綺麗な薔薇には棘がある⑥

 クラクションの音が聞こえる。すみません、とここにはいない誰かに謝って、中庭は慌てて車を発車させた。こちらの会話に気を取られて信号が青に変わるのを見過ごしたのだろう。すみれはこほんと咳払いして先を続ける。


井浦いうらさん、三年生にわざと負けてたんですね。先輩に負ければリーグ戦の順位が落ちる、そしたら団体戦での序列も下がる。先輩は本当に井浦さんより自分が強くなったんだと思い込んで、本番で苦戦しても井浦さんを出そうとは言い出さない、ってかんじですか。でもやっぱりわかんないです。井浦さん、なんでそんな面倒なことしたんですか?」


 菫の目にひたと捉えられ、井浦はようやく自分の失敗に気付いた。あの時――岩傘いわがさ日向の件を一年生たちに説明した日、井浦は事実を開示しすぎたのだ。


 ――オーダーは顧問が部員と話し合って決める形式になった。まあ一応、部内リーグ戦の順位とかを参考にはしてるんだけど。


 部内リーグ戦はレギュラーを決めるために行う。顧問が卓球に詳しくない場合、誰もが納得できる決め方をするならこれが一番平等なのだ。と言っても、平等な結果が出るのは全員が全力を尽くして戦った時だけの話だが。


 井浦は総体前のリーグ戦で六位だった。その前は五位。まだチームが強かった時代にはそんな小細工を弄する必要などなかったが、コーチが辞めてからというもの井浦は先輩を勝たせるようにプレーしていた。

 団体メンバーにぎりぎり選ばれる程度の立ち位置。状況に応じて出たり出なかったり、そんな微妙なラインを設定したのは井浦自身だ。

 もちろん疑われては意味がない。部内のリーグ戦で負けた選手が大会で飛び抜けた結果を出すわけにはいかず、頃合いを見てあっさりと敗退した。高校に入って以来成績を調整し続けたおかげで、井浦がシングルスで全県に行ったのはこの前の総体が初めてだ。

 菫の見解は正しい。実際、高校で伸び悩んでいる部員を装うなどというのは七面倒な方法だ。しかし井浦には、一年を犠牲にしてでも先輩を欺くだけの理由があった。


「あたしね、どうしても正藍寺に勝ちたいの」


 なぜ今更そんなことを言うのだろう。そう言いたげな顔で、菫がはいと相槌を打つ。


「そのためにはセイちゃんがエースで、あたしがシングルで出て、その他にも実力のある選手……たとえば、セイちゃんのダブルスパートナーも必要になるよね?」


 試すように問いかけると、菫は大儀そうに後頭部をクッションに乗せる。


「それはあれですか――先輩を見限ったってことですか」

「うん。あの先輩たちとじゃ上を目指すのは無理だと思った。セイちゃんの二点起用は認めないし、まともなコーチをよってたかっていじめるしで散々でね。これなら新入部員に賭けたほうがよっぽどマシだと思ったわけです。八倶坂やくさかの子はよく知ってるだろうけど、チーム作りは少しでも早く取りかかったほうがいい。一年のうちから場数を踏んでもらわないといけないから、先輩たちには早めに引退してもらうことにしたの。うっかり県大会に行けちゃうと始動が遅れて面倒でしょ?」


 井浦がけろりと言ってのけると、菫もまた無感情に頷く。菫の狙いは井浦を糾弾するでも批判するでもなく、ただ単に疑問を解消することにあるようだった。

 結果論だが今年の一年生は当たりだった。正藍寺しょうらんじの控え選手とはいえ美景みかげは十分な戦力になると、四月に新入部員を見た井浦は予想外の幸運にほくそえんだものだ。


「井浦さんが出ないだけで花ノ谷が負ける期待値はぐーんと上がりますもんね。じゃあ、リーグ戦の順位を落としたのは二個上の先輩たちが抜けてからですか? それともコーチが辞めさせられてから?」

「その間。コーチと先輩が揉めだしたあたりからかな。ちょっとずつ相手にあげるゲーム数を増やしていって、そしたら先輩たちも自分が強くなったって信じやすいじゃない。そうやって大会ごとに自信をつけて、しっかり慢心してもらおうかなって」

