。わたしはレギュラー以外の部員のこと、本当に知らないから」

「……あれだけ人が多ければ仕方ないんじゃない」

「でも、あなたは部員が何十人いようと変わらなさそうだけど。平原さんは優しいから。わたしは人数の少ないチームにいたってそんな風にはなれない」

「何が言いたいの?」


 詰問めいた口調で問うてもなお穏やかに微笑む巻幡のすぐ横で、平原はきまり悪げに頬杖をつく。素直に心情を吐露すると同時に何かをはぐらかしているような、明快な言葉の裏で真意を小出しにしているような――というか、真意があるかないかもわからない。巻幡らしからぬ不明瞭さに、平原はかすかな苛立ちを感じていた。

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