「やりかたが細かい」


 井浦のやったことは、一言で言えば丹念な小細工にすぎない。丁寧に調整し、手を抜かずに隠蔽する。井浦がこの企てを成功させたのはひとえに執念によるものだ。正藍寺に勝つ確率が高いほう。井浦にとって大事なのはそれだけだった。


「岩傘さんを引き留めようとしなかったのもそういうことなんですね。ちゃんとしたオーダーだと普通に勝っちゃうから、三年生を早く辞めさせるにはむしろコーチがいないほうが都合いいって感じで……えっと、さすがに追い出すのに加担したりしてないですよね?」

「あはは、あたしもそこまで悪人じゃないって。岩傘さんに嫌がらせして面白がってたのは先輩だけ。でも、みすみすコーチを辞めさせたのはほんと。あたし一人でもやろうと思えば問題にはできたかもしれないのにね。そこは申し訳ないことをしました」


 井浦は両手を膝に置いた。今度こそ、もう話すことは何もない。最後まで隠し通すつもりではあったが、すべてを打ち明ける清々しさはあった。これ以上説明を続けるつもりのない井浦の様子に、菫は神妙に頷いた。


「大体、わかりました。平原さんは団体の順位とか気にしないから、井浦さんが何か企んでても口出さないだろうし……井浦さんって、菫が思ってたよりずっと負けず嫌いなんですね。そのために大会を一年分捨てちゃうんだから」

「そう。全部私情なの。あたしってそういうタイプの部長だからさ、セイちゃんみたいなチームを何にも顧みない子がいてくれたのはラッキーだったな――あ、別に、あたしのやったことを正当化しようとは思ってないから。軽蔑してもいいよ」


 井浦は冗談を言ったわけではない。嫌悪されても仕方がないことをしたと思っているのは本当だ。しかし、菫の反応は意外なものだった。きょとんと目を見開き、しないですよ別に、と首を振って、水色のキャンディの包みをぴりぴりと割いている。


「だめなんですか、私情。だってみんなそうでしょ? 大体の人は全国大会なんて行けないし、全国に行く選手の中でもプロになる人は滅多にいないし……そしたら部活なんて、九分九厘私情でやってる人の集まりです。平原さんだって、菫だってそれはおんなじですよ」


 菫の唱えるあまりに大局的な持論に、井浦はへらりと破顔した。潔いというかドライというか、冷め切っているというか――ほとんど復讐にも似た思いを燃え上がらせて部活をしている自分とは違う。

 勝ち負けに拘泥しないが任された役目はきちんとこなすのが菫だ。何事にもさほど関心のなさそうなこの後輩に、ほんの少しだけ興味が湧いた。

 おかげさまで喉の痛みも治まった。口の中の甘味を洗い流そうと足元の荷物からペットボトルを探していると、運転席から控え目な抗議の声が上がった。


「あの、お二人とも。今のお話、僕も聞いてるわけなんですが」

瀬尾せおちゃんたちのいるところよりはここで言うほうが平和な話だな、って思います」

「あたしも。先生、しばらくこの話黙っててくださいね」

「もしかしてきみたち、僕を共犯にしようとしてますね?」


 二人が間髪入れずに答えると、中庭がこちらに非難がましい視線を投げる。なかなか察しがいい。井浦がにこりと微笑みかけると、バックミラーに中庭の苦々しい笑みが映った。


「これだから進学コースの子たちは怖い……」

「え、なんで複数形なんですか? 菫普通科に行く予定なんですけど」


 中庭の何気ない呟きに、菫が座席から腰を浮かせる。この様子では知らないのだろうが、花ノ谷かのや高校では一部の成績上位者は問答無用でF組行きだ。その前例であるところの井浦は、仲間というより獲物を見つけた捕食者の目でぽんと後輩の肩を叩く。


「それは無理だよスミちゃん。噂で聞いてるけど、あの成績なら多分内定」

「は? 本人の意思は?」

「うふふ、素が出ていらっしゃいますわよ菫さん」


 すっかり敬語が飛んでしまった後輩は誰もいない助手席のシートを凝視しながらなにやら呪詛めいた言葉を発している。

 夕暮れの中に校舎らしき建物が見えてきた。花ノ谷高校に向かう顧問の車は静かにスピードを上げ、緩やかなカーブをゆっくりと曲がった。

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